1-01 相川静流Ⅰ
金曜日の夕方、久しぶりに雲が切れた。
朝から降っていた雨は昼過ぎに止み、空気の中にはまだ湿り気が残っている。
窓から差し込む光が、床の上をゆっくりと移動していく。
相川静流はしばらくその光景を眺めていた。
夏至が近く、空はまだ明るい。
文芸部に所属しているとはいえ、静流はほとんど幽霊部員だ。
今日は部活はなく、さぼっているわけではない。
学校が終わって真っすぐ帰宅した。
ずっと、買いたい物があった。
だけど、雨が降り続き、後回しにしていた。
今日は、ようやくの晴れ間で、部活もない。
明るいうちに、心置きなく買い物を済ませられると静流は思った。
「いってきます」
夕飯の支度をするお母さんに声をかけて玄関に向かう。
靴を履き、玄関を出た瞬間、湿った空気が肌にまとわりつく。
雨上がりの匂いは、どこか懐かしいような、胸の奥を静かに揺らすような感覚を残した。
濡れたアスファルトが陽に照らされ、白く光っている。
その眩しさに目を細めながら歩いていると、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
救急車かあるいはパトカーか、このあたりでは珍しいことではない。
けれど、雨上がりのせいか、今日のサイレンはどこか落ち着かない響きを持っていた。
静流は少し歩く速度を落とす。
胸の奥に言葉にならないざわつきが生まれて膨らむ。
そのざわつきは角を曲がった瞬間に確信に変わる。
赤い軽自動車が、パトカーに追われながらこちらへ向かってきていた。
軽自動車が蛇行し、濡れた路面を滑っていた。
制御を失っているのが一目でわかる。
車はガードレールにぶつかった。
静流は足を止めた。
息を呑む。
車体が跳ね上がり、宙に浮いた。
その落下の先に、黒い子猫が震えていた。
逃げることもできず、ただ固まっている。
重力に引かれた車体が、子猫の真上へ落ちていく。
静流の心臓が強く脈打った。
子猫に迫る危険がまるで自分に迫ってくるように感じる。
絶体絶命の事態に、静流が子猫を助ける術は一つもない。
(やめて!)
心の中で叫んだ瞬間、視界が強く揺れた。
金属が軋む音。
誰かの悲鳴。
猫の小さな鳴き声。
静流は思わず目を閉じた。
直視できなかった。
見たくなかった。
小さな命が潰れる瞬間を。
ほんの数秒、それだけのはずだった。
静流は震えるまぶたをゆっくりと開いた。
猫は、そこにいなかった。
代わりに、道路の端にひとりの少年が立っていた。
黒い子猫を、しっかりと腕に抱いている。
まるで事故の衝撃を受けていないかのように。
少年の服は汚れていない。
猫も、傷ひとつない。
大きく破損した車のそばで少年は子猫の頭を優しくなでていた。
目を閉じる前と開いた後の光景がつながらない。
静流は言葉を失った。
理解が追いつかない。
胸の奥がざわつく。
しばらく呆然としていると、少年は抱いた子猫に笑顔をむけた。
静流の視線が自然と少年に吸い寄せられる。
その光景から目を離すことが出来なくなった。
静流は何も言葉にできない。
思考が働かない。
しかし、ざわつきは少し落ち着きを取り戻していく。
そんな静流のことに少年は気付かないのか、猫を抱いたまま、静かにその場を離れていく。
野次馬が事後現場に集まりだし、周りに人ゴミができる。
しかし、事故の様子を見るだけで、少年に注目する者は誰一人いない。
そんな中、静流だけが、少年の背中を目で追っていた。
(あの子は──何者?)
問いは、胸の奥に沈んだまま、答えを持たない。
静流は買い物をすることなく帰宅した。




