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月の斑(はん)  作者: エーテル
第一幕・隣接する夜: 『鋼鉄と月光の奔流』
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第70話「白き微笑みの脆さ」

 大気は凍てついていた。月光がこの大都市に降り注ぎ始めてからずっと、そうであったように。


 だが、砂漠の無慈悲な夜がもたらす冷気だけが、この亀裂を凍らせているわけではなかった。それは、水を浄化する精霊の純粋な液体の本質が放つ、神秘的な冷気でもあったのだ。


 しかし、その瞬間。砂漠の底、数百メートル下に広がる巨大な壁に囲まれた空間の空気は、全く別の理由で凍りついていた。


 それは、グンダーから放たれる、原始的な生存本能――殺気であった。


 そのオーラは、自身の胸から生み出した鎖で亀裂の壁に未だしがみついているヴァリスを、完全に硬直させていた。


 (……はぁ、本当に勘弁してくださいよ……)


 ヴァリスは引きつった顔で、上空を見上げる大精霊を観察し、その身から放たれる圧倒的な殺意を感じ取っていた。


 ヒンペリアでさえも、警戒と深刻さを顔に浮かべて彼を見つめていた。大精霊の次の動きに対する不確実性を前に、その唇から洗練された微笑みは既に消え失せている。


 グンダーの紫紺の瞳――猫のように縦に裂けた瞳孔は、極度の緊張でカッと見開かれていた。歯をギリギリと力強く食いしばり、鋭い犬歯が今にも唇を突き破りそうだったが、わずかに開いた口からは、戦闘のストレスによる荒い息が漏れ出ている。


 (悪魔の魔法だと……この薄汚いウジ虫ども……本気で余を怒らせるつもりか!)


 ギュッ!


 グンダーは暴力的なまでに両手を握りしめた。彼の肉体はあまりにも華奢になり、着ている長いオーバーコートに今にも飲み込まれてしまいそうだった。


 (いや……奴らが知っているはずがない……)


 スゥゥーッ……


 彼の歯の隙間から、荒々しい息が漏れた。肉体的な呼吸など必要ないはずの彼が、強引に自らを落ち着かせようとしているのだ。


 やがて、その瞳は静けさを取り戻し、再び鋭く冷徹な眼差しへと戻った。


 グンダーが思考の海に沈んでいたその僅かな隙を突き、ヒンペリアが再び動いた。


 ブチャッ!


 血の雲の中から、異形に歪んだ四肢が次々と芽生え始める。いつものように、魔力の防壁がその強襲を弾き返した。精霊は再び、眼下の敵へと意識を集中させる。


「もう十分だ……」彼は冷酷に宣告した。


 グンダーは右手を掲げ、背後に魔法の球体を顕現させる。


 その、ほんの一瞬のことだった。


 ヒンペリアが、微笑んだのだ。


「フッ」


 グンダーの目が驚愕に見開かれた。圧倒的な殺意と、腐り果てた人肉の悪臭が混ざり合った気配を感じ取ったからだ。


 ゼルタニアの魔法によって生み出された数十体もの肉の融合体アマルガムが、グンダーの頭上に浮遊していた。無数の手足を縫い合わせたようなその異形の腕が、精霊の身体を八つ裂きにせんと迫り来る。


 シュバッ!


 彼は咄嗟に身体を反転させた。追尾魔法を放とうとしていた腕を後方へ曲げ、緊張に満ちた顔で青白いエネルギーを凝縮させ、背後を覆う円形の盾を形成する。


 ガキィィンッ!


 魔法の盾に触れた怪物どもは次々と引き裂かれ、その四肢をバラバラにしながら深淵へと落下していった。


 ドシュゥゥゥン!


 突如、大気の圧力が変わった。加圧された血のジェットが、ミサイルのように彼をめがけて発射されたのだ。


 グンダーは空いた手で、その元凶へ向けて防御を張った。


「チッ」


 舌打ちをする精霊。ヒンペリアが自らの足場としているのと同じ「血と肉のプラットフォーム」が、数十個も形成されていることに気づき、彼は苛立ちを募らせた。


 ヒンペリアは自身の物質を操り、新たな異形の足場を創り出していたのだ。そこに醜悪な足を踏み入れた怪物たちは、即座に再生を始める。空を舞う肉片が、まるで磁石のように彼らの身体へと吸い寄せられ、再び繋ぎ合わされていく。


 (これが、あの魔法の結果だというのか!?)


