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月の斑(はん)  作者: エーテル
第一幕・隣接する夜: 『鋼鉄と月光の奔流』
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第67話「虚空に流れ落ちる鮮血」

 ドォォォン……


 毒の濁流が放つ轟音が、いまだ暗いダクトの奥底へと木霊していた。しかし、その混沌とした雑音に混じり、鉄格子の通路を進む足音が確かに聞き取れた。


 それは、のろのろとした、重く引き摺るような足取りだった。


 ズルリ……ズルリ……


 跛行はこうするその歩みに合わせ、青みを帯びた軍服のズボンにはべっとりと濃い汚れが広がっていく。


 ポタポタ……ドクドク……


 彼の戦闘ブーツからは、まるで小さな紅蓮の川のように鮮血が溢れ出し、踏み締めるたびに金属の床を真っ赤に染め上げていく。


 右手は、番人の標準装備であるガンドラの一部を千切った布切れで、自身の顔を強く押さえていた。ブリッグスは上着を脱ぎ捨て、最後の攻撃で自らの魔力が引き起こした無数の刺し傷と、腹部に穿たれた巨大な風穴を塞ぐために、それを何本もの帯状に切り裂いていた。同じ布が、肩に残された無残な切り株――もはや左腕のあった場所にはそれしか残っていなかった――からの出血を、無駄だと知りながらも必死に食い止めようと巻き付けられていた。


 (私は……彼女が落ちるのを見た……。落ちたんだ……、確かに……)


 混濁していく意識の中で、不確かに歪んだ思考が巡る。


 爆発の衝撃で、彼のガスマスクは激しくひび割れていた。自身の放った総攻撃から身を守るべく魔力の盾を展開しようとしたものの、今の身体にはもう、そんな力など微塵も残されていなかった。かつて彼を支配していた極限の疲労は、今や彼を完全に噛み砕き、破壊し尽くしていた。


 即席の襤褸ぼろきれでは、溢れる命を繋ぎ止めるにはあまりにも足りない。足元から沸き立つ窒息性の有毒なガスが脳を揺らし、立ち込める濃密で腐食性の霧の中で、彼の酸素を容赦なく奪い去っていく。


「私は……勝った……のだろう?私は……全員の仇を……」


 ガシャンッ!


 彼の身体が前方へと傾ぎ、通路のフェンスに激しく衝突しながら、どうにかその身を支えた。


 灰色の瞳。その白目は、溜まった鮮血によって完全に真紅へと染め上げられていた。


「あぁ……私は、勝ったのだ……」


 指先から急激に力が失われ、血塗られた布切れがひらりと、眼下の化学物質の奈落へと落ちていく。残された右手だけが、落下を拒むかのように、震える手つきで冷たい金属を必死に掴んでいた。


「ついに……私は……彼らの無念を晴らした……」


 ドサッ……


 ついにブリッグスの限界が訪れた。まるで糸の切れた人形のように鉄の床へと崩れ落ち、その瞳は、ゆっくりと光を失い、閉じていく。


「勝て……先触れよ……」


◇ ◇ ◇


 下層都市かそうとしの遥か数十メートル下、ダクトの真下であり、洞窟のすぐ上に、古代キサナトラの遺跡へと繋がる不気味な岩の裂け目が口を開けていた。


 周囲を満たす魔力の圧力は、まさに圧倒的だった。


 砂漠の冷徹な大気が深淵の内部へとゴォォォ……と吹き下ろし、水の魔導生命体が放つ濃密な湿気と混ざり合って、肌を刺すような冷気を生み出している。


 自らの胸部から這い出る無数の鎖を岩肌に深く突き立て、ヴァリスは暗闇の中へと墜落せぬよう、必死に壁面へと宙吊りになっていた。極寒の突風が彼の顔を打ち据え、うなじの辺りで切り揃えられた黒髪を激しく揺らす。しかし、その表情に浮かんでいるのは、ただ退屈の極みとも言える、苦悶に満ちた倦怠感だけだった。


「ヒンペリア様は、私に一体どうしろと仰るのだ……?」風の激しい一撃に身体を岩壁へと叩きつけられながら、彼は低く自嘲気味に呟いた。「あの化け物が、一瞬の隙すら見せないというのに……」


