1-02 相川静流Ⅱ
週末を挟んだ月曜日。
教室の扉を開けた瞬間、静流は息を止めた。
そこにいた。
あの時の、あの少年が。
窓際の席に座り、ただ前を見ている。
黒い髪が少し長く、表情は読めない。
だが、間違いなくあの時の少年だった。
静流は思わず立ち尽くした。
時は六月初旬、中学一年生の静流が入学して二カ月が経った。
まだ、二、三人、顔と名前が一致しない人はいるが、顔を見てクラスメートかどうか見分けらない人はいない──はずだった。
少年の関する記憶が一つもない。
髪は長いが、わずかに見える顔立ちは整っていることがうかがえる。
記憶にあれば、あの時に気付けたはずであった。
静流は入学式から今日までの記憶をたどる。
少年の記憶の欠片が残っていないかを自らに問いかける。
しかし、欠片一つさえ見つけることはできなかった
静流の胸に、あの時と同じざわつきが広がった。
もしかしたら、本当に二カ月、あの少年と一つの接点もなく過ごしたのかもしれない。
週末、ずっと、あの少年のことが頭から離れなかった。
あの時、始めて接点ができたのかもしれない。
静流は自分の認識違いのわずかな可能性にすがる。
静流を一歩足を進める。
あの子は何者か、その答えを求めて。
このざわつきを解決する術を他に持たない静流は少年に向かって行く。
そんな静流の行動は、始業のチャイムに止められた。
国語の授業、先生が生徒に朗読するよう指示をだす。
「じゃあ、次の席の人。続きを読んで」
本来なら、あの少年が立つはずだった。
だが少年は動かない。立ち上がりもしない。
代わりに、その後ろの生徒が当然のように立ち上がり、朗読を始めた。
(おかしい)
静流は眉をひそめた。
先生を含め、クラスメートの全員がこの異常を普通のようにやり過ごす。
だが異常は、それだけではなかった。
先生が指し示す指先が、少年の席のあたりだけ避けるように震えている。
まるでそこに触れてはいけない何かがあるかのように。
少年の周囲の空気が、わずかに揺らいで見えた。
熱気でも冷気でもない。
ただ、そこだけ世界が薄い。
静流は息を呑んだ。
前の席の女子が消しゴムを落とした。
転がった消しゴムは、少年の足元で止まる──はずだった。
だが、見えない壁に弾かれたように方向を変え、別の席の下へ転がっていった。
静流が見ている光景がなかったかのように周りは何の反応も示さない。
まるで空気のように少年を扱っている。
誰も気づかない。
誰も不思議と思わない。
静流だけが別の世界に取り残された感覚になった。
少年の後方の席に座る静流は、視線を外せなかった。
そのとき、少年がこめかみを押さえた。
痛みに耐えるような仕草。
そして、一瞬だけ静流の方に意識を向けたのを感じた。
その瞬間、静流の頭に鋭い痛みが走った。
「っ……!」
痛みと同時に視界が白く塗りつぶされる。
少年のいるところだけが、真っ白に。
教室のざわめきが遠のき、周囲の空気がゆっくりと沈んでいく。
時計の秒針の音が消えた。
ページをめくる音も、椅子の軋む音も、すべてが遠ざかる。
静流は必死に目を見開き少年を確認しようとするが、白い靄は晴れない。
(何が起きているの?)
胸の奥がざわつく。
あの時の事故の光景が、脳裏に蘇る。
そのとき、前の席から音がした。
椅子が倒れる音。
机にぶつかる音。
その音だけが、白い靄を突き破るように響いた。
「……皐月?」
少年の隣の席に座っていた少女。
新田皐月が、机から崩れ落ちていた。
静流は立ち上がった。
その瞬間──
空気の圧がふっと抜けた。
白い靄が薄れ、音が戻る。
時計の秒針の音。
誰かの小さな咳払い。
窓の外の風の音。
ぼんやりしていたクラスメートたちが、ゆっくりとまばたきをした。
首を傾げ、周囲を見回す。
「え……?」
「今、何か……?」
「皐月ちゃん?」
ざわざわとした声が広がる。
周囲の女子生徒が皐月の方へ駆け寄った。
静流は駆け寄ろうとした、 しかし足が動かなかった。
(……近づけない)
静流は皐月のもとに駆けつけたいと思った。
しかし、足が石のように固まって動かすことができない。
困惑が胸の奥で膨らみ、 少年の方へ視線を向けることすらできなかった。
あの時の事故。
黒い子猫。
謎の少年。
教室の異常。
そして、今、すべてが一本の線で繋がっていくような気がした。
(この子が、何かをしたんだ)
その確信だけが、静流の胸に静かに沈んでいった。
静流の横を通って、皐月が保険室に運ばれて行く。




