<幕間>コードネームS 後編
日本で、公式の研究は一度、途絶えた。
提唱者の論文は笑われ、彼の名は学会の片隅に沈んでいった。
だが、世界は違った。
海の向こうでは、彼の記録を読み解いた研究者たちが、次々と成果を上げはじめた。
脳の外側に生じる微弱な力場。
その揺らぎを捉える計測技術。
力場と感情の相関。
力場の干渉による“現象”。
風もない室内で、コップの水が“ありえない揺れ方”をする──
研究所は騒然となった。
「揺れた!」「動いた!」「再現したぞ!」
そんな声が飛び交い、論文が量産された。
国際会議が開かれ、新しい学問領域が静かに形を持ちはじめた。
その頃、日本はようやく気づいた。
自分たちが、世界から大きく遅れを取っていることに。
だが、日本はこうなるしかなかったわけではない。
自分で選び続けた結果、こうなった。
提唱者を笑ったのも、研究を切り捨てたのも、世界の動きを見ようとしなかったのも、
すべて日本自身の選択だった。
そして今、失われた時を取り戻そうと、日本は焦り、無理をする。
急ごしらえの予算。
拙速な研究所の立ち上げ。
責任の所在が曖昧なままの成果至上主義。
その隙間に、闇の研究が入り込んでいく。
表に出せない実験。
倫理委員会を避ける計画。
提唱者の名を勝手に利用する者たち。
そして、提唱者の“末流”を名乗る者たち。
日本は、仕方なく、闇を抱え込んだのではない。
闇を選び取った、闇に頼る道を、自分で選んだ。
*
秘密裏に行われる研究が増えはじめた頃から、奇妙な現象が報告されるようになった。
ある計画は、実験直前に主要データが消えた。
あるラボは、深夜に機材がすべて停止し、翌朝には研究棟ごと封鎖された。
どの事件にも、犯人は存在しなかった。
痕跡も、証拠も、動機もない。
ただ、計画だけが静かに潰れていった。
研究員達はこぞって、これこそ思念体外力場という未知の力場の影響だと考えた。
提唱者の言葉を借りて、これらの不可思議な現象を『S事象』と呼びはじめた。
だが、ここから“誤認”が生まれる。
S事象は本来、思念体外力場が引き起こす自然現象のはずだった。
しかし、計画が潰れるたびに、研究員たちは「誰かが意図的に妨害しているのでは」と囁きはじめる。
自然現象と人為的妨害が、徐々に同じ“影”として語られはじめた。
その頃から、関わった幾人かの研究員が同じ証言を残した。
「……先生……」
それが誰を指すのか。
本当に声だったのか、幻聴なのか。
誰にもわからなかった。
だが、その断片は確かに“届いた”という。
脳裏に、直接。
やがて、裏社会の一部で噂が生まれた。
計画を潰す存在がいる。
表に出せない計画を許さない“何か”が動いている。
たった一つの痕跡『SENSEI』。
人々は、自然現象としてのS事象と、計画を潰す“誰か”を同じものと誤認し、その影に名前を与えた。
コードネームS。
最初は裏の世界だけの符牒だった。
だが、噂は静かに広がる。
学会の片隅へ、行政の会議室へ、そして一般のニュースへと滲み出していった。
誰も正体を知らない。
誰も姿を見たことがない。
だが、闇の計画が潰れるたび、人々は同じように囁いた。
「Sが動いた」
その噂だけが、
世界の表と裏をゆっくりと繋ぎはじめていた。




