<幕間>イニシャルS
立花薫は苛立っていた。
「大事なお嬢様の依頼だ。最も能力がある一課が受けるべきだろ」
藤宮グループ、調査局第一課の受付で立花は職員に詰め寄る。
「お嬢様の大事な依頼でも個人の素性調査は、一課ではお受けできません。第三課に依頼してください」
職員は引かず、冷たい口調で答えた。
立花の苛立ちが、はたから見ても増していく。
「姐御……ここで揉めたら、立場が悪くなります。落ち着いてください」
立花についてきた部下が、上司の方が分が悪いと判断し、慌てて制止に入った。
立花は、しばらく逡巡する。
しかし、部下の言葉に心を落ち着け、決断する。
「わかった、第三課に行こう」
*
立花の依頼を受けた調査局第三課で、愚痴る職員の姿があった。
三課の職員二人、上司と部下が顔を見合わせて愚痴をこぼす。
「お嬢様案件か……やらないわけにはいかないよな」
「第三課で抱えると着手が遅れますよね」
「遅くなると立花さんが不機嫌になる」
「あの人の不機嫌な顔、想像しただけで、背筋が寒くなります」
「中学生の素性調査か…… それなら、協力会社に回しても問題ないだろ」
二人の会話は、協力会社と呼ばれる下請けに丸投げすることで話が落ち着いた。
続けて上司は部下に仕事を頼む。
「早速、調査依頼書の作成頼んだ」
職員はフォーマットファイルを開き、空欄を淡々と埋めていく。
キーボードの打鍵音だけが静かに続く。
「依頼者は立花さんで……対象者、四条空翔くん」
「読み方、『しじょうそらと』。間違えたら怒られるぞ」
「わかってますって」
「あと、期限は3日だな、お嬢様案件なんだから」
「うわ、協力会社が気の毒に思えてきた……」
項目が順に埋まる。
・依頼者:立花薫
・調査対象:四条空翔(以下Sとする)
・調査場所:私立藤嶺学園
・調査期限:3日間
・調査内容:学園内に入り、Sの調査を行うこと ……
「……よし。印刷しますね」
プリントサーバーに送信すると、
部屋の隅の複合機が低い音を立てて紙を吐き出す。
「紙決裁って、ほんと時代遅れですよね」
「うちの課は紙がないと動かないんだよ。上が紙好きで」
印刷された依頼書を揃え、クリップで留める。
二人は立ち上がり、決裁印のある机へ向かう。
「課長、依頼書です。立花さん案件です」
「……ああ。はいはい。そこ置いといて」
課長は無言で印鑑を押す。
朱肉の匂いがわずかに漂う。
「決裁終わりました。電子ファイルにしますね」
席に戻った職員は、紙の依頼書をスキャナに通す。
読み取り音が短く鳴り、画面にファイルが生成される。
「電子文書、できました」
「じゃあ協力会社に送って。あそこ、紙よりメールのほうが早いから」
職員はメールソフトを開き、第三課の定型文を呼び出す。
|件名:素性調査依頼書(藤嶺学園・対象S)
|本文:添付の通り、調査を依頼します。至急対応願います。
電子文書を添付し、送信ボタンを押す。
「……送信完了」
「はあ。お嬢様案件は胃が痛くなるな」
二人は椅子に沈み、次の案件のフォルダを静かに開いた。
*
第三課からメールが送られた先では、仕事に忙殺されていた。
机の上には未処理の案件が積み上がり、複合機の待機音が絶えない。
「また第三課から雑務が来たよ……」
「また藤宮案件? 断れないんだよな……」
「協力会社って言うけど、実質うちが下請けなんだよな……」
「うちも手一杯だし、確実に空いてるのは田中さんのとこか」
「そうだな、田中調査事務所に回すしかないよな」
手に余る仕事、孫請けへの丸投げ。
また、第三課と同じ流れが繰り返される。
誰も疑問を抱かない。これがいつもの手順だった。
「そのまま事務所にメールで転送したいんだけどね……
あそこFAXしか受け取れないから、結局、紙に印刷するしかないんだよな」
複合機から紙が印刷される音が響く。
湿った紙がローラーを通るたび、わずかに波打つ。
「……あれ、また送信失敗。 ……あ、やっと送れた」
数度の送信エラーを起こした後、依頼書は送信された。
小さなノイズが混じったまま、次の段階を降りていく。
*
田中調査事務所では、古びたFAXと格闘する男がいた。
田中調査事務所は、しがない個人経営の“調査の何でも屋”だ。
本来、調査事務所というものは事務所ごとに専門性を持つ。
人物調査だけを扱うところもあれば、企業信用調査に特化するところもある。
しかし田中調査事務所には、その専門性を持てるほどの規模も実績もない。
そのため、これまで人でも組織でも場所でも、依頼が来れば何でも受けてきた。
「仕事なら、人でも組織でも場所でも、何でも受ける」――それが所長の口癖であった。
詰まった紙を取り除きながら、田中裕志はボヤく。
「叔父さん、ネットやメールの時代にFAXだけっておかしいでしょ」
「叔父さんと言うな、所長と呼べ」
「……また詰まった。叔父…… 所長、このFAXもう限界ですよ」
甥っ子の裕志に、叔父の田中清二が訂正する。
耳にタコができるほど聞いたセリフに裕志は慌てて呼び方を変えた。
裕志はため息をつきながら、詰まった紙を引き抜いた。
ローラーの跡が黒く走り、ところどころ文字がかすれている。
一枚目の中央──本来「調査対象」が印字されているはずの行だけが、
まるで熱で溶けたように真っ白だった。
「よし、何とか読めるな」
裕志は紙を光に透かしてみる、抜け落ちた情報に気付かぬまま。
叔父の清二に声をかける。
「叔父さん、依頼来てます」
「ああ、そこ置いとけ」
裕志は届いたFAXを清二の机の端に置いた。
しかし、届いたFAXは調査依頼書だけではなかった。
午前中に届いた業界ニュースが重ねられていた。
“最近、学園で奇妙な事例が続いている”という見出し踊っている。
裕志は気にも留めずにまとめて清二に渡した。
誰も気づかない。
調査対象の行が欠損していることを。
調査依頼書に異物が混ざっていることを。
机の上には、ほんのわずかなズレの予兆だけが残った。
この奇妙な伝言ゲームが、やがて予期せぬ波紋を呼ぶ。




