第65話「理性と虚空」―― 中編:鋼鉄の臓腑からの誘い
屋根から下の階層へと跳躍し、凍てつくような冷たい風を顔に受けながら、ブリッグスは真っ逆さまに落下していく。
路地や広場を飛び越え、巨大な工場と配管が待ち受ける都市の臓腑へと向かって一直線に降下する。だが、その背筋を凍らせる冷気は、物理的な風によるものだけではなかった。背後から迫る、遥かに恐ろしい脅威――。
それはまるで、無慈悲な雪崩から逃げるようなものだ。
「アハハハハッ!」
ヴェロニアは狂ったように嘲笑いながら、ブリッグスを追って家々や広場、通りそのものを次々と消し去っていく。彼女の放つ不可視の渦が物質を分解し、あらゆるものを虚無の核へと引きずり込み、圧殺していた。
ヒュオォォォッ!
金属のプラットフォームに着地しようと空を舞っていたその瞬間、大尉の目がカッと見開かれた。純粋な殺意、剥き出しの血の渇望を捉えたのだ。
彼の目の前にあった金属の足場が、突如として遠心力を伴ってねじ曲がり、完全な「無」へと消滅した。闇の中、足場を失った彼が残される。
ヴェロニアの病的な笑みが、さらに深く裂けた。
青の淑女は「番人」の背後に実体化し、自らの腕で彼を串刺しにしようと迫る。
「あなたは……私のものよ!」
だが、ブリッグスは絶対的な反射神経で上体を捻り、黄金の槍の柄で彼女を激しく打ち据えた。
ドゴォッ!
その反発力を利用し、女をはるか彼方へ弾き飛ばす。
だが、まだ自由落下の中だ。安全な足場を奪われた大尉は、依然として彼女の絶対的な消滅の力に晒されている。
(軍神の魔法は、単なる刃の鍛造にとどまらない。それは戦闘の「概念」そのものを顕現させ、武器としても戦術的ツールとしても機能するアイデアを物質化させるのだ――!)
ヴェロニアの青い瞳が驚愕に見開かれた。大尉が腕を高く掲げたからだ。
ピカァッ!
黄金の光が強く輝き、天に向かって鎖が放たれた。鎖鎌だ。その先端の鎌が、剥き出しになった金属の骨組みにガッチリと食い込む。
ガキィィンッ!
鎖の張力を利用して、ブリッグスは体を前方へと振り子のように跳躍させた。手を離した瞬間に黄金の武具を霧散させ、隣接する広場へと見事な前転で着地する。
ズザァァッ!
その鮮やかな機動に、女の瞳が純粋な怒りで燃え上がった。
「この、卑怯なネズミがァッ!」彼女は叫んだ。
動作を終え、片膝をついた大尉が横目で視線を投げる。かつての美しい面影は悪鬼のような形相に歪み、彼女はまるで追尾ミサイルのように宙を駆けて彼へと迫っていた。
一秒の躊躇いもなく、ブリッグスは再び狂乱の逃走を再開した。下りの階段を駆け抜け、建造物の隙間を縫うように飛び降り、下層都市の奈落へと強制的な降下を続ける。ヴェロニアは執拗に背後へ迫り、彼を仕留めようと経路にあるあらゆる障害物を消滅させていく。
ドスンッ!
分厚く硬いプラットフォームに降り立つと、ダクトから吐き出される化学廃液の滝の轟音が、鼓膜を劈くように響き渡った。限界は近い。
突如、その異常体は魚雷のように金属の床へと激突した。
ドガァァァン!
番人は即座に戦闘態勢をとる。黄金の槍を背後に構え、刃を地面に向けつつ、左手を前方に突き出す。いかなる戦術的奇跡をも即座に顕現させるための構えだ。
「そろそろ追いかけっこはおしまいにする時間じゃないかしら、イケメンさん?」
落下による土煙が晴れる中、彼女の折れ曲がり歪んだ四肢が治癒していくのが見えた。元の状態へと戻るその残酷なプロセスは、骨が軋み、皮膚の下で筋繊維が千切れるような凄惨な音を伴っていた。
バキバキッ……グチャァ……!
一時的とはいえ、そのグロテスクな異形にもかかわらず、彼女の眼差しは相変わらず病的だった。金属板で深く切られた傷のせいで顔は血に染まり、剥がれた皮膚の一部が本から破れたページのように垂れ下がり、片方の眼球が眼窩からこぼれ落ちそうになっていた。
「申し訳ないが、私にはまだ果たすべき任務が残っているのでね」ブリッグスは低く、しかし一切の揺るぎない声で応じた。一瞬たりとも警戒を解かず、計算された足取りでゆっくりと後退する。
「任務ぅ?」彼女は小首を傾げながら、人差し指を使って垂れ下がった顔の皮膚を無造作に元の位置へと貼り付けた。
ペチャッ。
「これだ」
そう答えると同時に、彼は自らの体を背後へと投げ出し、再び重力へと身を委ねた。
青の淑女は手すりへと駆け寄り、番人が階層の間の暗い空間へと落ちていくのを見つめた。その降下の唯一の終着点は、底知れぬ深淵のように思えた。
ブリッグスは先程と同じ戦術を繰り返そうと、新たな支点を作るべく鎖鎌を構えた。だが、鎖に繋がれた刃が天井に向かって飛んだその瞬間、ヴェロニアは容赦なく動き、アンカーとなるべき構造物を渦で完全に消し去った。
「チッ」
ブリッグスは舌打ちをした。黄金の槍を回転させると、その神聖な柄を階層の金属板やコンクリートの岩肌に深々と突き立てた。
ガリガリガリッ!!
