1-12 四条空翔Ⅲ
月曜日、一時間目の終わりが近づいた頃、教室の空気はまだ沈んでいた。
皐月が崩れ落ちた瞬間の冷たさが、空翔の胸の奥に残っている。
誰かが叫び、誰かが泣きそうになりながら皐月を支える。
そのざわめきの中心にいながら、空翔は誰よりも遠い場所に立っていた。
(僕のせいだ)
その理解だけが、静かに沈んでいく。
キーンコーンカーンコーン。
混乱の中で鳴ったチャイムは、空翔にわずかな隙間を与えた。
誰も空翔を見ていない。
誰も空翔に触れない。
空翔は席を立つ。
焦りながらも、動作は異様に静かだった。
焦っている自分を認識しながら冷静に考える。
空翔は矛盾する心の状態を、並立させながら行動する。
今の混乱した状況をなんとかするために。
(早く、一人になれる場所へ)
休み時間の廊下は騒がしい。
その騒音の中でひとりだけ“静かすぎる存在”が通り抜ける。
空翔は、学校で最も静かな場所──図書室へ向かった。
*
廊下の喧騒が背後で揺れている。
空翔は図書室の前に立ち、扉の向こうの“色”を探った。
人がいる場所は、扉越しでもわかる。
声ではなく、気配でもなく、濃度で。
空翔独特の感覚が人の存在を感じ取る。
(誰もいない)
図書室の内側は、静けさが層になって積もっている。
誰かがいるなら、その層のどこかに“揺れ”が生まれるはず。
誰の痕跡も、今日は感じられなかった。
空翔は確信する、この部屋は無人だと。
その静けさは、空翔にとって唯一の逃げ場だった。
世界の濃度が弱く、呼吸ができる場所。
図書室はそんな場所だった。
いつもなら、放課後の図書室には図書委員がいる。
空翔は自分の存在を認識できないよう、感情を自分からそらし、誰にも気づかれずに入室する。
──けれど、今日は違う。
一時間目が終わった直後。
図書委員の当番時間ではない。
扉の向こうには、揺れがまったく感じられない。
空翔は図書室の中は無人だと確信して、いつもの“存在の薄い自分”ではなく、普通の足取りで図書室へ入った。
空翔は棚から本を一冊手に取り座席に向かった。
空翔が本を手に取った理由──それは、図書室では本を読むのが『普通』だから。
当たり前のことを『普通』に行うのは、空翔の生存戦略なのだから。
しかし、本は開いたものの、視線は本には向かわない。
今朝の教室で起こった異常事態が頭の中を占領している。
考えをめぐらせど思考はループし結論にむかわない。
教室に帰ることもままならない自分の状態を嘆いた。
空翔がそんな思考をする最中に──声があった。
「空翔くん?」
空翔ははっとして顔を上げた。
視界に入った少女は、図書室の空気に溶け込むように立っていた。
その横顔はどこか無色で、空翔にはすぐに誰なのか判断できなかった。
少女は静かに口を開く。
「……藤宮紫乃です。図書委員をしています」
その名を聞いて、空翔はようやく理解した。
目の前の少女が、藤宮紫乃なのだと。
「……図書室の住人?」
空翔は思わずそう返した。
空翔は学園中が知っている噂の人に、初遭遇したことを理解した。
少女──紫乃は、わずかに息を弾ませた。
「やっぱり、空翔くんなのね!」
肯定しているわけではない。
けれど、空翔が否定しなかったことで、紫乃の中で“空翔”が確定した。
紫乃がすぐそばにいる。
その事実が、空翔の胸の奥が一瞬だけ大きく跳ね上がった。
(……どうして、こんな近くに)
空翔に気づかれずに接近できる人間は存在しない。
──いや、存在しなかった。
最早、過去形で語られる事実に空翔は驚く。
しかし、その驚きは長く続かなかい。
空翔は、瞬時に呼吸を整える。
静流のイレギュラーを経験した直後であり、短い人生経験の中で命懸けで生きてきた空翔は冷静になることを体に覚えさせている。
(……落ち着け。大丈夫だ)
誘拐事件の時も、赭莉が泣き崩れた時も、皐月が震えた時も。
空翔はいつも、生存のために冷静さを保つよう努力してきた。
胸の奥のざわつきが、ゆっくりと沈んでいく。
空気の層が整い、視界が静かに安定する。
紫乃の存在は近い。
けれど、痛みにはならない。
(これは! 父さんや母さん、そして真理亜とは違う!)
空翔の家族の感情は、空翔が痛まないように始めから調律ができていた。
(それに、蓮や美樹とも違う)
二人の感情は、空翔が痛みを乗り越えて調律に成功した友人だった。
(紫乃は誰とも違う!)
空翔に向かってくる、紫乃の感情は存在しなかった。
空翔はじっと紫乃を見つめる。
そして、紫乃の色の動きを追いかける。
紫乃の感情は、消えているわけではない。
ただ、外へ向かうことがなく、静かに内側へ沈んでいるのが見えた。
「あらためまして、藤宮紫乃です。……空翔くんでいいんだよね?」
紫乃は事実を確定させるため空翔に話しかける。
感情の圧はない。ただ静かな確認だった。
空翔は紫乃の問いに頷くことで答えた。
「四条先輩には、いつもお世話になってますよ」
紫乃は真理亜に話した創作の一言と変わらぬ滑らかさで言う。
今度は嘘ではない、同じ図書委員として「お世話になって」いる事実を告げた。
嘘も本当も、紫乃の中では同じ静けさで語られる。
「……空翔くんは、静かですね」
紫乃は観測した事実をそのまま言語化する。
空翔に向けられた何か特別な感情はなかった。
空翔はそっと本を閉じ、椅子から静かに身を引いた。
それが、会話の終わりの合図になった。
空翔は小さく息を整え、静かな声で言った。
「今日は、失礼します」
空翔は軽く会釈して、図書室を出た。
扉が静かに閉まる音とともに、図書室の空気が元に戻る。
図書室には、紫乃だけが残った。
彼女は空翔の背中を追わない。
感情は外に向かない。
そして、誰に向けるでもなく、ただ一言、小さく呟く。
「調査結果が楽しみね♡」




