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月の斑(はん)  作者: エーテル
第一幕・隣接する夜: 『鋼鉄と月光の奔流』
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第66話「理性と虚空」―― 後編:逆説の崩壊

 自身の魔法で創り出した閃光弾――その目眩ましが生んだ僅かな隙を突き、ブリッグスは勢いよく工場へと突入した。ロッカールームを素早く漁ってガスマスクを見つけ出すと、それを顔に固定し、ダクト群へと向かって一直線に駆け出した。


 巨大な化学物質の激流の上に架かる大橋を駆け抜ける。その濁流は管状の構造物を伝い、底なしの深淵に向かって滝のように流れ落ちていた。ブリッグスはいつものように、背中に槍を固定したまま走る。


 ガンッ!ガンッ!ガンッ!


 吊り橋を蹴る軍靴の規則的な金属音は、眼下で荒れ狂う激流のゴォォォォッ!という圧倒的な轟音に完全に飲み込まれていた。


 目的は、最奥に位置する排管設備に到達することだ。たとえあの女がこの絶望的な高さからの落下を生き延びたとしても、そこから逃げ込めるような街はもうどこにも残っていないはずだ。


 (いくらあの女のヴォルテックスといえど、何らかの限界が存在するはずだ。あり得ない!)


 移行エリアを抜け、第二ダクトの連絡橋へと到達する間も、番人は心の中で冷静に計算を巡らせていた。奴に発見されるまで、あとどれほどの時間が残されているか。


 (具体的に、どうやって仕留めるべきか……?)


 足元を猛スピードで流れ去る有害な奔流を睨みつけながら、彼は自問する。


 (私の魔法は、その構造さえ理解していれば、あらゆる兵器を創造することが可能だ。先ほどの閃光弾のような技術は研究済みだが……しかし、建造物そのものを破壊するような構造用爆薬を創り出すほどの知識は、今の私には不足している。奴をプラットフォームの中央に誘い込み、足場の両端を爆破するという戦法は論外だ。仮に効果的なアーティファクトを顕現できたとしても、奴は間違いなくあのヴォルテックスで空間を跳躍し、逃亡を図るだろう……)


 ブリッグスは新たな移行ゾーンの入り口で、ピタッと足を止めた。肩越しに振り返り、自分が駆け抜けてきた金属と影の長い道程をじっと見つめる。


「……他の手段は、ないのかもしれないな」


 ガスマスクのフィルター越しにこもった、低く厳格な声。それは誰に宛てるでもない、彼自身の覚悟の呟きだった。


◇ ◇ ◇


 魔法は三つの「位階」――「肉体」、「精神」、「魂」によって駆動する。あらゆる術式は、これらいずれかの根源から流転する流儀によって定義される。


 それは論理的な帰結であり、魔導アカデミーや士官学校の門を叩いた初学者が、誰もが最初に叩き込まれる基礎中の基礎、大原則であった。


 ――そして今、ヴェロニアが縒りすがっていたのも、まさにその大原則だった。


 ブリッグスに一杯食わされ、工場の入り口に置き去りにされた彼女は、大都市の鋼鉄を錬成する工場の敷地奥深くへと突き進む。


 ガスマスクの類いには目もくれず、巨大なダクトの内部に架かる連絡橋を、彼女は遮るものなく駆け抜けた。両脇では、化学物質の奔流が構造物の底へと滑り落ち、そのまま果てなき深淵へと滝のように流れ落ちている。


 ――それは論理的な帰結だ。


 生まれながらにして唯一無二なる魔導の才能を宿す「聖痕」とて、この大原則にだけは従わねばならない。


 (私の『ヴォルテックス』は『肉体』の位階。発動の際、私自身の肉体を力の最初の媒介とすることを要求するの。ふふ、なんてシンプルで美しいのかしら)


 青い瞳を一点に据え、カツッ!カツッ!と金属の連絡橋に木靴の鋭い音を響かせながら彼女は走る。その美貌には、冷徹に制御された怒りと、仄暗い愉悦が混ざり合っていた。


 (奴が私をここへ誘い込んだのは、あの腐食液を私に対して使うという明白な意図があるから。……本当に、どこまでも愚かな男ね。私をハメたつもりかしら?)


 ダクト同士を繋ぐ移行エリアのアクセス扉に到達した瞬間、この「青の淑女」は右拳を掲げ、指を獣の爪のように曲げて、ブォンッ!と空間を真横に切り裂いた。


 ゴォォォォッ!