「笑わせるな!」


 彼が咆哮した。かつての男性的な声色は、徐々に女性的なトーンを強く帯びてきている。


 グンダーは両腕を広げ、青き魔法を敵へと放った。対するヒンペリアは、絶対的な余裕を保ったまま微笑んでいる。


 肉の足場が宙を舞い、精霊の反撃を避けながら距離を詰めてくる。数メートルの距離に達した瞬間、異形どもが一斉に跳躍した。


 ザンッ!ザンッ!


 腕を交差させながら、グンダーは袖から生み出した水を致命的な刃へと変えた。飛びかかってくる怪物の肉を、次々と削ぎ落としていく。


 しかし、その群れは無尽蔵だった。グンダーがどれだけ切断し、顔を潰そうとも、怪物たちはすぐに元の姿に組み上がってしまう。ヒンペリアは常に肉の足場を近くに配置し、無限の攻撃サイクルを維持していたのだ。


 この醜悪な怪物どもの不死性に加え、ヒンペリア自身が放つ高圧の血の弾丸が襲い来る。下方に立つ男は、その洗練された微笑みを崩すことなく、鋭利な骨の刃で武装した異形の腕による物理攻撃をも完全に指揮していた。


 神秘の盾と、生み出された水流が、グンダーの周囲に鉄壁の結界を維持している。敵がそれを破ることはない。だが、精霊は完全に防御へと追い込まれ、身動きが取れなくなっていた。


 (奴の狙いが時間稼ぎだということは分かっていた。だが、これほどとはな。奴は余を封印することがほぼ不可能だと知っている。あの分身使いの虫ケラならその能力を持っているが、今の余の状態であっても、成功する確率は皆無に等しい)


 バァァンッ!


 斬撃の動作の最中、グンダーは右手を強く握り締め、水を球状に圧縮した。腕の振り抜きに合わせて手を開くと、水の波動が起爆し、右側面に群がっていた異形どもを完全に吹き飛ばした。


 だが、グンダーの予想通り、肉体は再び再生する。少しだけ小さくなった姿で。


 (このゴミどもを完全に消し去るには、永遠の時間がかかる。それに加え、奴は少しの隙も見逃さずに攻撃を仕掛けてくる)


 絶対的な混沌の渦中にありながらも、精霊の頭脳は冷徹かつ論理的に回転し続けていた。


 (沈黙の魔法を使えば、奴とこの化け物どもの繋がりを断つことができる。だが、その術の使い手は山脈にいる。余をもってしても、これほどの距離を越えて大魔法を行使するのは不可能だ)


 (奴は意図的に余を足止めしている。最初から、余と洞窟の入り口の間に立ちはだかっていた。もし余が奴らを無視して術者の元へ向かえば、その隙を突いて奴らは入り口に侵入し、イングリッドの元へたどり着いてしまう。かといって、余が全力を解放して戦えば、イングリッドを危険に晒すことになる!最悪、あの子を巻き添えにしてしまう……)


 バシャッ!


 水流がまた一つ、異形の腕を弾き返す。素早い腕の振りで、別の怪物を両断する。魔法の障壁が、さらに続く連撃を受け止めた。


 揺るぎない、真剣な瞳。食いしばった歯。極限まで張り詰めた顔。


 (だが、余は……!)


 ギュウゥゥッ!


 グンダーの手が、暴力的なまでに強く握り締められた。


 ビクッ!


 ヒンペリアの黄金の瞳がカッと見開かれた。その顔から笑みが消え失せ、即座に明らかな警戒の色が浮かび上がる。


 (……だが、余は!)


 握りしめられた拳。大気の圧力が、重く、硬く変質していく。空間を満たしていた魔力が、物理的で圧倒的な質量を持った重圧へと変わる。


 (……こんなところで、立ち止まるわけにはいかぬのだ!)


 赤みがかった深い茶色の、短い髪をした小さな少女の姿が、彼の脳裏をよぎった。紫色のマントに守られた膝の上に、心地よさそうに座る彼女。グンダー自身の繊細な手がその髪を切り、切り落とされたばかりの白い毛先が床や布地の上に散らばっている。


 そして、少女の温かい微笑み。


「ありがとう、ニムエ!」


 大精霊の手が、わずかに開かれた。


 フッ……


 一瞬だけ、周囲を圧迫するような猛烈な魔力の嵐が広がったが、それはすぐに大気の中へと霧散していった。


 ドシュゥゥゥン!


