1-06 高坂赭莉Ⅰ
■ 回想:赭莉の小学生時代
高坂赭莉と新田皐月は、家が近かった。
玄関の灯りが見える距離、夕方になるとどちらからともなく外へ出た。
道端の白い線を踏みながら帰るのが、二人の習慣になっていた。
赭莉にとって皐月は、最初から“隣にいる子”だった。
静かで、おとなしくて、声も控えめで小さい。
赭莉が何かを言えば、必ず聞いてくれる。
その距離感が、赭莉には自然なものに思えていた。
最初は、それでよかった。
けれど、ある時期から、皐月の静けさが赭莉には“卑屈”に見え始めた。
赭莉が笑えば、皐月は小さく笑う。
赭莉が前に出れば、皐月は一歩下がる。
(なんで、そんなに引くの)
赭莉は、隣にいるなら同じ温度でいてほしいと思っていた。
自分の色に皐月が混ざらず、ただ逃げていくように見えた。
その違和感が、静かに苛立ちへと変わっていった。
苛立ちは、やがて“からかい”になった。
身体を軽く押す。
冗談で嘘を教える。
声をかけてきても気づかない振りをする。
赭莉の周りには、いつも取り巻きがいた。
赭莉が笑えば、みんなが笑った。
赭莉が指を鳴らせば、空気が動いた。
皐月はその中心から少し外れた場所に立ち続けていた。
そして“からかい”は、静かにその枠を越えていった。
赭莉の胸の温度が、気づかぬうちに一段沈んでいく。
皐月との距離が、歪んでいく。
そして、いつしかそれは“いじめ”へと変わっていった。
机に落書きが残る。
持ち物が消える。
「裏切り者」と囁かれる。
赭莉は、皐月が泣くところを見たかったわけではない。
皐月をいじめていると自覚すらない。
ただ、自分の色を見てほしかった。
赭莉の"からかい"は、ただ、自分の世界に皐月を引き込みたかっただけであった。
しかし──そんなある日、異変が起きる。
止めどなく訪れる自分のものとは考えられない感情の揺れ。
赭莉は気づいてしまった。
皐月に向けていた悪意が、いつの間にか、自分に返ってきていることに。
最初は気のせいだと思った。
けれど、その“悪意”の形がおかしかった。
誰かに責められたわけでもない。
言葉を浴びたわけでもない。
なのに、突然、胸の奥がぎゅっと掴まれたように苦しくなる。
(……なに、これ)
理由もなく涙がこぼれ落ちる。
悲しいわけでも、怖いわけでもない、意味のない涙。
わけの分からぬ感情が暴れ回り、赭莉は吐き気を催す。
世界の色が、一瞬で暗く沈んでいく。
何かに閉じ込められるような空気。
逃げ場のない圧迫感。
説明のつかない絶望が、波のように押し寄せてくる。
赭莉はその場に立ち尽くした。
周りの子たちは、何も気づいていない。
笑い声だけが遠くで響いている。
(……どうして、こんな……)
赭莉の"からかい"は痛みを伴っていた。
その感覚は、皐月を自覚なくいじめていた頃の“痛み”とは違っていた。
もっと深く、もっと激しく、心の底をかき回されたような痛みだった。
赭莉は、自分が犯したことの恐ろしさを強く叩きつけられた。
もう、これ以上、皐月を苦しめる気持ちは起きなくなった。
それどころか、自分がしてきたことの重さに耐えられなくなっていた。
(私は……なんてことを、皐月に……)
翌日から、赭莉の行動は変わった。
「ねえ、今日もあの子の机、隠しちゃおうよ」
いつも通り無邪気な悪意を向けてくる取り巻きたちに、赭莉は冷めた声を返した。
「……もうやめなよ。くだらない」
「え?」
戸惑い、不満げに顔を見合わせる取り巻きたち。
彼女たちは赭莉の顔色を窺うだけの存在だった。
赭莉は、取り巻きたちの無邪気な悪意を以前は“自分の色”として受け入れていた。
彼女たちの笑いは、赭莉の世界を支える音のように思えていた。
しかし、胸の奥の異常な痛みを知ったあと、その笑いが全く別のものに感じられる。
「……もうやめなよ」と告げた瞬間、赭莉はその世界から一歩離れた。
取り巻きとの接点は自然と少なくなり、歪な繋がりはあっけなく霧散していった。
赭莉は、放課後の教室で俯く皐月の前に立ち、胸の奥の冷たい影を抱えていた。
その影は、皐月に向けた悪意が自分へ返ってきた“痛み”として残っていた。
言葉を発しようとするたびに喉が詰まり、赭莉の指先はわずかに震えていた。
赭莉は、揺れ動いた、いつまでも落ち着かない心を抑え込んで、頭を下げた。
「……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
皐月は何も言わなかった。
許してくれたわけではない。
けれど、拒絶もしなかった。
ただ、二人の間にあった決定的な主従関係は、その日を境に消え去った。
赭莉は知らなかった。
返ってくる異常な悪意が、ある少年の力の影響だったことを。
そして──
このとき胸を締めつけた“理由のない絶望”は、赭莉の中に、消えない傷として残る。
今も、ふとした瞬間に胸が冷たくなる。
息が浅くなる。
理由のわからない涙が滲む。
赭莉はずっと思っていた。
(あれは……なんだったんだろう)
その答えを知るのは、もっと先のことになる。




