2-01 ほっとけないⅠ
夏の朝の日差しが、校舎の廊下に差し込んでいる。
開け放たれた窓から入り込む風は蒸し暑さをまとっていた。
廊下の一番奥に、一年A組の教室がある。
ガラガラと音を立てて、教室の扉が開かれた。
自席に座り、窓の外を眺めていた相川静流がその音に視線を向けた。
そして、ほんの少し微笑む。
四条空翔が教室に入ってきた。
「おはよう」
「静流、おはよう」
静流の隣の生徒が静流の声に反応する。
静流の視線の先を追い、首を傾げた。
その後、空翔があいさつを返す。
すると、静流へ向けられた視線が、何事もなかったように散っていく。
止まっていた会話が再び始まる。
空翔が席に着くと、静流が立ち上がり空翔の側まで歩み寄る。
「今日もいつも通りね」
「これが僕の普通だからね」
「誰も私達のこと見てない」
「そうだね、誰も視てないよ」
「本当に、不思議ね……」
喧騒に包まれた教室で、二人だけの会話が交わされる。
「あなたのこと、誰に聞いても知らないって言われた時、本当に怖かったんだよ」
「そうでもないよ。三カ月経って、クラスメートだってことくらいは認識されてるよ」
「初めて話した時のことで、今の話じゃないんだけど」
静流が会話を続け、それに空翔が答える。
「期末テスト、終わったね」
「うん」
「自信ある?」
「普通かな」
「あなたの『普通』は信用できないんだけど」
静流は小さく笑った。
「私は数学がちょっと自信ないかな」
「難しかった?」
「最後の問題、時間が足りなくて」
「あれは時間かかるね」
「……やっぱり解けたんだ」
「うん」
「今度、勉強教えてよ」
「いいよ」
「えっ、本当! 約束だからね」
「うん、約束」
静流は人差し指を顎に当てる。
「そういえば、猫ちゃんは元気?」
「漆黒?」
「そう、漆黒」
「元気だよ」
「もうすぐ夏休みだね」
「そうだね」
「夏休みまでには、会わせてね」
静流はそう言って、空翔に背を向けた。
そして、自分の席へ戻っていった。
「静流、どこ行ってたの?」
隣の席の生徒が、不思議そうに静流を見る。
静流は思わず苦笑した。
空翔と話して一カ月、普通でない世界に馴染む静流がいた。
*
昼休み、空翔は本を小脇に抱えて廊下を歩いていた。
向かいから、図書室の住人、藤宮紫乃が歩いてくる。
紫乃の顔は空翔の方を向いているが、視線は空翔の先を見ている。
紫乃は何事もなく空翔の横を通り過ぎた。
空翔は図書室へ入ると、小脇に抱えていた本を受付に差し出した。
「本の返却です」
「いつものように家で渡してくれたらよかったのに」
「渡そうとしたけど、真理亜が寝坊してたから渡せなかったんだよ」
「しっ、そのことは内緒よ」
「また猫被ってる」
真理亜は、空翔と会話しながらテキパキと返却処理を済ませる。
「はい、返却OKです」
*
「どうする、俺、傘持ってきてないよ」
「私も。朝は晴れてたじゃん」
「すぐ止むんじゃない?」
窓ガラスを激しい雨粒が叩いている。
放課後の教室は、突然の夕立にざわめいていた。
下校しようとしていた生徒たちも、教室に留まっている。
「傘持ってる?」
空翔が窓を打つ雨を眺めていると、静流が声を掛けてきた。
「うん、折り畳み持ってる」
「じゃあ、もう帰るの?」
「いや、もうすぐやみそうだから待つよ」
空翔の言葉に静流も窓を見つめた。
「皐月、赭莉が今日も部活休むって言ってるよ」
「そうなんだ」
「最近、多いね」
「体調、よくないみたい」
空翔の隣で、皐月と女子生徒が話している。
女子生徒は、赭莉と同じバスケットボール部に所属している。
「赭莉がバスケ部で一番元気だったのに」
「家に帰ったらまた、話してみるね」
「心配だね」
「心配なんだけど、お医者さんじゃないし、どうしたらいいのか……」
「それじゃ、私、部活行くね」
女子生徒は、カバンを肩に担ぎ教室を出ていった。
「ふー」
皐月は深いため息を吐いて窓を向く。
窓際の空翔は、黙って皐月を見ていた。
皐月の苦悩する顔が、まるで空翔に助けを求めているように見えた。
「どうかしたの?」
向かい合う二人の様子を見ていた静流が声を掛ける。
「皐月の感情が入り込んできた」
「でも、あなたには関係ないでしょ?」
「いや……」
一瞬の沈黙の後、空翔は再び口を開く。
「ほっとけない……」
雨脚は、いつの間にか弱くなっていた。




