嘆きの水牢は、私だけのVIPルーム
ガタゴトという車輪の音が、帝都の滑らかな石畳から、地下へと続く粗い石造りのスロープへと変わった。
急な下り坂に差し掛かり、馬車の車体が大きく傾く。窓の鉄格子から差し込んでいた月明かりは完全に遮断され、代わりに松明の赤黒い炎が一定の間隔で通り過ぎていく。
空気の質が変わったのがわかった。地上の雨の匂いから、長い年月をかけて蓄積された石と苔、そして微かな鉄の匂いが混ざり合った、地下特有の冷たく重い空気へ。
護送用馬車は、帝都の地下深くに広がる巨大な迷宮――『嘆きの水牢』へと足を踏み入れたのだ。
一般的に、『嘆きの水牢』といえば、泣く子も黙る帝国最悪の牢獄として知られている。
かつて反逆者や大罪人が収容され、日の光を浴びることもなく、冷たい地下水に半身を浸しながら正気を失っていくという、生きて帰ることは二度とない地獄。皇帝の逆鱗に触れた者だけが落とされる、絶望の終着点。
馬車を引く騎士たちの顔にも、これから向かう場所に対する本能的な恐怖と嫌悪感が張り付いているのが、薄暗い中からでも見て取れた。
(ああっ、この重苦しい雰囲気! BGMで言うならコントラバスの重低音が響き渡る絶望のテーマ曲ね! 騎士たちの怯えた表情もリアリティがあって素晴らしいわ!)
私は内心で拍手喝采を送りながら、表面上は膝を抱えて震える可憐な公爵令嬢を演じ続けていた。
実際には、私はこれから向かう場所が「地獄」などではないことを知っている。
クリーンなロマンス小説の世界だから、ヒロインである私が、汚水に浸かったり、ネズミと同居したり、不衛生な環境で病気になったりすることは、絶対に、何があっても、天地がひっくり返ってもあり得ない。
むしろ過酷な設定に見せかけた「安全地帯」である。私はそれを知っているからこそ、これから案内されるお部屋(牢獄)のクオリティに胸を躍らせていた。
やがて馬車が重々しい音を立てて停止した。
「……降りろ。到着だ」
護衛の騎士の声は、どこか強張っていた。彼らですら長居したくない場所なのだ。
ガチャンと扉が開かれ、私は促されるままに馬車を降りた。
目の前に立ちはだかるのは、黒鉄でできた巨大な門。その両脇には、顔の半分を鉄の仮面で覆った屈強な看守たちが、微動だにせず立ち尽くしている。
「罪人、ルキア・ウァレリウス。皇帝陛下暗殺未遂の容疑により、此度より『嘆きの水牢』最下層への収監を命じる」
騎士が巻き物を読み上げると、ギギギギ……と耳障りな音を立てて、巨大な黒鉄の門が開いた。
私を待ち受けていたのは、牢獄長であるガイウスだった。隻眼で顔に大きな傷がある、いかにも恐ろしげな大男だ。
「ウァレリウス公爵家の令嬢か。……ふん、こんな小娘が陛下に毒を盛るとはな。まあいい、ここに入れば身分など関係ない。ついてこい」
ガイウスの低い声が地下道に反響する。
私は怯えたように肩を跳ねさせ(完璧なリアクションだ)、彼の後ろを歩き出した。
迷路のような地下回廊を進む。両脇には無数の鉄格子が並んでいるが、奇妙なことに他の囚人の姿はまったく見えないし、うめき声一つ聞こえない。
当然だ。この区画は現在「たまたま(意図的)」に空いており、完全なプライベート空間が確保されている。
やがて、一番奥の特別牢の前に到着した。
「ここがお前の部屋だ。手を出せ」
ガイウスに促され、私は後ろ手に拘束されていた両手を差し出した。
ガチャリ、と鍵が回され、手錠が外される。
その瞬間、私は思わず感嘆の溜め息を漏らしそうになった。手錠が外された私の手首には、赤い跡一つ、擦り傷一つついていなかったのである。
(すごい! あんなに重厚な手錠だったのに、まるでシルクのリボンで縛られていたかのように無傷! さすが神(作者)! ヒロインの美しい肌に傷一つつけることを許さない圧倒的な加護!)
牢の中へと押し込まれ、背後で重い鉄格子が閉められる。
「大人しくしていろ。朝になれば食事が来る」
そう言い残し、ガイウスの足音は遠ざかっていった。
私は一人、暗い牢獄の中に取り残された。
さあ、お待ちかねのルームツアーの時間である。
私は鉄格子の外に誰もいないことを確認すると、スッと真顔に戻り、暗闇に目が慣れるのを待って牢内の探索を開始した。
(さてさて、『嘆きの水牢』最下層の実力を見せてもらおうじゃないの)
まず床。水牢という名前だが、水など一滴も溜まっていない。それどころか、石造りの床には驚くほど分厚く、乾燥した真新しい藁が敷き詰められていた。踏みしめるとサクサクと心地よい音が鳴り、下手な安宿のベッドよりもクッション性が高い。
壁は冷たい石だが、地下特有の嫌な湿気はなく、むしろ適度な湿度が保たれていて肌に良さそうだ。隙間風もなく、温度は常に一定の「少し肌寒い程度」に保たれている。
さらに奥には、なんと簡素だが清潔な木製のベッドとトイレまで用意されている。ベッドの掛け布は粗末な麻だが、変な臭いは一切しない。洗い立てのお日様の匂いすらする。
(最高か。完全なるファン用VIPルームじゃないの。これなら余裕で引きこもれるわね)
私は藁の上に大の字に寝転がりたい衝動に駆られたが、ぐっと堪えた。
いけない。そろそろ『あの時間』だ。
私は立ち上がり、鉄格子に細い指をかけ、冷たい石の床(藁が敷かれていない部分)にペタンと膝をついた。そして、月明かりの代わりに差し込む松明の薄明かりに向けて、憂いを帯びた顔を作る。
足音が聞こえる。
微かに引きずるような、不規則な足音。
今日の当直看守であり、のちに私を助ける重要キャラクターとなる老兵士、ティトゥスだ。彼はかつて父ユリウスの部下であったが、陰謀により左遷され、この地下牢の番人をさせられている。
彼が私の牢の前に差し掛かる絶妙なタイミングを見計らい、私は喉を震わせ、第一巻第三章の名シーン『絶望の独白』を開始した。
「……ああ、神よ。どうか教えてください。私たちが何をしたというのでしょうか」
私の静かで、悲痛な声が地下牢に響き渡る。
鉄格子の外で、ティトゥスの足音がピタリと止まるのがわかった。
「お父様は、誰よりも帝国を愛し、陛下に忠誠を誓っておられました。お兄様は、民のために日々学問に励んでおられました。それなのに、なぜこのような無実の罪を着せられなければならないのでしょう……」
私は両手を胸の前で組み、祈るようなポーズをとった。瞳にはうっすらと涙を浮かべる(前世で泣ける映画を思い出して涙腺を刺激した)。
「私の一命など、どうなっても構いません。ですが、どうか、どうか誇り高きウァレリウスの家名だけは守ってください。お父様とお兄様を、お救いください……っ!」