 彼女の眼前にあった分厚い扉は、瞬時に出現した渦に無残に呑み込まれていく。それは彼女の目に、黄金の螺旋の核を中心に狂い爆ぜる、深いスミレ色の暗闇として映っていた。


 (『魂』の位階に紐付く魔法は、精神を仲介するためのオブジェクト――外部の媒介を必要とする。ラグラムのように、奴らが決まって杖を携えているのはそれが理由。あんな不自由な戦い方、私なら耐えられないわ)


 次の扉をも粉砕し、隣接するダクトへと躍り出た女は、その鋭い双眸をさらに細めた。


 (そして『精神』の位階は、術者自身の強固な意志そのものを媒介とする。魔術は肉体の延長線となり、ヴァリスの分身魔法のようになる。……忌々しい、それこそが私の神経を逆撫でするのよ。本当に、目障りで不愉快極まりないわ)


 彼女の奥歯がギリッと耳障りな音を立てた。


「あの忌々しい『軍神』の魔法は、定義の枠に収まりきらないのよ……ッ!」


 誰に言うでもなく、彼女は酷薄に、低く唸った。


 兵器の概念そのものを創造するあの力は、単一の「位階」の限界を超越し、術者自身の認識のみに従ってその姿を完全に変幻させる。だからこそ、奴の変異性(アノマリー)を理解するには、基礎を超えた知識が必要となるのだ。


 部屋を完全に破壊し尽くし、彼女はついに最奥のダクトへと辿り着いた。ここは数週間前に大爆破が起きたセクターであり、数日前、トムに変装したイングリッドと相まみえたまさにその場所だった。


 奴は作戦行動を再開したのだ。少なくとも、それが論理的な結論だった。ヴェロニアは円筒状の長い通路の出口を見つめ、過去の爆発が生々しく残した鋼鉄の傷跡を視線でなぞった。


「奴がこの配管を再起動させたというの?」


 大声で問いかけながら、彼女は再び歩みを緩め、番人の姿を求めて周囲を鋭く索敵し始めた。中央の連絡橋に足を踏み入れると、周囲に響くのは酸の激流がたてるゴォォォォッ!という轟音と、彼女の木靴が響かせるカツッ……カツッ……という高い残響だけだった。


 辺りは濃い闇に支配されており、魔光石(ラクリマ)の照明すら灯っていない。ここに罠が待ち受けていることは、火を見るより明らかだった。あまりにも、見え透いている。


 (奴は杖を携えていない……あの魔法の熟達者は、常に唯一無二の武器を己の傍らに置くもの。あの槍……。仮に奴が『魂』の位階を用いているとすれば、あの物体こそが媒介のはず。あの槍が、そうなの?ねえ、早く答え合わせをしましょうよ)


 連絡橋の中央にピタッと立ち止まり、彼女は鋭い視線で闇を射抜こうとした。


 (それに、奴は発動の際に儀式的な動作を一切行わない。ただ武器の柄を握るように手を構え、一撃を放つ直前に唯一無二の形状を物質化させるだけ……)


「小細工はもういい加減にしたらどう?私をこの酸の川へ突き落とす算段なんて、その間抜けな顔に書いてあるわよ!」


 ヴェロニアはわざと退屈そうな声を張り上げた。


「ほら!私はもうお前の望み通りの場所に立ってあげているわ!早く手を打ってきたらどうなの!」


 彼女は両手を腰に当て、子供が膨れるような仕草で、わざとらしい不満を表情に作った。


 (だが……もし奴の根源が『精神』だとしたら、少しは楽しめそうね。奴は終始逃げ回り、自身の能力の真の限界を隠し続けてきた。もし奴が己の意志の力だけで、望むものを何でも鍛造できるのだとすれば……)


「チッ!」


 チェッと不快そうに腕を組み、今度は本物の、隠しきれない苛立ちを表情に浮かべた。


「早く姿を現しなさいよ――」


 その言葉は、喉の奥でヒュッと途絶えた。


 ピカァァァッ!


 突如として、全方位から目も眩むような黄金の光が放射されたのだ。


「その通りだ……」


 ガスマスク越しにこもったブリッグスの声が、冷酷極まりない響きで空間を満たした。


「お前はまさに、私の望む場所にいる」


 ヴェロニアの顔に、再び歪んだ狂気じみた笑みが這い上がった。彼女の両腕はすぐさま獣の爪のように曲がり、周囲のすべてを喰らい尽くすべく『渦』を解放せんとする。


 しかし――次の瞬間、彼女の目が見開かれた。


 ブリッグスが周囲に顕現させたその重火器群は、単なる「目眩まし」に過ぎなかったのだ。


 真の強襲は、彼女の頭上から迫っていた。


 ガスマスクを装着したままの大尉は、天井に張り付いた巨大な黄金に輝く砲身の上に直立していた。彼の魔法によって鍛造された同型の砲が数十門、天井を埋め尽くすように密集し、そのすべてが彼女に向けて照準を固定していた。


「な、何をっ……!」


「墜ちろ」


 冷徹な宣告。番人が創造したその砲兵陣地が一斉に点火し、無慈悲な面制圧の火線が連絡橋へと降り注いだ。


 ドォォォォンッ!!!


