悪徳尋問官の脅迫は、極上の朗読劇
翌朝。私は小鳥のさえずり……ではなく、遠くで響く鉄格子の開閉音と、微かな地下水脈のせせらぎの音で目を覚ました。
固い石の床に敷き詰められた藁のベッドは、思いのほか私の体にフィットしており、前世の安アパートにあったへたったスプリングマットレスよりも遥かに快適な睡眠を提供してくれた。目覚めはすこぶる良好である。
私はゆっくりと身を起こし、昨夜アウレリウス殿下が差し入れてくれた純白のドレスと上質なウールのショールを手に取った。
薄暗い松明の光の下で見ても、そのドレスがどれほど一級品の絹で仕立てられているかがわかる。余計な装飾を排したシンプルなデザインだが、だからこそ素材の良さと仕立ての美しさが際立っている。
(それにしても……サイズが私にピッタリすぎるのよね)
私は泥だらけになった昨夜のドレスを脱ぎ捨て、真新しい純白のドレスに袖を通しながら、内心でニヤニヤと笑いそうになるのを必死に堪えた。
ヒロインのサイズを完璧に把握しているヒーロー。これはロマンス小説における「あるある」であり、最高の萌えポイントである。アウレリウス殿下は、表向きは私に冷たく接しながらも、裏では私のドレスのサイズまで密かに調べて用意してくれていたのだ。その執念と健気さを想像するだけで、ご飯が三杯は食べられそうだった。
着替えを終え、美しい銀糸のような髪を手櫛で整えていると、私の牢の前にコツコツと遠慮がちな足音が近づいてきた。
昨夜の当直看守であり、すっかり私の味方になってくれた老兵士、ティトゥスである。
「……お嬢様。朝食をお持ちしました」
ティトゥスは、周囲に他の看守がいないことを油断なく確認すると、鉄格子の下にある差し入れ口から、木製のトレイをそっと押し入れてくれた。
本来、この『嘆きの水牢』の囚人に与えられる食事は、石のように硬い黒パンと、具の浮いていない塩水のようなスープだけである。
しかし、私のトレイに乗せられていたのは、ふっくらと焼き上がった白パンと、ゴロゴロと野菜やベーコンが入った湯気の立つ温かいポトフだった。さらには、甘い果実水まで添えられている。そして、綺麗なタオルとお湯も用意してくれていた。
(キタキタキタ! ティトゥスさんの特別待遇! これぞヒロインの特権!)
私は心の中でガッツポーズを決めながらも、表面上は驚きと戸惑いに満ちた表情を作り上げた。
「ティトゥス様……これは? 私のような大罪人に、このような立派な食事と体のケアは……」
「滅相もございません! 私を『様』などと呼ぶのはおやめください!」
ティトゥスは慌てて首を振り、顔の皺を深く刻んで悲痛な表情を浮かべた。
「私は、ユリウス公爵閣下にはかつて命を救われた恩義がございます。あの方の御令嬢が、このような冷たい牢獄に……しかも、濡れ衣で……っ。私にはこれくらいのことしかできません。どうか、どうか召し上がってくだされ。お体を壊されてはなりませぬ」
彼の目には、昨夜と同じように涙が光っている。本気で私の身を案じ、この理不尽な状況に怒り、絶望してくれているのだ。
私は彼への罪悪感をほんの少しだけ抱きつつも(ごめんなさい、ティトゥスさん! 全部シナリオ通りで安全なんです!)、悲劇の令嬢としての演技を続けた。
「ありがとうございます、ティトゥス。あなたのそのお心遣いだけで、私はどんな苦難にも耐えられますわ。お父様も、きっとあなたに感謝していることでしょう」
私が微笑みながらそう言うと、ティトゥスは「おお……なんとお労しい……」と嗚咽を漏らし、逃げるように持ち場へと戻っていった。
誰もいなくなったのを確認してから、私はほかほかの柔らかい白パンを千切り、食べる。
熱々の野菜スープのふたを持ち上げた瞬間、温かい湯気と一緒に、ガーリックとオリーブオイルでじっくり炒めたセロリの香ばしい匂いが一気に充満する。これだけで胃がキュッと収縮して、急に強烈な空腹が襲ってきた。