 敵の血の激流が最高速度で迫り来る。それは普段、神秘の防御が遮断するはずの境界線を越えた。しかし、その前進もほんの数センチメートル長引いただけで、ヒンペリアの放った一撃を停止させるべく魔力の障壁が介入した。


 だが、この極小の、ほとんど気づけないほどの異変を捉えた一対の鋭い眼光があった。


 その瞬間、未だ自らの鎖で土の壁に縛り付けられていたヴァリスは、じっと観察していた。


 いつもなら無気力で、疲れ果て、意志の抜け殻のようになっている彼の瞳が、今は絶対的な集中力を帯びて輝いている。


 ガキィィン!


 盾が介入したまさにその瞬間、グンダーはヒンペリアの攻撃に視線を向けた。


 右側からの追撃。今度は、いつもの水流による防御を放棄し、白熱する魔法の障壁に直接突撃が衝突した。先ほどと同様に、グンダーは力場が発生したまさにその場所へと目を向けた。


 さらに背後からの攻撃。神秘の防御はそれをも無力化した。ほとんどそれと分からないほどのわずかな顔の動きであったが、グンダーは横目で弾道の軌跡を監視していた。


 (ヒンペリア様は、あの精霊を評価しろと……観察しろと仰った……)


 ヴァリスの脳裏に記憶が木霊する。それは、精霊が本気で戦うことを宣言し、この奈落の開放空間へと戦闘を引きずり込む直前の瞬間のことだった。


「大精霊殿とて、何らかの行動パターンが存在するはずです。観察なさい、ヴァリス」


 標的に向かって飛び出す直前、主が残した言葉がそれだった。


 (はい……)


 ヴァリスはついに法則を見出していた。


 (障壁の起動は、彼の意識が直接攻撃に向いているかどうかに依存している。ジェスチャーや物理的な触媒は必要としない。水はある程度の自律性を示しているが、それも鋭敏な五感に支配されている。魔法の盾も同様だ。つまり、術の顕現はひとえに術者の『集中した知覚』に委ねられており、水自体に独自の意志など全く存在しない!)


 グチャッ……


 ヴァリスは左手で、自身の胸に繋がれた新たな鎖をゆっくりと引き抜き始めた。金属が皮膚にさらなる深い穴を穿った瞬間、鮮血が激しく噴き出す。


 (……はぁ、本当に体が痛い。私としては早く終わらせて横になりたいのですがね……)


 だが、その表情は完全にグンダーへと集中したままだった。


 すぐ近く、戦闘の渦中にありながらも、指導者の黄金の瞳は横目で従者を見やった。


 鎖が引き抜かれるのを目撃したまさにその瞬間、ヒンペリアはその合図を理解した。ヴァリスが隙を見つけたのだ、と。


 ニィッ……


 彼の顔に、大きな笑みが浮かび上がる。不気味で、病的な、勝利の笑み。


 バキバキッ!


 男は身体を前方に傾けた。両腕が異様に湾曲し、完全にへし折れて元の肉体から剥がれ落ちると、濃密で重苦しい血の雲へと変貌を遂げる。


 彼はその真紅の悪夢を、盲目的な狂気とともに、グンダーと異形の群れそのものへと叩きつけた。精霊の視界を強引に遮断するために。


「な、何だと!?」


 アマルガムたちが引き起こす耳を聾するほどの混沌の中、濃い霧に隠されるようにして、変異したヒンペリアの四肢から放たれる豪雨のような連撃がその一帯に降り注いだ。


 グンダーの周囲に築かれた本能的な防壁は完全に水流のみであり、神秘の加護の使用を放棄していた。


 ドゴゴゴゴゴッ!


 絶え間なく、あらゆる方向から一撃が炸裂する。押し潰さんとするその破壊力は、水流が耐えられる限界を超えた。その時になって初めて、濁流を遮断すべく魔法のドームが立ち上がった。


 (制圧に戦術を切り替えたか!?ならば……余が圧倒的な絶対制圧で返してくれよう!!)


 ドォォォォンッ!!!


 水の天蓋が激しく回転し、凄まじい密度へと凝縮された後、地震のような衝撃波となって爆発した。その衝撃は敵の攻勢を撥ね退けて完全に消滅させ、後には淡い血に染まった湿った霧だけが残された。


 グンダーはついに両腕を下ろした。その身体はわずかに弛緩した構えを見せ、縦に裂けた瞳がヒンペリアのいた正確な位置を探る。


 しかし、薄れゆく真紅の帳の向こうから、グンダーは凄まじい殺気を感知した。加圧された弾丸が左から空気を切り裂いて迫る。一瞬だけ視線をそちらに向けるだけで、魔法の障壁がその射撃を無効化した。


 ガチィィンッ!


