序章
六月初めの金曜日、梅雨入りして雨の続いたあとの、久しぶりの晴れ間。
昼過ぎまで降っていた雨はあがり、数日ぶりに雲のない空が現れた。
路面の至るところに水たまりが残っており、空気は雨上がり独特の湿気を含んでいた。
風も弱く、街はひとときの静けさに包まれていた。
その静けさを切り裂くように、遠くでサイレンが鳴り始めた。
サイレンの音が近づくにつれ、甲高いエンジン音が混じり始める。
赤い軽自動車が、歩道すれすれを蛇行しながら突っ込んでくる。
水たまりがタイヤに弾かれ、細かな水しぶきが宙に散った。
「この馬鹿! 邪魔だ、どけ、どけ!」
逃走犯が歩行者に罵声を浴びせ、クラクションを連打し、濡れた路面を無茶な速度で駆け抜けていた。
逃走車の前方で歩道を歩く一人の少年。
もう少しで逃げ切れる──そう思った逃走犯の視界にまた邪魔者が入り込んだ。
(邪魔するな、死んじまえ!)
その時だった。
逃走犯は、少年と目が合った。
その瞬間、視界の焦点が定まらなくなる。
頭にズキリと痛みが走った。
「やめてくれ……殺さないでくれ!」
逃走犯は突然叫びだし、自分でも理解できないほど強くハンドルを切った。
濡れた路面がタイヤを滑らせる。
車体が大きく傾き、ガードレールに激突した。その反動で車は跳ね上がる。
跳ね上がった車体の軌道上に、黒い子猫がいた。
見ているものがいれば誰もが子猫の最悪の結末を予想した次の瞬間──
気づけば、猫は少年の腕の中にいた。
誰もその瞬間を見ていない。
音も、光も、風もなかった。
ただ、猫はいつの間にか安全な場所に移動していた。
少年は猫をそっと抱きしめ、小さく息を吐いた。
震える小さな体を落ち着かせるように、優しく胸元へ寄せる。
パトカーが横転車両の横に滑り込み、警察官たちが慌ただしく降りてくる。
後に続いて野次馬が群がってきた。
野次馬は事故の方に気を取られ、猫がどう助かったのかなど気にも留めない。
少年は猫を抱いたまま、濡れた地面を避けるように歩き去っていく。
ただ一人、現場に駆けつけた警察官だけが、少年の背中に目を留めていた。
(……あの子、さっき車の前にいたよな)
理由はわからないが、警察官の胸の奥に小さな違和感が残った。
少年は振り返らない。
猫を抱いたまま、静かに人混みの向こうへ消えていった。