 グンダーとヒンペリアの死闘は、いまだ衰えることなく激化していた。


 新たな段階ステートへと至ったグンダーは、その身から魔力を際限なく溢れさせていた。


 髪は数センチほど伸び、その獣じみた容貌はさらに獰猛さを増している。かつて彼の強靭な体躯を誇示していた、金色の装飾が施された紫色の外套は、今やその存在そのものを完全に覆い隠しているかのようだった。


 彼は、普段好んで使っていた水の操作を完全に捨て去っていた。


 現在の彼が操っているのは、純粋にして圧倒的な魔力そのものである。


 腕を掲げ、開いた掌をブンッ!と荒々しく握りしめる。


 ヒュヒュヒュヒュンッ!


 数十発もの青白い魔力の弾丸が、一斉にヒンペリアめがけて撃ち出された。ヒンペリアはその重力に身を任せて下方へと落下し、端正な礼服と縮れ毛の黒髪が、風の抵抗を受けて激しくのたうった。


 ヒンペリアはただ、絶対的な余裕を崩さぬまま、冷ややかに微笑んだ。


 直後、彼の肉体が禍々しい真紅の輝きを放ち、周囲に濃密な血の霧が立ち込める。


 ドゴォォン!


 青白き爆撃は紅蓮の煙を突き抜け、数メートル下の空間で急旋回すると、再び標的へと襲いかかった。しかし、宙に浮かぶ凝固した血液の塊は、さらにその体積を膨張させていく。


 グンダーの瞳が、僅かに細められた。


 赤き質量が全方位へと拡散し、自身の放った魔力を強制的に分散させていくのを見たからだ。大精霊の攻撃は触れるものすべてを消滅させる。それにもかかわらず、その血の拒絶はなおも蠢き、執拗に前進を止めない。


 ゾクッ――!


 突如として、グンダーの死角である背後の下方から、真紅の霧が猛烈な渦を巻いて襲いかかった。


 グチャグチャ……バリバリッ!


 霧の深淵から異形に歪んだ肉塊の腕が突き出し、病的な肉を突き破って現れた悍ましい骨の棘が、まるで鋭利な杭のように大精霊を串刺しにせんと迫る。


 しかし、その一撃は彼の肌に触れることすら叶わなかった。


 キィィィンッ!


 彼の背後に展開された円形の魔力障壁が、その衝撃を完全に無効化したのだ。


「無駄だ……」大精霊は冷徹な声で吐き捨てた。その響きには、本来の男声に重なるようにして、冷ややかな女性の声が二重に響き渡っていた。


 だが、この命懸けの狩りそのものが、彼の好奇心を大いに刺激していた。


 ヒンペリアはあの奇妙極まりない状態にありながら、完全に理性を保っている。その再生速度は、彼の従者たちのそれを遥かに凌駕する異常なものだった。しかし、その割には執拗に逃亡を続けている。それが、グンダーにはどうにも不可解だった。


 (奴とて、何かしらの限界は課せられているはず……)


 またしても別の不気味な腕が霧の分枝から飛び出し、正面から突撃してくる。それもまた、先ほどと同様に大精霊の盾に衝突し、無残に砕け散った。


「もう、これでお終いだ……」グンダーが宣告する。


 彼が腕を掲げたその瞬間、周囲の空間に突如として凄まじい歪みが生じた。


 先ほど感知した魔力の圧力が、今や暴虐的なまでの輝きを放って脈打っている。割れた彼の瞳孔が上空を睨み据えた。奈落の底へと苛烈な酸の濁流を吐き出し続ける、あの巨万のダクト群へと視線が固定される。その瞳に、一瞬の理解の光が過ぎった。


 ――その一瞬の隙を、敵が見逃すはずがなかった。


 肉壁の盾が激しい衝撃に耐えかねて揺らぎ、光り輝く障壁が崩壊し始めたその時、異形はその真の切り札を剥き出しにした。グンダーの背後に蠢いていた肉塊の奥深くから、ヒンペリアの上半身が、剥き出しの筋肉と腱だけの生々しい姿でヌッと這い出てきたのだ。


 突き出された右腕。それは血の鋼によって鍛え上げられた、鋭利な一本の槍へと変貌していた。


 ビュォッ!