 爆圧によって酸の激流がザバァァァッ!と激しく上方へ跳ね上がり、金属の構造物はひしゃげ、無残に崩落していく。


 ブリッグスは足場にしていた砲身を瞬時に霧散させた。その一瞬後、彼が先ほどまでいたまさにその空間を、破壊的な渦がゴォッ!と抉り取り、天井の鋼鉄を飲み込んでいった。


 落下しながら瞬時に「鎖鎌」を顕現させ、側壁のフェンスへと鎖をガキィィンッ!と叩きつけた大尉の目の前に、自身の空間跳躍から弾き出されるようにしてヴェロニアが姿を現した。


「行かせるかァァァッ!!」


 グシャッ!!!


 肉が引き裂かれる不快な音が響き渡る。


 青の淑女の胸が、ブリッグスの槍によって容赦なく貫かれていた。


「分かっている……」


 耳元を吹き抜ける暴風の轟音と、腐食の死へと二人を引きずり込む重力を感じながら、ヴェロニアは憎悪に満ちた絶叫を上げた。彼女の手が、番人の顔面を握り潰さんとビュッ!と突き出される。


 ブリッグスは鎖鎌の鎖をシャリシャリッ!と強引に引き絞り、敵の首を絞め上げるように金属の鎖を巻き付けた。鎖は激しく収縮し、突き出された女の腕を彼女自身の身体へと完璧に縫い付けた。


「お前が消滅させ、私が創造する。衝突すれば相互に打ち消し合う、二つの相反する概念だ!」


 二人は揃って、虚無の深淵へと真っ逆さまに墜ちていく。ブリッグスは拘束を逃れようと狂暴に暴れる女の顔を、至近距離から睨み据えた。


「私の創造をお前が阻止できぬように、お前の消滅(ヴォルテックス)を私が止めることもできん!」


「正面切っての激突で、私が無傷で済むとは思わん。お前を倒しきる力が私にあるかも分からん」


 大尉の灰色の瞳が、極限まで細められた。最後の審判を下すその声は、恐ろしいほどの静寂と威厳に満ちていた。


「だからこそ――お前も道連れだ!」


「放せェェェェッ!!」


 ヴェロニアは喉が張り裂けんばかりに叫んだ。


 彼女は狂ったように暴れて拘束を振り払おうとし、ブリッグスは全力を尽くしてその身体を抑え込む。


 獣じみた狂暴さで、女は唯一自由な片手――自身の胸に突き刺さった槍を引き抜こうとしていたその手を――今度は彼への直接攻撃へと切り替えた。ブリッグスは鎖鎌の鎖を限界まで引き絞っていた左腕を上げ、その突進を辛うじて防ごうとする。


 しかし、青の淑女の手のひらはその防御をズブゥッ!と突き破った。彼女の指先が、番人の前腕の肉深くに容赦なく突き刺さる。


「ぐっ……、うあああッ!」


 ブリッグスは苦悶の声を漏らしたが、すぐさま怒号へと変え、敵を締め付ける腕の力をさらに引き上げた。


 二人の目と鼻の先には、酸の川という確実な死が迫っている。


 ブリッグスは怒りに咆え、ヴェロニアは悶絶の叫びを上げる。


 ボォォンッ!


 ついに、女は『渦』を発動させた。今回彼女が選択したのは、空間跳躍の裂け目だった。


 二人は上層ダクトの側方連絡橋の上に、突如として転がり出た。空間から激しく放り出されながらも、大尉の拘束が一切緩まなかったため、二人はまだ死の抱擁を交わしたまま床を転がった。


 悶絶と絶望、そして純粋な憎悪によって歪みきった顔で、ヴェロニアは必死に逃れようともがく。


「放せェェェェェェェェェェェェェェッ!!!!!」


 ブリッグスは、彼女の胸の奥深くへとさらに槍をズブズブッ!と突き立てることでそれに応えた。その歯は固く噛み締められ、双眸からは狂おしいほどの怒りが溢れ出ている。


「死ね……、今度こそ……ッ!!」


 その瞬間、ヴェロニアの脳裏で、ブリッグスの魔法の真の「位階」に関する疑念が、決定的な形で氷解した。大尉の背後から、目も眩むような黄金の光が爆発的に溢れ出たのだ。


 (しまっ――!?この光は……!)