 防御を呼び出したまさにその微小な一瞬、グンダーは右手に激しい衝撃を感じた。


 不意に視線を向けると、そこには血の塊がこびりついた鎖が自らの手首に巻き付き、オーバーコートの布地を強く締め上げている光景があった。


 ジャキィィン!


 直後に水流がその金属の縛りを切断する。二本目の鋭利な鎖が迫るのを感じ、彼は魔法の盾でそれを弾いたが、三度目の強襲が彼の左手首を正確に捕らえた。


 (何だと!?)


 それを引きちぎろうと水流を動かした瞬間、彼の感覚がさらなる接近を警告した。攻撃の角度を阻むべく顔を向けたが、それによって生じた隙を突かれ、右手首が再び捕縛されてしまう。


「余に対して、こんなものは無駄だ!!」


 彼が叫んだ。激昂によってその声は完全に女性の響きに支配されている。


 その時、淡い血の濃霧を割って、ヴァリスが目の前に姿を現した。鎖は敵の胸から、自由を奪われた精霊の手首へと直接伸びている。


 グンダーは歯を食いしばり、ヴァリスを消し去るべく腕を掲げた。


 ドブシャッ!


 しかし、従者の肉体は不気味な輝きを放ち、粘着質な激流となって爆発した。


 肉が内側から外へと引き裂かれ、粉々に砕けた骨が巨大な致命的なウェブの形へと再構成されていく。


 (この金属の縛りは魔法の具現ではないというのか!?この忌々しい男の、変異させた肉と骨そのもので出来ているのか!)


 捕縛を阻止すべく、グンダーは水の渦を呼び出した。直後、空中からヴァリスの新たな分身が二体出現し、標的に向けてそれぞれの鎖を発射した。精霊は輝く盾でその両方を防いだが、直後に二つの骸が血を吹いて爆発するのを目撃した。


 ザワザワッ!


 不気味な網が精霊に向かって一斉に押し寄せる。


 守護者は最初の衝突を阻止すべく水を操り、次の側面を覆うように防御壁を展開した。だが、敵の答えはヴァリスの最後の分身という形で現れた。それは背後からグンダーの身体を、自爆覚悟の抱擁で締め付けたのだ。


 (しまっ――!)


 ドォォォンッ!


 肉体が爆発した。


 その衝撃によってグンダーは淡い霧から弾き出され、鎖に縛られたまま奈落の闇の底へと真っ逆さまに墜落していく。


 彼の顔は純粋な怒りで満ち満ちていた。


「もう、たくさんだぁぁぁ!!」


 怒りの咆哮が響き渡る。それは完全に女性の響きに支配されていた。最も深い濃紫の輝きを放つ瞳で、グンダーは全力を解放して強引に脱出する備えをした。最悪、イングリッド自身をこの激戦に巻き込むことになろうとも。


 しかし、三体のヴァリスの姿が彼の進路を遮り、完全に包囲した。


 ブシャッ!


 コピーたちの胸を引き裂いて新たな鎖が飛び出し、落下中のグンダーを縛り上げていく。


 病的な舞踊のごとく、有機の器たちが次々と爆発し、腐敗した血の絡みついた金属の網へとその絆を強固に結びつけていった。


 最後の骸が崩れ去る数秒前、ヴァリスは強制的に細胞分裂ミトーシスを行い、手を伸ばして前のコピーが吐き出した鎖をしっかりと掴んだ。


 ガチィィンッ!!


 機械的な引き戻しとともに、檻はその顎を閉じ、グンダーを完全に幽閉して封印した。


 空間の虚無からヒンペリアの呼び出した肉の足場が突如として現れ、墜落の軌道を止めるべく従者の足元を支えた。


 グンダーは奈落の重力に囚われ、宙吊りのまま残された。その目は麻痺するほどの信じがたい衝撃に見開かれている。


 しかし、その呆然とした状態も次の瞬間には消え去った。肉のプラットフォームの上を、自らに向かって優雅に浮遊してくる威風堂々とした人影を見つめると、彼の顔に再び鋭く冷徹な真剣さが灯る。


「実に見事です、誇りに思いますよ、ヴァリス……」


 ヒンペリアが口を開いた。その声は絶対的な静寂を湛え、黄金の瞳が放つ脅迫的な輝きに支えられた微笑みは、寸分の狂いもなく完璧なままだった。


「本当に、あの精霊さんを封印してしまいましたね」

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