 驚異的な反射神経で、大精霊は自らの軸を凄まじい速度で回転させ、突き出された悍ましい槍の刃を両手でガシィィンッ!と掴み取った。貫かれる、まさに数ミリ手前だった。


「大精霊殿、他人の戦いを気に掛けている余裕などありませんよ……」ヒンペリアの挑発が、静かに、しかし悍ましく響き渡る。新しく形成されたばかりの喉の奥で、粘着質な鮮血がゴボゴボと音を立てていた。


「お前こそ、己の足元を心配すべきではないか?」グンダーが言い返す。今度は女性の声音が、男の荒々しさを完全に凌駕していた。「余の感じるところでは、余の同盟者がお前の手下を仕留めたようだぞ」


 ヒンペリアは唇のない口元を歪め、不気味な笑みを浮かべた。剥き出しになった顎の筋肉線維がメリメリと引き伸ばされる。


 ギチギチギチ……


 グンダーが凝固した刃をさらに強く握りしめる。


 ドバァァァッ!


 その袖口から恐るべき速度で激流が噴き出し、禍々しい金属を伝って敵の生肉へと一気に駆け上がった。水分はヒンペリアの肉体の奥深くまで侵入し、


 バリバリバリッ!ズガァァンッ!


 内部から数十本もの氷の杭を炸裂させ、その肉体を内側から木っ端微塵に爆破した。


 大精霊が武器の残骸を放り出すと同時に、周囲を浄化する圧倒的な波動が吹き荒れ、立ち込めていた真紅の霧を一掃する。血も、肉も、内臓も、水の力によって瞬時に霧散し、完全に消滅した。


 しかし、数十メートル下。


 あれほどの猛攻を受けたにもかかわらず、血の霧のコアはなおも宙に浮遊していた。サイズこそ縮小したものの、その深淵の如き執念はいささかも衰えていない。


 その残存する質量から、肉で構成された不気味な足場が構築され、虚空へと浮上する。その不浄なる土台の上で、怪物の肉体再生アナトミーが再びそのサイクルを開始した。


 ピキピキ……ミシミシ……


 何もない空間から、人間型の肉体が急速に織り上げられていく。腱、筋肉、器官、内臓、そして骨が宙で編み合わされ、皮の剥がれたアバターが瞬く間に再構築されていく。


 その胸籠ろっこつが完全に閉じるよりも早く、


 ドォォォンッ!


 すべてを滅ぼす一撃が怪物を貫き、その構造の半分を再び吹き飛ばした。しかし、その猛攻すらも再生を加速させる燃料に過ぎなかった。細胞はさらに狂暴な怒りを宿して蠢き、再結合の速度を跳ね上げていく。


「大精霊殿は、いささか気が短すぎる……。それとも、大精霊の『お嬢様』と呼ぶべきでしょうか?あなたの容姿がますます繊細になっていくのを見るに、私にも確信が持てなくなってきました。もっとも、あなた方のような存在に性別があればの話ですが……」


 ヒンペリアの声は、最初はゴボゴボと泡立つような不気味な響きだった。しかし、言葉を紡ぐにつれて肉体が完全な形を取り戻し、表皮が剥き出しの筋肉を覆っていく。


 続いて、彼の衣服が元の姿を現した。荘厳な青みを帯びた外套が、高貴な法衣のように彼の脚元へとハラリと垂れ下がる。肉体の完全な復元と同時に、その声のトーンはどこまでも澄み渡り、完璧で非の打ち所のない気品を帯びていた。


「時間を稼いでいるのは明白だな、不浄なる悍ましきモノめ」グンダーは、言葉に剥き出しの嫌悪と軽蔑を込めて吐き捨てた。


 ヒンペリアは敵を下方から見上げ、完璧に再生されたその唇に、冷笑的な笑みを浮かべた。


 その瞳に宿るのは、病的で濁った黄色い光。それは、うなじの辺りで整えられた黒い縮れ毛と、完璧に手入れされた髭とはあまりにも対照的だった。


 浅黒い肌が、深淵の闇の中でさらに色濃く沈んでいく。


 影が彼の顔の大半を覆い隠し、ただ、彼の瞳の狂気じみた黄色い輝きと、不気味に光るその笑みだけを暗闇の中に浮かび上がらせていた。


「大精霊殿……もう、間もなく時間です」


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