【章間】漆黒の散歩
「漆黒、散歩に行こう」
空翔に呼ばれた漆黒がトタトタと廊下を走る。
空翔の足元まで来ると、期待したように見上げた。
空翔は漆黒を抱え上げた。
漆黒はじっと空翔を見つめる。
視線が重なる。
次の瞬間、イメージが空翔の脳裏へ流れ込んだ。
野良だった頃の漆黒。
優しそうに笑う一人のおばあさん。
差し出される餌。
その向こうに見える、庭のある一軒家。
遠くにはタワーマンションがそびえていた。
「おばあさんに、会いに行こう」
「にゃあー」
漆黒は元気に応えた。
暦は七月を迎えようとしていた。
初夏の陽射しは日ごとに力を増し、空には真っ白な雲がゆっくりと流れていた。
街路樹の若葉はすっかり色濃くなり、風が吹くたびに葉擦れの音が心地よく響く。
夏は、もうすぐそこまで来ていた。
空翔は漆黒を抱え直すと、陽当たりのいい道を避けて、並木が続く歩道へ足を向ける。
木漏れ日が揺れる日陰、吹き抜ける涼しい風が肌をなでる。
「黒い毛は熱を吸いやすいからね」
漆黒は腕の中で気持ちよさそうに目を細め、小さく「にゃあ」と鳴く。
空翔は小さく笑みを浮かべると、漆黒を抱えたまま歩き出した。
しばし歩き続ける漆黒と空翔。
空翔はタワーマンションを見上げた。
「見える角度も、大きさもイメージ通りだ」
漆黒へ視線を落とす。
「この辺で間違いないね」
「にゃあ」
空翔は一軒家の前で足を止めた。
「この家だよな……タワーマンションの見え方も記憶通りだ」
空翔は門柱へ目を向けた。
「……表札がない。」
もう一度、家全体を見回す。
庭は手入れされているが、人の気配はない。
「今は住んでいないのかな……」
そしてその直後、漆黒が飛び降りる。
庭へ一直線で駆けだした。
空翔は、「漆黒!」と思わず追い掛ける。
庭にやって来た空翔は漆黒を見つける。
漆黒は空になった餌皿へ鼻先を近づけ、くんくんと匂いを嗅いでいた。
やがて前足で軽くつつく。
餌皿はからん、と乾いた音を立てて転がった。
空翔は漆黒の後ろに回り込み、漆黒を抱え上げた。
「あら、その黒猫……」
隣の家から声が聞こえてきた。
空翔は反射的に声のした方を振り向く。
「久しぶりね、元気にしてて良かったわ。おばあさん、あなたのこと心配してたのよ」
優しそうな声音、ゆっくりとした話し方。
空翔は一度、深呼吸をしてから会話を始める。
「この家の方をご存じなんですか?」
「もちろん、知ってるわよ。お隣さんだもの。その猫、おばあさんがいつも餌をあげてた子でしょ?」
話好きなお隣さん、口調は穏やかだが話がとまらない。
「あなた、おばあさんの親戚?」
「いえ」
「あら、そうなの? でも猫ちゃんが元気なところ見せてあげたら安心すると思うわ」
「はい」
「おばあさん、藤宮記念ホールに入所してるわよ」
「はい」
……
話の切れ目を見つけられず、空翔は「はい」と「いえ」を返すことしかできなかった。
「ふぅー」
家を離れると、空翔は大きく息を吐いた。
「よくしゃべる人だったな……なんか頭がくらくらする。」
漆黒が見上げる。
「大丈夫。ちょっと疲れただけ。」
空翔はそう遠くないと思い、藤宮記念ホームに足を向けた。
*
ベンチに腰掛けたおばあさんは、老眼鏡の位置を指先で直しながら文庫本を読んでいた。
穏やかな時間が流れる。
「にゃあ~」
不意に、猫の鳴き声が耳に届く。
おばあさんは本から顔を上げた。
そこには、漆黒を抱いた空翔が立っていた。
おばあさんは目を丸くし、やがてゆっくりと微笑んだ。
「この子は、今は漆黒って言います。僕たちの家族です」
「そうなのね、よかった」
漆黒は空翔の腕の中から抜け出し、おばあさんの膝の上にのった。
おばあさんは漆黒を優しく撫でる。
穏やかな風だけが、過ぎた時間を静かに運んでいた。
そして、帰り道。
空翔が漆黒を抱いて歩く。
腕の中の漆黒は満足そうに目を細め、時折、小さく喉を鳴らしていた。
「よかったな」
漆黒は「にゃあ」と短く返事をする。
空翔は自然と笑みを浮かべた。
お隣さんと話したときの重さは、もう残っていない。
おばあさんと向き合っている間、不思議なほど心は穏やかだった。
まるで互いの心音が静かに重なり合うように、調律は驚くほど滑らかだった。
(ああいう人なら……)
空翔は思う。
(初めて会った人でも、ちゃんと話せる)
空を見上げる。
夏の陽射しは少しだけ傾き始め、吹き抜ける風は来たときよりも心地よかった。
「帰ろうか」
「にゃあ」
一人と一匹は、並木道をゆっくりと歩いていく。
今日もまた、四条家の日常が待っていた。




