三つ
「うぐっ!」
自分の転がった手首を見た仲間の顔がショックに歪む。
仲間は遅れてきた痛みに思わず叫びそうになる。しかし、黒く細い糸の束が仲間の首に絡みつき、悲鳴は遮られた。
糸を辿ると、ナナシの頭に繋がっている。それは黒く細い糸の正体は髪の毛だった。
「ひっ、ひいいいい!ば、化物!」
もう一人の仲間が逃げようとするが、伸びた髪の毛が仲間の首を凄まじい力で絞める。
仲間は、いや、私の妻は、あっという間に気を失った。
私は、目の前の光景にただ茫然としていたが、妻を気絶させられたことによって、はっと我に返り、妻の首を髪の毛で締め上げている化物に突進する。手に持っていた角材を振り上げ、化物に殴りつけた。
殴りつけた箇所が不自然に凹む。
だが、化物は何事もないように私を見た。
「ひっ!」
あまりの光景に悲鳴が漏れた。角材を持つ手が振るえる。
突然、ベコベコベコと化物の顔が凹凸を繰り返しだした。
グニャグニャグニャグニャグニャグニャグニャグニャグニャグニャグニャと化物の顔はさらに変形を続ける。
そして、変形が止まると同時に化物はうなだれた。一時の沈黙の後、うなだれた化物が顔を上げる。
そこにあった顔は男の顔ではなく、美しい女の顔だった。
恐怖を忘れ、思わず女の顔に見蕩れてしまった。女の透明で澄んだ目と目が合う。
その瞬間、体中から力が抜けた。
握力がなくなり、持っていた角材を落とす。足の力も入らなくなり、立っていられなくなる。私はその場で崩れ落ちてしまった。
意識がだんだん薄れていく。
私は、下から女を見上げた。女は倒れている私達三人を一瞥したが、何の関心もなく、小屋から出て行ってしまった。
そこで私の意識は完全に途絶えた。
何分、何時間、気を失っていたのか分からないが、私は目を覚ました。
意識は戻ったが、手足は全く動かなず、声も出せない。
妻は、まだ気を失っている。もう一人の仲間は食い千切られた手首から血が漏れており、周辺は血だまりになっていた。顔は真っ青で意識がない。生きているのかどうかすらわからない。もし、まだ生きているのなら、一刻も早く手当をしないといけない。
『にゃーお』
どこからか猫の声がしたが、無視する。今は猫などにかまっている余裕はない。
『にゃーお』
また猫の声が聞こえた。なんだか先ほどよりも近くで聞こえる。
『にゃーお』
また聞こえる。そこで気づいた。猫の鳴き声は一つではない。
猫の声は、三つ聞こえた。三つの声が同時に鳴いていた。
かろうじて動く首だけ動かして、周りを見渡す。
『にゃーお、にゃーお、にゃーお、にゃーお、にゃーお』
猫の声が近づくにつれ、ガタガタと小屋全体が揺れる。
埃が舞い、物が落ちる。
まだ声は出ない、私は心の中で叫んだ。
「何なんだ?何なんだよ!いったい!」
すると鳴き声はピタリとやんだ。
「ほっ」と安心する。
ピチャ。
顔に何かが飛んできた。それは口にも入ったらしい、鉄の味が口の中に広がった。
私は首を動かす。
目に飛び込んできたのは、手首を食いちぎられた仲間の頭に噛みついている、首が三つある巨大な猫だった。
猫がさらに顎に力を込めると、仲間の頭はあっけなく潰れ、部屋中に血が飛び散った。
私は理解した。先ほど顔に掛かったのは仲間の血だったのだ。
猫は肉片を吐き出し、歩き出す。その視線の先には私の妻がいた。
「動け、動け、動け、うごけ、ウゴケ」
手足に動けと命令するが、ピクリとも動かない。猫はゆっくりと妻に近寄る。猫の真ん中の頭が大きく口を開ける。
「逃げろー!」
叫ぼうとするが、声が出ない。猫は妻の首に軽く噛みつき、ジワジワと牙を首に食い込ませていった。
「うっ、うっ?」
妻はようやく目を覚ましたが、自分に起きていることを理解できないでいる。足をバタつかせ、牙を外そうとするが、牙は徐々に食い込んでいく。
妻の顔が苦痛で歪み、首から血が出る。口からよだれ、目から涙が漏れる。
そこで、妻と目が合った。
妻は必死に私に向けて手を伸ばす。私も手を延ばそうとするが、手は動いてくれなかった。
やがて、猫の牙は妻の首に完全に食い込んだ。
首から大量の血が流れ、妻は絶命した。
猫は妻の首から牙を外し、くるりと振り返る。こちらに一歩、また一歩と向かってくる。
猫の牙が私の頭に食い込んだ。ミシミシと頭蓋骨に穴が開く音がする。
想像を絶する苦痛が私を襲った。
恐怖と絶望と後悔の中、私の人生はあっけなく終わった。
外に出た野上は、小屋をじっと見ていた。
やがて、壁をすり抜けて首が三つある猫が現れる。猫の口は真っ赤に染まっていた。猫は野上に気づく、元神と神はお互いに見つめ合う。
猫は足をそろえ、深々と頭を下げた。
野上もそれを見て頭を下げる。
猫は深く屈み、勢いよくジャンプした。何もない空中に着地する。
そのまま空中を走り猫はどこかへと立ち去った。
猫が立ち去った後、野上は離れの中に入る。
中には三つの死体があった。
一つは、ここに来ると乗ったバスの運転手
一つは、この宿の女将
一つは、この宿の番頭
見知った顔だったが、野上は特に何も感じない。彼女にとってはそれはもう物でしかった。
「キーーーー」
野上は特殊な声で叫ぶ。
ガサガサガサガサとどこからともなく怪奇生物が集まってきた。
彼女は三つの死体を指差す。すると怪奇生物達は原形をとどめていない死体を食べ始めた。
通常、怪奇生物は人間の死体を直接喰うことはできない。
しかし、力の強い化物の唾液などを浴びることによって、死体が怪奇生物達と同じ存在になれば喰うことは可能となる。
怪奇生物達は、すぐに死体を喰い尽くし、周辺に飛び散った血も残らず吸い尽くした。
野上が再び「キーーー」と鳴くと怪奇生物達は皆どこかに行ってしまった。そこには、何もない。もし、人間がどんな最新技術を使ったとしてもそこに死体があったという証拠を発見することは、もうできない。
「野上さーん」
遠くで、本物のナナシが呼ぶ声が聞こえる。
野上は人間には特に興味はないが、彼は特別だ。
彼女は小屋に背を向け、大切な人間の元に走り出した。




