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月の斑(はん)  作者: エーテル
第一幕・隣接する夜: 『鋼鉄と月光の奔流』
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第60話「傲慢な熟達」

 ズゥゥゥゥン……


 アルカンエンジンの重低音が、巨大な裂け目の縁を撫でる乾いた風の唸りと混ざり合う。逃げ惑う群衆の怯えた囁きは、この時の秩序の番人たちにとって、既に聞き慣れた雑音に過ぎなかった。


 ドレイア村の境界。砂漠がメトロポリスを飲み込もうとするその最果てで、部隊は市民の避難を急いでいた。富と権力を持つ者たちは、既に自前の飛空艇に乗り込み、砂塵を振り払って混沌から遠くへと逃げ去っている。


 だが、この街の真の子供たちには、そんな贅沢など許されない。細かな砂が顔を叩く中、彼らにできるのは己の無事を祈ることだけだった。冷たい金属質の浮遊列車に詰め込まれ、砂漠の僅かな熱を感じながら、最寄りの集落へと急かされるように送り出されていく。


 ゴオオオオッ!


 地平線が闇に飲み込まれ始めていた。山々の端には紫色の空が広がり、反対側では絶対的な虚無の黒へと溶け込んでいる。


 ドォォォォンッ!


 突如として空を切り裂いた轟音に、市民から悲鳴が上がる。カエル隊長は、街の上層階から立ち上る濃い煙の柱を静かに見つめた。


 (……攻撃の展開はどうなっている。上手くいっているのか?)


 その時、裂け目から響くアルカンエンジンの咆哮が彼の注意を引いた。重厚な護衛を引き連れた輸送艇の艦隊が浮上してくる。コンボイは避難エリアへと接近し、兵士たちは人々をワゴンへと誘導し続けていた。


 アルカンエンジンを停止させると同時に、一人の男がカエルの元へ駆け寄ってきた。息を切らし、軍服には生々しい返り血が染み付いている。


「カエル隊長!」男が叫ぶ。


「状況は?」カエルは抑えきれない焦燥を声に乗せ、問い詰めた。


「ブリックス大尉が交戦に入りました!全軍、追って沙汰があるまで撤退せよとの命令です!」


「……隊長は避難の完遂を最優先に考えておられるのか」カエルは独り言のように呟いた。彼は上層都市の低層部を見上げる。「セベリアン指揮官と『黒鋼の刃』がいる限り、救助に集中する時間は稼げるはずだが……」


 (……待て。下層都市には『黒鋼の刃』は一人も配置されていないはずだ。……まさか、大尉は一人で戦うつもりか!?)


 カエルの奥歯が軋んだ。


「カエル隊長!」部下の手厳しい声が空気を叩く。カエルは瞬きし、思考の淵から引き戻された。「彼らは……彼らはどうすれば?」


 兵士は、到着したばかりの輸送艇を指差した。そこにはキサナトラの地下牢から連れ出された囚人たちが収容されていた。


「この男たちは……」カエルが低く呟く。


「本当にこの作戦を強行するのですか?彼らは許されざる罪人……最悪のクズ、人殺しどもですよ!」部下の抗議の声が上がる。


 カエルの脳裏に、鮮明な記憶が蘇った。数日前、避難計画の説明を受けていた時、彼自身も部下と全く同じ憤りを抱き、ブリックス大尉に問い正したのだ。


 『――先触れのトムが、遺跡での戦闘で見せた報告書を読んだ。奴は目の前の敵から人々を守るため、己の体を盾にしたと記されている……』


 ブリックスの声は、記憶の中でも静かで、洗練されていた。番人の宿舎にある執務室。机に背を預け、組んだ両手の向こう側から、冷徹で計算高い灰色の瞳が右腕であるカエルを射抜いていた。


 『……はい、大尉!ですが、あの連中は――』


 『分かっている、カエル。彼らをあの古代遺跡で朽ち果てさせるよう宣告したのは、私自身だ』ブリックスは言葉を切り、窓の外へと視線を向けた。そびえ立つシティ・ハイの威容と、ビル群の頂から覗く終わりのない砂漠。


 『……ただ、私は確信したいのだ。あの子が……』大尉は、氷のような眼差しを再びカエルに向けた。『……あの子が捧げた犠牲に、価値があったのだと』


 ハッ……


 現在。カエルの瞳が疲弊したように細められたが、数秒後には軍人としての毅然とした姿勢を取り戻した。


「全船、そのまま待機。艦隊を紛争地帯から離れた安全なエリアへ配置せよ」カエルは絶対的な口調で命じた。


 部下は躊躇することなくその指示に従い、囚人たちを乗せた車両を統制するために背を向けた。


◇ ◇ ◇


 ボォォォォ……


 旧キサナトラの遺跡に漂う空気は重く、グンダーが放つ魔力の湿り気と、石畳を汚すヒンベリアの血の臭いが混ざり合っている。


 裂け目の縁、打ち捨てられた場所への入り口。


 グンダーは四人の敵と対峙していた。そのうち三人は、全く同じ青いマントを纏っている――ヴァリスの完全な複製体だ。そして四人目は、威厳に満ちたマントのように背中に垂れる紺碧のオーバーコートを羽織った男。


 ヒンベリアは不敵な笑みを絶やさず、視線を返した。対照的に、その部下であるヴァリスは、退屈でたまらない作業を無理やり押し付けられたかのような、無気力な表情を浮かべている。


 精霊の紫色の瞳が、前方の三体のコピーを捉えた。


 (……死体がない。隣に立つ個体には再生の兆候すら見られぬ。他の二体は奴から湧き出たか……まるで切り刻まれた蛆虫が殖えるが如き。ふん、忌々しき源は、別にありそうだな)


 グンダーの目が細められる。右の頬の筋肉がピクリと跳ねた。それは純粋な嫌悪と拒絶の拒絶反応だった。


 (……臭いも、面構えも……全く同じ魂を宿しておる。完全な複製か)


 グンダーの左手の指が、反射的に閉じられた。その鋭い動きを、ヒンベリアの洞察が見逃さない。


「ヴァリス」


「分かってますよぉ……」ヴァリスの声は、倦怠感に引きずられるように間延びしていた。


 二体のクローンが先陣を切り、戦闘態勢を整えてグンダーへと突進する。


 シュパァァァンッ!


