暗殺者の刃は、ヒーロー登場の完璧なキューサインに過ぎない
特別尋問室から『嘆きの水牢』の最下層にあるマイ・スイートルーム(※ただし見た目は鉄格子付きの牢獄)に帰還した私は、敷き詰められた藁のベッドにふわりと腰を下ろした。
ドルーススとの極上の朗読劇を終えた私の心は、大仕事をやり遂げた舞台女優のような心地よい疲労感と達成感に満ちていた。
「はあ……素晴らしいセッションだったわ」
誰にも聞こえないほどの小さな声で呟き、私は昨夜アウレリウス殿下が差し入れてくれた純白のドレスの裾をそっと整えた。
ドルーススのあの見事なまでの「ぐぬぬ」顔。何度思い出しても白米が食べられそうである。第一皇子ティベリウスの腰巾着として暗躍する彼は、この後も何度か私の前に立ち塞がるが、その度に私の「正論パンチ」を食らって退散することになる。彼との舌戦は、この退屈な(?)牢獄生活における最高のスパイスだ。
コツ……コツ……。
やがて、控えめな足音が近づいてきた。
時計はないが、体内時計と胃袋の空き具合からして、ちょうどお昼時だろう。足音の主は、すっかり私の専属ギャルソンのようになっている老看守、ティトゥスだ。
「……お嬢様。お加減はいかがですか」
ティトゥスは周囲を警戒しながら、鉄格子の隙間からおもむろに木製のトレイを差し入れた。
「先ほど、ドルースス卿の尋問を受けられたと聞きました。あのような卑劣な輩に、さぞや恐ろしい目に遭わされたことでしょう……。せめてもの慰めに、こちらを」
ティトゥスの声は震えていた。可憐な公爵令嬢が、あの悪名高いドルーススの毒牙にかけられ、涙も枯れ果てるほど精神をすり減らしていると本気で信じ込んでいるのだ。
私は「恐ろしい目どころか、論破してスカッとしてました」などと言えるはずもなく、ひどく憔悴した儚げな表情を顔面にセットした。
「ありがとう、ティトゥス。……ええ、とても恐ろしい時間でしたわ。でも、お父様とお兄様の誇りを守るため、私、一歩も引きませんでしたのよ」
私が弱々しく微笑むと、ティトゥスの目からまたしてもボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「おお……なんという気高さ。ユリウス閣下は、本当に素晴らしい娘君をお持ちになられた……っ。さあ、冷めないうちに召し上がってください」
トレイの上に乗っていたのは、帝国名物のクリーミーなキノコのポタージュと、焼きたてのチーズブレッド。そしてデザートに、小ぶりだが艶やかなベリーのタルトまで添えられていた。
(ちょっと待って! ベリーのタルト!? 地下牢のメニューに絶対ないでしょこれ! ティトゥスさん、自腹で地上のパン屋まで買いに走ってくれたの!?)
私は彼の優しさに本気で胸を打たれそうになりながら、「……甘いもの、とても久しぶりです。本当に、ありがとうございます」と涙ぐんで見せた。
ティトゥスが足早に去った後、私はポタージュにチーズブレッドを浸し、最高のランチタイムを満喫した。キノコの濃厚な風味が口いっぱいに広がり、とろけるチーズの塩気が絶妙なハーモニーを奏でる。ベリーのタルトも、甘酸っぱくて絶品だった。
この『嘆きの水牢』、食事のクオリティが高すぎて、もはや出たくないレベルである。
しかし、ゆっくりとくつろいでいる暇はない。
私は食後の口元を優雅にハンカチ(これもアウレリウス殿下の差し入れの中に紛れていた高級品)で拭いながら、これからの展開に向けて思考を巡らせた。
今日の尋問で、私はドルーススの突きつけてきた偽造書類の矛盾を完璧に論破した。
この情報は、ドルーススから第一皇子ティベリウスのもとへ即座に報告されるはずだ。
そして焦ったティベリウスは、ウァレリウス家の令嬢が予想以上に厄介で、しかも皇帝暗殺の偽装の綻びを突いてくる危険な存在だと認識する。
となれば、彼が次に取る行動は一つ。
――『口封じのための、地下牢への暗殺者派遣』である。
(これが第一巻・第五章のメインイベント、『深夜の襲撃』ね!)
私はワクワクしながら、藁のベッドの上に座り直した。
深夜、私の牢に音もなく忍び寄る黒装束の暗殺者たち。彼らは睡眠ガスで看守を眠らせ、いとも簡単に私の牢の鍵を開ける。そして、無慈悲な刃が私の細い首筋に迫った――まさにその絶体絶命の瞬間!
『彼女に触れるな、薄汚いネズミ共』
という最高に痺れる決め台詞と共に、アウレリウス殿下が颯爽と駆けつけてくれるのだ。
このイベントは、ヒロインとヒーローの距離が一気に縮まる超重要フラグである。
もちろん、残酷描写ゼロのこの世界において、暗殺者の刃が私の肌に触れることは絶対にない。彼らのナイフは寸前で殿下の剣によって弾き飛ばされるという、見事な殺陣が約束されている。
「となれば、暗殺者がいつ来てもいいように、身だしなみを整えておかなくちゃね」
私は純白のドレスのシワを伸ばし、銀色の髪が最も美しく見える角度を鏡もないのに感覚で調整した。殿下が扉を蹴破って入ってきたとき、月明かり(松明の光)に照らされた私が、恐怖に震えながらも気高く美しい姿でなければならないのだ。
待つこと数時間。
地下特有の冷気が一層強まり、夜の深まりを告げ始めた頃。
――ふっ、と。
回廊の奥で揺らめいていた松明の炎が、一つ、また一つと不自然に消えていった。
(……来た!)
私はベッドの隅に身を寄せ、両手で膝を抱えるポーズをとった。完璧な「怯える令嬢」の完成だ。
微かな衣擦れの音が響く。普通の人間なら聞き逃してしまうほどの足音だが、大長編を何度も読み返し、これから何が起こるかを知り尽くしている私の耳には、それが明確な「キューサイン」として聞こえていた。
ドサッ、という鈍い音が回廊の入り口で響いた。
おそらく、見回りをしていた別の看守が、非致死性の強力な睡眠薬を嗅がされて倒れた音だ。
やがて、私の牢の前に、黒い布で顔を覆った三つの人影が音もなく現れた。
手には、鈍い光を放つ短剣が握られている。
「……誰?」
私は震える声で問いかけた。恐怖で声が掠れているような完璧な発声だ。
暗殺者たちは何も答えない。ただ、一人が懐から油を差した鍵束を取り出し、私の牢の鉄格子にカチャリと差し込んだ。
ギィィ……と、重い扉が開く。