 女は咄嗟に自らの体重を後ろへと傾け、ブリッグスの身体を自分を押し潰すようにして引き倒した。


 ドスッ!


 槍が彼女の肉体を完全に貫通し、連絡橋の金属の床に深く突き刺さる。ブリッグスはすぐさまその柄を力任せに上方へ引き上げ、彼女の身体を真二つに引き裂こうと凄まじい力を込めた。


 彼の左腕は未だに敵の指に貫かれたままであり、鎖鎌の鎖は二人を縛り付けたままだ。その凄まじい梃子(てこ)の力から逃れようと、女は死に物狂いで連続して『渦』を開き続けた。


 ボォンッ!ボォンッ!ボォンッ!


 魔法が二人を飲み込んでは、数メートル離れた場所へと絶え間なく吐き出し続ける。だが、番人は執拗に、呪われたように引きずられながらも、決して彼女を離そうとはしなかった。


「お前はここで死ぬんだッ!!」


「放せェェェェェェェェェェェェェェェッ!!!!!!」


 絶対的なパニックの中、青の淑女は敵の前腕に突き刺していた手を限界まで握り込み、それを――ブチブチブチッ!!!と強引に引き剥がした。


 肉の繊維が引きちぎれ、骨が粉砕される生々しく凄惨な音が響き渡ると同時に、大量の鮮血がブシャァッ!と噴き出し、金属の床を真っ赤に染め上げた。大尉の左腕が、その身体から完全に引き千切られたのだ。


 腕を失ったことで鎖の張力が一気に失われ、鋼鉄の縛りがついに緩む。ヴェロニアはブリッグスに向けて烈烈たる蹴りを叩き込み、空間跳躍によって大きく後方へと飛び退いた。


 ドサッ……


 彼はフェンスに激突し、床へと崩れ落ちた。その視線は虚空を彷徨い、力なく項垂れている。一方の彼女は、自身の胸に深く埋まっていた槍をズブゥッ!と力任せに引き抜き、引き千切った彼の左腕とともに、眼下の腐食の川へと投げ捨てた。


「あははっ!殺してやるわ、絶対に細切れにしてあげる……!」


 女の宣言。その声は怒りと狂気で引き裂かれ、歯は激しく軋み、瞳は溢れんばかりの憎悪に溺れていた。


 ヴェロニアが地を蹴った。もはや空間跳躍の発動すら省略し、純粋な肉体の力だけで奴を完膚なきまでに屠り、五体をバラバラに引き裂かんと突進する。


 しかし、彼女が間合いを完全に潰したその瞬間、ブリッグスが不意に顔を跳ね上げた。


 その灰色の眼光は、驚くほど鋭く、そして狂気的なまでに集中していた。


「な――!?」


 グシャッ!!!


 鮮血が周囲一帯に飛び散った。


 ヴェロニアの腕は、番人の腹部を深く貫いていた。だが同時に――ブリッグスの右手に握られた黄金の短剣が、女の顎を真横にズバァァァッ!と深く切り裂いていた。


 女は驚愕に目を見開いた。これほどの重傷を負いながら、奴がまだこれほどの力を残していたなど信じられなかった。対する彼は、自らの終わりをすでに受け入れた者の、どこまでも冷徹な視線で彼女を見つめ返していた。死を受け入れた者の目だった。


「お前は、ここで私と……死ぬのだ!!」


 大尉が静かに、だが絶対的な宣告を下した。


 彼の周囲で、魔力の奔流がドォォォッ!と爆発した。


 鍛造された数十本もの刃が空間に実体化し、あらゆる角度からヴェロニアの肉体をズタズタに貫いた。そして正面から出現した刃の数々は、ブリッグス自身の肉体を容赦なく貫通した上で、その向こう側にいる彼女の身体へと突き刺さっていった。


 輝きはさらに激しさを増して膨張していく。ヴェロニアの表情は、ついに、純粋な恐怖へと完全に染まった。


 彼らの頭上に、あの「兵器の円頂」が再び再構成されていた。数十門の黄金の砲身が出現し、その全てが、無慈悲に二人へと狙いを定めていた。


 ドガガガガガガガァァァァンッ!!!!


 一斉射撃の爆音がダクト全体を激しく揺るがした。


 爆発がもたらす白熱の眩い閃光が、緑と橙に濁った、あの有害な化学物質の不気味な色彩を暴力的に覆い尽くしていった。

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