↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/11

1-09 四条空翔Ⅱ

月曜日の朝は、世界の輪郭が少しだけ濃かった。

空翔(そらと)は、家を出る前に息を整える。

こういう日は、世界のほうが勝手に近づいてくるⅡ


学校に着くまで、何も起きなかった。

誰にも触れられず、誰にも見られず、

いつも通りの“透明な通学路”。


問題は教室だ。


空翔は教室の扉を開け、誰にも気づかれないまま自分の席に座る。

椅子の脚が床を擦る音すら、誰の耳にも届かない。


(……今日も、普通に過ぎればいい)


そう思った瞬間、廊下から足音が近づいてきた。

空気の色が変わる。

知っている感情の色──静流(しずる)のものだ。


空翔は顔を上げない。

上げる必要がない。

どうせ、彼女の目には映らない。


扉が開く。

その一瞬、空気がわずかに揺れた。


静流が教室に入る。

いつものように前を向き、いつものように自分の席へ向かう──はずだった。

だが、静流の足が止まった。


「……え?」

小さく漏れた声。

驚きと、困惑と、理解できないものを見た時の沈黙。


静流の視線が、教室の空気をかき分けるように動き──

空翔の席で止まった。


空翔は、ゆっくりと顔を上げる。


静流の目が、まっすぐに空翔を捉えていた。


(……見つかった)


その瞬間、空翔の世界の濃度が一気に変わった。


静流の視線が、空翔の輪郭をなぞった。

その瞬間、空翔の胸の奥で、何かがひっそりと崩れた。

音はしない。

けれど、確かに“壊れた”。


(……どうして)


空翔は、呼吸の仕方を忘れたように胸が固まる。

吸うべきか、吐くべきか。

どちらも正しくない気がした。


静流の目は、ただ空翔を見ているだけだ。

責めてもいない。

問いただしてもいない。

ただ、そこに“気づいてしまった”人間の目。


空翔は視線をそらせない。

そらしたら、何かが追いかけてくる気がした。

逃げたら、世界の濃度がもっと強くなる。


静流は、まだ言葉を発していない。

ただ、驚きと困惑を抱えたまま立ち尽くしている。


静流の視線が空翔の輪郭をとらえたまま、

時間がゆっくりと伸びていく。


彼女は何も言わない。

ただ、一歩だけ──空翔のほうへ踏み出した。


その足音が、教室の空気を震わせる。

空翔の胸の奥も、同じように震えた。


(……来るな)


声にはならない。

願いにもならない。

ただ、内側で折れたままの言葉が沈んでいく。


静流の足が、もう一歩近づく気配を帯びた瞬間──


──キーンコーンカーンコーン。


始業のチャイムが、教室の空気を鳴り響いた。


静流の動きが止まる。

空翔の呼吸も止まる。


救われたわけじゃない。

むしろ、逃げるタイミングを奪われた。


チャイムの音が遠ざかるにつれ、空翔の輪郭だけが教室の中で浮き上がっていく。


静流はまだ空翔を見ている。

声はかけない。

でも、その沈黙がいちばん重い。


空翔は机の端をつかんだまま、動けなかった。

始業の鐘の音は、空翔の“普通”を静かに終わらせる音だった。



始業のチャイムが消えていく。

その余韻の中で、静流の“色”だけが強く残った。


授業が始まっても、静流の気配は薄れない。

むしろ──近づいてくる。


黒板のチョークの音が遠のく。

先生の声も、クラスのざわめきも、膜の向こう側に押しやられる。


静流の色だけが、空翔の席の周りにじわりと広がっていく。


(……やめてくれ)


胸の奥がきゅっと縮む。

痛みを伴う、世界に押しつぶされるような圧。


(……来ないでくれ)


願いは声にならず、ただ内側で折れたまま沈んでいく。


静流はこちらを見ていない。

黒板を見ている。

ノートを開いている。


それでも、色だけがこちらに向かってくる。


机の下で指を組んだ。

痛みを散らすように、爪が手のひらに食い込む。


意識を一点に集める。

呼吸のリズムを整える。

世界の濃度を弱めるように、ゆっくり、ゆっくりと。


いつもやっていることを少し強く──

そう、少しだけ強く念じた。


その瞬間だった。


教室の空気が、ふっと沈んだ。


ざわめきが止まる。

誰かのペンが落ちる音が、やけに大きく響く。

世界が変化する。


(……まずい)


背筋が冷たくなる。

この変化を知っている。

この沈み方を知っている。


静流の色が揺れた。

クラス全体の動きが、ゆっくりと“遅れる”。


そして──


「……あれ……?」

皐月の声が、かすかに震えた。


次の瞬間、皐月の身体が、椅子から滑り落ちるように崩れた。


教室の空気が一気に波立つ。

誰かが叫ぶ。

誰かが立ち上がる。


でも、空翔の耳には届かない。


世界の色が強すぎて、音の全てが遠い。

静流の色だけが、まっすぐに迫ってくる。



皐月が倒れた瞬間、ひどく冷たいものが広がった。


(……まただ)


この感覚を知っている。


昔、誘拐事件にあった時の空気。

赭莉が泣き崩れた時の沈み。

皐月が震えた時の、あの重さ。


全部、同じだった。


(……僕のせいだ)


否定しようとした。

でも、喉の奥で言葉が固まった。


今日、静流が空翔に気づいた瞬間──

内側の“それ”が、わずかに動いたのを感じた。


偶然じゃない。

皐月が倒れたのも、赭莉が苦しんだのも。

全部、空翔の“内側の何か”が反応した時に起きた。


(……やっぱり、……俺は、また……)


胸の奥が痛む。

罪悪感というより、「理解してしまった」痛み。


静流が空翔に気づいた時、空翔の内側が反応した。

皐月が倒れた時も、赭莉が泣いた時も、全部同じ反応だった。


そして、人が壊れる。


(……僕は、普通じゃない)


ずっと分かっていた。

分かっていたのに、認めたくなかった。


でも今日、静流の気配が触れた瞬間、確信した。

人の心を揺らし、壊してしまう“何か”があることを。


それは、空翔が望んだものじゃない。

選んだものでもない。

ただ、空翔の中にあるものが、触れた相手を壊す。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。