第68話「空虚なる抜け殻の交響曲(シンフォニー)」
ヒュオオオオオッ!
空気はいつの間にか、息が詰まるほどに冷え切っていた。大気中の濃密なエネルギーが、まるで無数の刃のように激しく吹き荒れ、周囲を切り刻んでいく。
金髪の少年――ラグラムは、ひどく病んだ風貌をした巨大な鳥の背の上に身を横たえていた。
その怪鳥の羽毛は泥と血でどろどろに汚れ、頭部からは数十個もの不気味な眼球が蠢きながら生え出て、四方に狂気じみた視線を走らせている。
二人が飛んでいるのは、上層都市の次なる階層の境界付近だった。遥か下方を見下ろせば、整然と並んでいたはずの建造物群が、精密な斜めの切断面を晒して無残に両断されている。その広場や路地からは、どす黒い煙がモクモクと立ち上っていた。
すでに夜が世界を支配し、都市の灯りの痕跡をすべて飲み込んでいる。
夜空に浮かぶ月光だけが唯一の光源だったが、何層にも重なり合って構築されたこの蜂の巣のような階層都市では、最上層の広大なオープンエリアでさえも、底知れない闇が完全に支配していた。
ラグラムは、自分の腕を絶え間なく再生させ続けていた。
ピキピキ、ニュルッ……
失われた箇所から新たな肉が芽吹き、恐るべき速度で成熟していく。蛇の皮で作られた彼の衣服はボロボロに裂け、戦火の熱に浮かされたその顔とは奇妙なコントラストを描いていた。
その時、広場の方から猛烈な風の唸りが彼に向かって押し寄せた。
シュパァァァッ!
「あーもう、本当にクソ面倒くさいなぁ……!」ラグラムはだるそうに、しかし苛立ちを隠さずに吐き捨てた。
彼の呼びかけに応じるように、使い魔の怪鳥が急降下する。頭上をかすめていった巨大な風の刃は、背後の上層階の基部をズバァッと一刀両断にし、構造全体の崩壊を始めさせた。
(――ゾクッとするね。本当に恐ろしいよ、まったく)
闇に紛れたオードリーの攻撃は、その起点すら予測することが不可能だった。あの女が本気を出し始めた途端、『黒鋼の刃の騎士団』は一斉に撤退したのだ。その巧みな戦術的機転のせいで、ラグラムは奴らを貪り喰らって魔力を回復する機会すら奪われていた。
空間を切り裂く鋭い風切り音が再び響き渡り、ラグラムはフゥとため息交じりの声を漏らしながら、迫り来る風の烈風を紙一重で回避する。
オードリーの正確な位置を突き止めることは、問題のほんの一部に過ぎなかった。彼女は一撃を放つたびに計算された絶妙な間を置き、瞬時に位置を変えてしまう。これでは、こちらから反撃を仕掛ける隙など万に一つもない。
(――それにさ……僕にはこんなところで遊んでいる時間なんて、ないんだよ!)
ビルの屋上群では、オードリーが次の打撃を繰り出す際のほんの僅かな躊躇さえも、戦略的な隙として利用されていた。
すぐさま黒鋼の刃の砲兵部隊が制圧射撃を開始し、容赦のない魔法の弾丸や魔導銃の火線をドドドッと浴びせてくる。
ラグラムは空中を舞うようにして、飛び交う弾丸や白熱する魔力球を器用に避けていった。どうしても回避しきれない直撃コースの攻撃に対しては、風の魔術で弾き飛ばすか、あるいはその場に下級悪魔どもをボコボコと召喚し、単なる肉の盾として身代わりに仕立て上げる。
それでも――。
「あーあ、僕の身体、これ以上もつかな……」ラグラムは奥歯をギリッと大仰に噛み締めた。
「早くしてよ、ゼルタニア……!」
◇ ◇ ◇
ドレイア村では、吹き荒れていた混沌がようやく、脆くも引き始めようとしていた。
『秩序の番人』たちが、最後の民間人を最終列車へと誘導し、避難手続きを完了させつつある。
部隊の一部は民間人を護衛するために車両へと乗り込んだが、街にはカエルと彼の防衛隊だけが残されていた。この場に残留するという決定は、ブリックスの予想に反して、カエル自身が強く望んだものだった。
「カエル隊長。整備士からの報告です。遺跡から救出された囚人たちの避難用車両は、カケウミ港までの飛行自律権を有しているとのことです。列車に比べれば速度は落ちますが、運行自体は完全に可能です」
女性番人が淡々と報告を入れる。
