1-08 四条空翔Ⅰ
普通を渇望する少年は、普通に生きられない。
とある家族の団らん。
父と母に子供が二人。
子供は中学三年生の女の子と中学1年生の男の子。
男の子の名前は四条空翔。
父は賢人、母は唯。
姉は真理亜。
四人はソファーに腰掛け、穏やかに話していた。
空翔の膝の上では、黒い子猫が小さく丸くなっている。
「昨日来たばかりなのに、しっかり懐いたわね。空翔、次は私がだっこするからね」
真理亜は大の猫好きで、子猫に視線が釘付けになっていた。
「大丈夫? 勝手に連れ帰ってきて」
「大丈夫、飼われていればすぐにわかるから」
空翔の答えに根拠はない。
けれど、家族の誰も異議を挟まなかった。
唯が問いかける。
「名前は付けたの?」
空翔は膝の上の子猫をそっと撫でながら答えた。
「漆黒」
真理亜は目を輝かせて、子猫について次々と質問を投げる。
空翔は短く、しかし丁寧に返していく。
ふと、賢人が小さく息をついた。
「……二度目だな。猫を迎えるのは」
唯が続ける。
「新しい家族を迎えたこと、ステフィにも知らせに行かないと」
「それ賛成。次の日曜日に、お墓参りに行こうよ」
真理亜が明るく言い、賢人は静かに頷いた。
*
日曜日の朝は、薄い雲が空を覆っていた。
雨の気配はないのに、どこか湿った匂いが残っている。
金曜日の事故のざわつきが、まだ世界の端に引っかかっているようだった。
四条家は、午前中の早い時間に家を出た。
人の少ない時間帯を選んだのは、空翔のためだと誰も言わない。
けれど、四人とも自然にそうしていた。
漆黒は空翔の腕の中で静かに丸くなっている。
外の世界に怯えることもなく、ただ空翔の胸に顔を押しつけていた。
霊園は町外れの小さな丘の上にあった。
風が通り抜けるたび、木々がゆっくり揺れる。
空翔にとっては、息がしやすい場所だった。
唯が指をさす。
「……あそこよ。ステフィのところ」
白い小さな石が、草の間にひっそりと置かれていた。
名前は彫られていない。
けれど、四条家だけがその意味を知っている。
空翔はその石を見た瞬間、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
幼いころ、ステフィの背中に顔をうずめて昼寝した記憶。
冬の朝、真理亜と二人で毛布にくるまって遊んだ記憶。
ステフィが最後の数日、ほとんど鳴かずに寄り添ってくれた記憶。
どれも、柔らかくて、温かい。
真理亜は花を手向けながら、小さく息をついた。
「……ステフィ、漆黒が来たよ。空翔が名前つけたんだよ」
その声は、懐かしさと少しの寂しさが混ざっていた。
真理亜にとってステフィは、十一年間そばにいた“姉みたいな存在”だった。
賢人は静かに手を合わせ、唯は石の表面をそっと撫でた。
四人の間に、言葉ではない記憶が流れる。
そのとき、空翔の腕の中の漆黒が身じろぎし、するりと抜け出して石の前に座った。
まるで、そこに眠る白猫を知っているかのように。
真理亜が小さく笑う。
「……ステフィ、見てるのかな」
空翔は漆黒の背中を見つめながら、胸の奥のざわつきが少しずつほどけていくのを感じた。
ステフィに温もりはもうない。
けれど、記憶は確かに残っている。
白と黒。
過去と未来。
その境界に、今、立っている。
漆黒が振り返り、空翔を見上げた。
その瞳は、どこまでも澄んでいた。
空翔はそっと抱き上げる。
小さな体は温かく、軽かった。
四条家の“二度目の猫”は、静かに、確かに、家族の一員になっていた。
*
霊園を出て、丘を下る道は静かだった。
風の音だけが耳に残る。
家族の足音が前を歩き、空翔は少し後ろをついていく。
世界の濃度が、またゆっくりと強くなる。
人の気配、遠くのざわめき、見えない視線。
それらが重なるたび、胸の奥がじわりと痛む。
──人が多い場所は、苦しい。
空翔はずっとそうだった。
幼いころから、世界が近すぎた。
他人の感情は好悪に関係なく、皮膚を通り抜けて胸の奥に触れてくる。
殺意は、ナイフだ。
その刃は空翔の心臓に直接突きつけられる。
金曜日の事故で、逃走犯の殺意が胸に刺さった瞬間を思い出す。
あの黒い刃が残した傷跡は、まだ消えていない。
けれど──
空翔を苦しめてきたのは、悪意だけではない。
誰かが嬉しそうにすると、その熱が胸の奥に流れ込んでくる。
息が詰まるほど強く、内側が焼き焦がす。
誰かが悲しむと、その重さが空翔の内側に沈んでくる。
胸の奥が押しつぶされそうになる。
誰かが近づこうとすると、その気配が心臓に触れる。
優しさでさえ、ざわめきをもたらし、体の痛みに変わる。
空翔は知っている。
自分は悪意だけでなく、“誰かの感情そのもの”が痛みとして届いてしまう体質なのだと。
だから空翔は、生きるために身につけた。
感情の向きを変える力を。
感情のベクトルを、別の方向へ逸らす方法を。
ただ、怒りや悪意は反射的に、相手に返してしまう。
それは、攻撃ではない。
ただ、生存本能からくる反射。
皐月に関わったのも、きっかけは生存本能からくるものだった。
皐月の心が沈んだ瞬間、空翔の胸の奥から、色がすっと抜け落ちた。
何も感じないのに、ただ冷たい。
そして、こみあげてくる耐えられない痛み。
その原因は、皐月の絶望だとすぐにわかった。
赭莉の“赤い感情”もそうだ。
皐月の苦しみを体の痛みとして受け取る空翔は、皐月を守りたい気持ちが先に立つ。
赭莉の悪意の向きを、赭莉自身へと反転させてしまった。
その結果、空翔の苦しみを赭莉にも味合わせてしまうこととなった。
胸の奥が、今も少しだけ重い。
──あれは、後悔だ。
空翔は誰かを傷つけたいと思ったことは一度もない。
ただ、自分が生きるために、自分と同じ痛みを与えてしまったことが苦しい。
家に戻ると、漆黒が空翔の足元にまとわりついた。
その温度だけが、世界の濃度を弱めてくれる。
空翔は自室に戻り、ベッドに腰を下ろす。
窓の外は夕方の色に変わりつつあった。
普通に生きたい。
ただそれだけなのに。
普通に生きたい渇望──
でも、”生きる”を優先した時に、目立たない、注目をあびないという選択肢しか残らない。
空翔は、そうやって今日まで生きてきた。
漆黒が膝の上に飛び乗り、丸くなる。
その小さな体温だけが、空翔を世界から守ってくれる。
明日は月曜日。
学校へ行く日だ。
空翔は深く息をついた。




