<幕間>二つのS 前編
最初に噂が生まれたのは、社会の片隅だった。
研究者たちは、『S事象』という自然現象の研究を進めていた。
その渦中において、とある研究機関ではS事象研究のプロジェクトに『コードネームS』と名を付けた。
始まりは、秘匿性の高い研究についた符牒だった── とされている。
その符牒は、研究者の間で静かに使われ始め、やがて裏社会の情報筋の間に流布するようになった。
さらに時が経つにつれ、行政の会議室や学会の片隅へと滲み出していった。
深夜のラボで起きた不可解な機材停止。
実験直前に消えた主要データ。
封鎖された研究棟。
どれも犯人の痕跡はなく、ただ計画だけが潰れていった。
研究過程で起きた原因不明の現象。
研究者たちは、『S事象』によるものではないかと仮定し、日々その証明に心血を注ぐ。
しかし、それと同時に、計画が潰れるたびに囁かれる──
「自然現象にしては出来すぎている」
「潰れるのは、決まってうしろ暗い研究ばかりだ」
「……Sが動いたらしい」
徐々に、S事象という自然現象が、Sによる人為的妨害へと変質していく。
誰が最初に言い始めたのかは分からない。
どの研究機関が使い始めたのかも曖昧だ。
ただ、計画を妨害する影がいるという噂だけが、闇の中で静かに形を持ち始めた。
世間が『コードネームS』の噂で満ちた頃、調査業界の片隅にある小さな編集部が動いた。
正式な団体でもなく、ほぼ個人運営の情報誌を発行している編集部だ。
情報源は曖昧で、裏社会の噂話、研究者の愚痴を並べただけのものを、尤もらしくまとめたつもりになって記事にする。
「最近、Sが動いたという情報が増えている」
「計画妨害の影は、Sと関連があるのでは」
「Sは中学生、高校生を研究対象にした計画を妨害した」
どれも根拠は弱く、引用元も曖昧で、ただ噂を増幅するだけの読み物。
しかし、タイトルだけは妙に立派だ。
|月刊・調査情報ニュース
|特集:コードネームSの現在地
計画を潰して回る何ものかの噂。
影のように現れ、誰かの思惑を壊していく存在。
その正体は誰も知らない。
調査業界のニュースは、その話題を面白がって取り上げた。
事件性のある話は、いつだって人の耳を引き寄せる。
編集部は、興信所、探偵事務所、調査事務所といった業界名簿を見て勝手に送られてくる。
登録した覚えのない事務所にも届く。
田中調査事務所にも、そのゴシップ誌は届いていた。
そして、その後、四条空翔の調査依頼書も届いた。
調査対象欄は印字不良で空白のまま──
ただ一行、『調査対象:四条空翔(以下Sとする)』という文字が届かぬまま時は進む。
この日を境に、四条空翔の周りは、静かに、しかし確実に、騒がしくなっていく。