ブリックスは囚人たちの救出を命じていたものの、この地域の軍上層部は、極限の絶望に陥った都市の只中で彼らを一般市民と混同させることを深く恐れており、それが破滅的な結果を招くのではないかと強い警戒感を抱いていた。
カエルは上層都市の第一階層の底にじっと視線を据えていた。
足元から伝わる不気味な地鳴りを感じ、オードリーの放つ巨大な空気の刃が夜空を激しく切り裂くのを見つめながら、彼は自分自身の無力さに対する焦燥感がグッと込み上げるのを感じていた。
「隊長?」番人が怪訝そうに言葉を繰り返した。
「ただちに搭乗を完了させ、しんがり部隊を編成しろ。最前線で戦っている連中を援護するんだ」
カエルは視線を逸らすことなく、冷徹に命じた。彼は生唾をゴクリと飲み込んだ。砂漠の鋭い風が吹き抜ける中、背筋に冷たい戦慄が走るのを感じていた。
(――僕にできることは、まだあるはずだ……!)
その頃、砂の村の境界近く、囚人たちを乗せた船が停泊しているエリアで、きわめて不気味な異変が頭をもたげつつあった。
現地の番人たちは、目の前の光景に完全に混乱していた。船の座席に縛り付けられていた囚人の一人が――何十年も幽閉され、もはや魂が抜け落ちた抜け殻のようになっていた老人が――突然、狂ったように反応を示し始めたのだ。
ボロボロの衣服に包まれたガリガリの肉体が、激しく悶えながら、純粋な苦悶に満ちた叫び声をウガァァァッとあげ始める。
「落ち着け!」と看守たちが押さえつけようとするが、とうの昔に崩壊してしまった精神にその声が届くはずもなかった。
囚人はさらに激しく暴れ回り、最後には耳を聾するような悲鳴を上げた。
「一体、何が起きているんだ!?」
一人の番人が叫んだその瞬間、隣の船からも別の悲鳴がキィィィッと響き渡った。さらにその直後、また別の嘆きが沸き起こり、ついには周囲の座席から一斉に耳を刺すような絶叫の合唱が始まった。
数瞬のうちに、すべての囚人たちが死の狂気の中で一斉に叫び声を上げていた。
「何がどうなってるんだよ、これ!!」
そこから数百メートルほど離れた、出発したばかりの列車の中。窓の外の景色は刻一刻と変わっていく。
遠くから見れば、黄金のメトロポリスとその巨大な支柱群は一つの影となって溶け合い、まるで砂漠の中にぽつんと佇む巨大なオベリスクのように見えた。
列車は都市を取り囲む山脈を越え、広大な砂漠の真っただ中へと進んでいく。
まさにその、寒冷で荒涼とした山々の頂に、禍々しい薄紅色の輝きが突如としてボウッと灯った。
「あれは……何だ?」乗客の一人が恐怖に目を見開く。
「死んだものを変形させるなんて簡単なのに!」その空間に、幼くも残酷な少女の歌うような声が響き渡った。それは無垢を装った、ぞっとするほどマカブルな響きを帯びていた。
「生きている人間に変形させるからこそ、やりがいがあるんだもん!対象の意志によって、すごく労力がかかるんだよぉ。意志が強い人ほど、いーっぱい抵抗するから。だからこそ最高に楽しいの!」
怪しく明滅する薄紅色の球体の内部から放たれるその声は、邪悪な愉悦に満ちていながらも、同時にワガママな子供特有の不気味さを完璧に孕んでいた。
「それなのにさぁ!ヒンペリア様はなんでタニヤに、あんなボロ雑巾みたいな空っぽの連中に魔法を使わせるのかなぁ?あんなのを変形させたって、ちっとも面白くないよ!ヒンペリア様、あとでタニヤのことをいーーっぱい甘やかしてくれないと、タニヤ絶対に許さないんだからね!むーっ!!」
薄紅色の球体はさらに激しく電気的な脈動を繰り返し、狂ったようにチカチカと点滅を繰り返す。
「おい、本当に何なんだよあれは!?」車内の乗客たちは完全にパニックに陥り、顔を窓ガラスにピタッと張り付けながら、絶対的な恐怖に身を震わせた。
すぐさま、一人の番人が通信機をひったくった。
「山岳地帯に魔力反応!繰り返す!山岳地帯に魔力――」
彼の目が見開かれた。
輝く球体の真下の空間に、巨大な魔導陣がバサァッと展開されたのだ。薄紅色のルーン文字が空中にひとりでに描かれ、完全にぽっかりと空いた中心部を囲んでいく。
「悪魔の魔法だ……」
その瞬間、砂の村の前線基地では、座席に縛り付けられていた囚人たちの肉体が、内側から激しく発光し始めていた。
ピカァァァッ!