 精霊が左腕を突き出す。鉤爪のように曲げられた指先から、水流の鎖が鋭利な刃となって放たれ、ヴァリスたちの肉体を斜めに切り裂いた。だが、その攻防の最中、下から異形が這い出した。歪に肥大した一本の腕が、超高速で地を這い、反撃を掻い潜る。


 グチャ……ギチギチ……


 蛇のようなしなやかさで、その構造体が立ち上がった。内部の解剖学的構造が蠢き、関節が砕ける鈍い音が響く。軟骨が自らの肉を突き破り、二つに割れた手の先から、純鉄の刃と融合した骨の突起が突き出した。


 グンダーは即座に反応し、一撃が完成する前にその異形の四肢をズタズタに引き裂く。だが、露出した肉の繊維と関節から、鋼を散りばめた新たな骨が芽吹き、精霊に向かって射出された。


 シュッ!


 上体を鋭く捻って回避する。しかし、その獣のような瞳は、目前に迫る危機の接近を既に察知していた。体勢を立て直すよりも早く、再び左腕を上げる。袖口から溢れ出す水流が凝縮され、分厚い水の壁を形成した。


 ゴンッ!!


 ヴァリスの二体のクローンが水壁に激突し、まるで巨大な鋼鉄の板にぶつかったかのように動きを止められた。直後、コピーたちの目、鼻、耳、そして口から、黄金色の不気味な輝きが溢れ出す。


 (魔力の揺らぎ……自爆か!)


 グンダーがそれを察知したのは、爆発のコンマ数秒前だった。二つの肉体が炎の嵐となって弾け飛び、濃い煙のカーテンを巻き上げる。


「そんなものでは、不十分ですねぇ……」ヒンベリアの傍らで、ヴァリスが肩の力を抜き、深い疲労を顔に刻みながら呟いた。


「集中しなさい。彼が我々を真に『相手』として認め始める時間ですよ」ヒンベリアが静かに、そして洗練された声で返す。その顔には、相変わらず笑みが張り付いていた。


「私はそんなの見たくもな――」


 ドスゥゥゥッ!!


 ヴァリスの言葉は、無残に遮られた。地面の岩が鋭い杭となって突き上がり、逃げ場のない部下を貫き、宙へと吊り上げたのだ。そのあまりに唐突な一撃に、ヒンベリアでさえ一瞬、驚愕に目を見開いた。


 (……水だけではなく、他の属性までも支配しているというのか!?)


 リーダーが薄れゆく煙へと意識を向けた瞬間、背後でヴァリスが無傷のまま着地した。


 トッ……


 衝撃を吸収するように膝を折り、気怠げな瞳で前方の埃を見つめる。直後、彼の肩の肉が泡立ち、あの悍ましい有糸分裂の過程を経て、新たなクローンを排出した。


「お腹が裂けるのを感じた瞬間に、スキルを発動しておいて正解でしたよぉ……」彼は姿勢を正しながら愚痴をこぼす。「はぁ……次は一体だけでいきます。こう何度も死ぬのは、流石に疲れるんですよ……」


 ヒンベリアが横目で彼を冷ややかなに見やった。「手間をかけるね、ヴァリス」


 部下は視線を合わせたが、その表情にはさらなる努力を強要されることへの純粋な嫌悪が滲んでいた。


 ゴォォォォ……!


 濃密な魔力の奔流が二人の注意を惹きつけ、視線を霧へと釘付けにする。煙の中に小さなトンネルが無数に開き、そこから超高圧に圧縮された数十本の水流が、狙い違わず二人へと放たれた。


 三つの影が、着弾地点から飛び退く。その動きに呼応するように、裂け目の闇から巨大な水の蛇が出現した。一頭の獣が、エネルギーを節約するために岩陰に隠していたヴァリスの予備のコピーを、その顎で無残に噛み砕く。


「あぁ……もう……」


 グンダーが操る水の獣たちが、あらゆる角度から地を這い、二人を追い詰めていく。ヒンベリアが前線に立ち、一歩踏み出した。彼の右腕にある無数の毛穴から、ガス状の血が溢れ出し、周囲に濃密な深紅の霧を立ち昇らせる。


 その朱色の雲の中から、凝縮された血の針が超高速で空を切り、水流を貫いた。魔力で形作られた蛇たちは、形を保てず無害な水溜まりへと崩れ落ち、周囲の煙を散らしていく。


 ヴァリスは再び二体目のクローンを作る作業を急いだ。一方、ヒンベリアは距離を詰め、グンダーの絶対的な蔑みの視線を正面から受け止めながら歩み寄る。


「……私もまた、この術には通じておりますよ」


 ヒンベリアは、傲慢なまでに完璧な笑みを浮かべ、そう宣言した。


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