壁を抉りながら落下速度を殺していく。新たなプラットフォームの開口部に近づいたとき、彼はそこへ安全に着地する明白な選択を無視した。突き立てた槍を軸にして、自らの体をカタパルトのようにさらに深く、大都市の最下層の土台へと向かって射出したのだ。
シュバァッ!
わずか数ミリの計算違いで、彼はグリップを失い虚無へと落ちかけたが、最後の力を振り絞って手すりの金属棒を掴み取った。
ガシッ!
そのまま体を持ち上げ、狭い階段へと這い上がる。そこは、化学滝の轟音と、鼻を突く強烈な腐食の臭いが人間の感覚を狂わせるほどに濃密な場所だった。
斜面の下を見下ろすと、旧キサナトラの廃墟で踊る不気味な緑色の炎が、わずか数十メートルの距離で燃えているのが見えた。
錆びついた最後の階段を降りきり、彼は自然の岩でできた巨大なプラットフォームへと到達した。そこには、深淵の岩の腹に直接彫り込まれた威圧的な施設があった。
再び顕現させた槍を手に、刃を下げて背後に構えながら、ブリッグスはその場を駆ける。彼の目は周囲を鋭く走査し、敵の兆候を探った。
だが、長く探す必要はなかった。
番人の前方で空間が歪む。不可視の渦が、女の体を岩の上に暴力的に吐き出した。
ドサァッ!
ブリッグスは即座に足を止めた。ヴェロニアは明らかな苛立ちを込めて彼を睨みつけていた。
「お遊びはここまで、というわけか」ブリッグスは挑発した。その声は依然として冷静で、微動だにしない。
「あなた、本当に美しいレディの扱い方ってものを知らないのね」彼女は毒づいた。
「私の部下たちの命を奪った化物にくれてやる礼儀など、持ち合わせてはいないのでね」
ヴェロニアは一瞬驚いたように見えたが、すぐにその唇に笑みを蘇らせた。
「あら、そんなこと、すっかり忘れていたわ……」彼女は兵士に視線を固定する。「ごめんなさいね。あなたにとって、この鬼ごっこは個人的な恨みによるものだったわね……」
その声からは純粋な毒が滴り落ちていた。
ブリッグスは目を細めた。黄金の柄を握る指に力が籠もり、白く変色する。
ギリッ……!
「重ねて謝るわ。だって私、その連中のことなんてほとんど覚えてないんだもの」彼女は声を上げて笑い、絶対的な侮蔑を込めて手をひらひらと振った。「あなただって、自分が今まで食べた食事のメニューをいちいち全部覚えていないでしょう?」
その言葉に対し、将校は左手を異常体へと真っ直ぐに伸ばし、彼女の注意を自らの掌へと強制的に向けさせた。
「あなたの言う通りだ。私も食べたものをすべて覚えているわけではない」
彼女の青い瞳が細められる。
(一体何をする気?またどんな小細工を召喚するつもり?)
「言っておくけれど、ここでどんな武器を構えたところで私には無駄よ」彼女は警告した。先ほどの皮肉な声は、暗く傲慢なトーンへと変わっていた。
彼女の指が捕食者の爪のように曲がる。女の体から圧力の奔流が放たれ、周囲の地面を飽くことなく喰らい、消し去っていく。
「ご存知の通り、軍神の魔法は『兵器』という絶対的な概念を支配し、己のものとする」
ブリッグスは腕を伸ばしたまま、真実を口にする。突如、彼の掌が回転し、まるで既にそこにある物体を握り込むように指が閉じられた。その意味を理解し、ヴェロニアの瞳孔がカッと見開かれる。
「最大の利点は、この神の力が、彼が生きていた時代の技術的限界すらも超越するということだ!」
「そんなもの、私が消し去って――」
その言葉が終わるより早く、彼の掌で黄色い光が爆発した。
ピカァァァァァッ!!
ヴェロニアは現実を切り裂く亀裂を放ち、彼ごと飲み込もうとしたが、閃光はそれよりも遥かに速く伝播した。ブリッグスが顕現させたのは、殺傷兵器ではない――軍用の閃光音響手榴弾だったのだ。
光の爆発と耳を劈く甲高い轟音により、女の平衡感覚は完全に粉砕された。
キィィィィン!!
視覚と聴覚を奪われ、純粋な怒りに溺れた彼女は、番人を何としてでも消滅させようと、目の前の空間を無差別に攻撃し始めた。
やがて化学の滝の轟音が鋭い耳鳴りを上回り、白い閃光の奥から女の視力が戻ってきた頃には、全てが遅すぎた。ブリッグスはすでに蒸発するように姿を消していた。彼女の目の前に広がる岩の床は、彼女自身の制御を失った攻撃によって完全に破壊され尽くしていた。
しかし、唯一の決定的な変化は、彼女の背後にあった。
裂け目の腸に突き刺さるように建てられた巨大な施設――工場。その巨大な扉が、これ見よがしに大きく開け放たれていたのだ。
それは明白かつ、意図的な招待状(罠)だった。
「あの、卑怯なネズミ野郎ォォォッ!!」