薄紅色の不気味な閃光が、彼らの目、鼻、口、そして耳の隙間から溢れ出す。
コンマ一秒の後、彼らの身体は内側から弾け飛び、凄惨な肉と血の雨をブシャァァァッ!!と降らせた。
その生体爆発がもたらした熱量は尋常ではなく、囚人船の機体は一瞬で激しい炎に包まれ、次の瞬間には巨大な火の玉となってドゴォォォンッ!!と爆発した。
「敵襲だァーーッ!!」番人たちが悲鳴を上げる。
カエルは、目の前で起きたあまりの惨状に完全に言葉を失った。
一瞬のうちに、救出用の艦隊は塵も残さず蒸発し、乗り込んでいた兵士たちや周囲のパトロール隊もろとも消し飛ばされたのだ。
だが、本当の恐怖の絶頂は、その直後に訪れた。
戦闘の興奮は一瞬で吹き飛び、生物としての本能的な死への恐怖が彼らを支配する。
立ち込める黒煙を割って、姿を現したのは、グロテスクで形を成さない異形の怪物たちだった。
囚人たちの肉体爆発は単なる破壊ではなく、純粋な人間の肉を材料にして、数十体ものおぞましい『忌まわしきもの(アボミネーション)』を編み上げるための触媒に過ぎなかったのだ。
「列車を守れ!総員、戦闘準備ッ!!」カエルは声を枯らして叫び、生き残った番人たちを率いて、完全な混沌の中で必死に陣形を組んだ。
しかし、予期された激突は起こらなかった。
怪物たちは奇妙に大人しく一箇所に集まり、まるで目に見えない指揮官からの命令をじっと待つかのように静止している。
カエルと彼の部隊は武器を構えたまま動けなかった。
ブーツの下の砂がカタカタと震えているのは、民間人を乗せて出発しようとしている列車の前に、脆い人間の肉の壁として立ちはだかる彼らの、隠しきれない恐怖の証拠だった。
数秒の時間が、まるで永遠のように長く感じられた。
そしてついに、獣たちが動いた。
頭部のないそのシルエットは、一見すると二本腕、二本脚の人型に見える。しかし、その身体に無数に絡みついた歪な余剰肢に目を向ければ、解剖学的な論理など最初から崩壊しているアマルガムであることが一目で分かった。
ドッ……!
群れは突如として二手に分かれた。
まるで汚染された霊長類のように野蛮な突撃を敢行しながら、二つの部隊へと綺麗に分裂していく。
第一のグループは民家の屋根へとバババッと跳び移り、上層都市へと繋がる構造物を狂ったように駆け登り始めた。そして第二のグループは、地の底へと続く深淵に向かって、一目散に猛スピードで駆け下りていく。
「私……私たちは、助かったのですか?」一人の番人が、声を震わせながら尋ねた。
カエルはただ、奥歯をギリッと噛み締めることしかできなかった。隊長は列車に背を向けると、全速力で一台の魔導二輪へと駆け寄った。
「隊長!?」
「避難を完了させ、一刻も早く上層部に増援を要請しろ!」
「ご自分は一体何を――」
「いいから行けッ!!」
抗議の声を聞き流しながら、カエルはマシンの魔導エンジンをバォォォンッ!と起動させた。
振り返ることなく、彼はスロットルを限界まで絞り込み、深淵の闇へと向かって突き進む悪魔の群れが残した、破壊の軌跡へと飛び込んでいった。