深めのスプーンで器の底からすくい上げると、クタクタに煮崩れたキャベツと、フチが少し焦げた厚切りベーコン、大きな角切りニンジンとゴロっとしたジャガイモが重たく乗っかってくる。
ふーふーと息を吹きかけ、まずはフチからスープを一口啜る。
舌に当たった瞬間に走る、ガツンとした塩気と、野菜の旨味を吸い尽くしたオイルの強烈な熱さ。間髪入れずにキャベツを噛み締めると、黄金色に透き通った玉ねぎと野菜の汁が、熱々のままジュワッと口いっぱいに溢れ出して喉の奥へ流れていく。
続いてスプーンに乗ったニンジンを口に入れると、歯がいらないくらい舌の上でホロリと崩れ、根菜特有の濃い甘みがじんわり広がる。スープの塩気と混ざり合っていき、これがたまらない。
次にジャガイモ。角が取れてトロトロになった表面から一転、ホクッとした芯の中に熱々のスープがたっぷり染み込んでいて、噛むたびにハフハフと息を吐き出さずにはいられない。そこに厚切りベーコンの脂のコクとスモーキーな香りが追いかけてきて、満足感が跳ね上がるのだ。冷え切っていた口の中に熱と脂が直接届いて、呑み込んだ先から胃のあたりがじわっと熱を帯びていく。
旨い。止まらない。
口の中を火傷しそうになりながら、ふーふーと言い、舌を少しヒリヒリさせながら、焦るようにまた次のひとすくいを口へ運んでしまう。あっという間に、入れ物いっぱいに入っていたスープを全部平らげてしまった。
「ごちそうさまでした」
(んん〜っ! 美味しかった! 昨夜の殿下の差し入れのハチミツパンも最高だったけど、この野菜スープも絶品ね。帝国地下牢の厨房、星三つです!)
優雅に、しかし完食のスピードは速く朝食を平らげた私は、食後の果実水で喉を潤す。そして温かいお湯で濡らしたタオルで体を拭いていく。同時に、これからの予定を頭の中で反芻した。
時刻はそろそろ朝の九時頃だろうか。
この第一巻のシナリオ通りに進むのであれば、そろそろ『彼』がやってくるはずである。
カチャカチャ、という複数の金属音と、威圧的なブーツの足音が地下回廊に響き渡ったのは、まさにその時だった。
私の牢の前に現れたのは、四人の武装した兵士と、その中央に立つ一人の男だった。
男は三十代半ばほど。神経質そうに痩せこけた顔に、蛇のように冷たく細い目。黒い髪を油で撫でつけ、鼻眼鏡の奥から私をねっとりと見下ろしている。
(出たあああああっ!! 第一皇子ティベリウスの手先、悪徳尋問官のドルースス!!)
私は内心で盛大なファンファーレを鳴らした。
彼こそが、この序盤における中ボス的キャラクター、特別異端審問官のドルーススである。皇帝暗殺未遂の偽証拠をでっち上げ、私たちウァレリウス一族を陥れた実行犯の一人だ。
アニメ化された際には、ベテランの怪演声優さんがキャスティングされ、その「ネチャァ……」とした独特の喋り方がファンの間で大ウケした名物キャラクターである。
「おやァ? これはこれは……ウァレリウス公爵家の美しき御令嬢が、まるでドブネズミのようにみすぼらしい姿に成り下がって……。いやはや、実に同情を禁じ得ませんなぁ」
ドルーススが、大仰な身振りを交えながら、芝居がかった声で言った。
(おおおお! 生『おやァ?』が聞けた! 声帯の震え方までアニメ版の解釈と完全一致! 感動で涙が出そう!)
私は大歓喜の渦に包まれていたが、表情筋は微塵も緩めなかった。怯えたように肩をすくめ、純白のドレスの裾を強く握りしめる。
「あなた……は……?」
「申し遅れました。私は帝室特別異端審問官、ドルーススと申します。ルキア・ウァレリウス容疑者、あなたには皇帝陛下暗殺未遂に関する重要な尋問に同行していただきます。……おい、出せ」




