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月の斑(はん)  作者: エーテル
第一幕・隣接する夜: 『鋼鉄と月光の奔流』
59/62

第59話「神聖なる腐敗」

 荒涼とした山々の端に、太陽が沈みゆく。


 迫りくる夜のとばりが、上層都市を飲み込み始めていた。広場も、通りも、建物の最上階までもが静寂と闇に塗り潰されていく。地区の灯火ともしびすら、未だその目を覚ましてはいない。


 ――光が死に、影が這い出す時間だ。


 防護柵の端、二つの細い影が深淵を見つめていた。仕立ての良い見事な衣服を纏い、首の高さで切り揃えられた長い髪を揺らしている。


 影は飢えた獣のように降りていき、亀裂の境界を越えて下層の各階層を喰らっていく。下層都市には、既に完全な闇が君臨していた。辛うじて、金属製の支柱に吊るされたランプの微かな火が、工業廃棄物と古びた鉄の臭いが染み付いた閉所恐怖症的な路地を照らしている。


 ドロリ……と、街が夜に身を委ねる。


 太陽がまだ荒野の頂に執着していても、深淵の奥底、旧キサナトラの遺跡へと続く岩壁の開口部には、絶対的な虚無の闇が支配していた。唯一の例外は、不気味に燃え続ける緑色の「消えない松明」だけだ。


 パチッ、パチパチ……と、永遠の炎が爆ぜる。


 その深淵の縁で、遥か上方の階層を見上げていたのはグンダーだった。金色の装飾が施された紫色の外套オーバーコートが、マントのように翻る。垂直の瞳孔が刻まれた紫色の瞳が、背後に潜む「何か」を鋭く射抜いた。


 ――汚らわしい気配だ。


 かつては素朴な石造りの家だった、今や脆い瓦礫の山。その中に、人影が潜んでいた。その輪郭は歪み、あまりに濃密な闇を纏っているため、緑の炎ですらその真の姿を暴くことはできない。しかし、精霊の感覚は研ぎ澄まされていた。


 空気の圧力が変わる。背後から、恐るべき速度で何かが迫るのを彼は察知した。それは蛇か、あるいは肉の塊でできた巨大な触手か。魚雷のごとき速度で、グンダーの背中を狙って放たれた。


 シュオッ!


 間一髪、グンダーが身を翻す。右腕を振るい、その一撃をいなした。彼の手から激しい水流が噴き出し、その異形の肢体を上方へと弾き飛ばす。


 ドォォッ!


 空中で弾かれた無定形の質量が、瞬時に後退していく。グンダーはそれを、底冷えするような蔑みの目で見つめていた。内側から湧き上がるのは、吐き気、怒り、そして絶対的な拒絶。


 ――やはり、そうか。


 そのアノマリー(異常体)が、ぬしへと完全に引き下がっていく。暗闇の中、吐き気を催すような音が響いた。


 バキッ、メキメキッ……


 骨が砕け、繊維が引き千切られ、肉が蹂躙される音。


 遺跡の淀んだ空気と燃料の燃える臭いを上書きするように、おぞましい異臭が漂い出した。それはその怪物だけが放つ、特有の瘴気だ。


 ――この臭い……ヴィセントを汚していたものと同じだ。


 それは死肉の腐臭。獲物を引き裂き、その返り血と内臓を浴びたまま、身に纏った肉が腐り果てるまで放置する野獣の臭いだ。病に侵された肌の壊死などよりも、遥かに深い、計り知れない冒涜的な腐敗。


「……期待通りですね。あなたのような存在なら、そうされると思っていましたよ」


 声が響いた。落ち着いていて、洗練された、丁寧な口調。その男性的で気品のある響きは、周囲に漂うおぞましいオーラと、残酷なまでに矛盾していた。


「貴様らの同類は、とうの昔に絶滅したと思っていたのだがな」


 グンダーは嘲笑を込めて応えた。


 闇の中から、ついにその男が姿を現した。腰から下を王者のマントのように覆う、青みがかった外套を纏っている。そこには獅子の紋章が刻まれていた。顔立ちは三十代の男。短く整えられた黒い縮れ毛に、精巧にデザインされた髭。


 エメラルド色の光に照らされた褐色の肌に、鋭い眼光と洗練された微笑が浮かぶ。


「おや……。なぜそのようにお考えなのですか、偉大なる精霊様?」ヒンペリアは、戯れるような調子で挑発した。「私共のような者は、この世界のあちこちを歩いておりますよ」


「人間どもに紛れて這いずり回るのが、貴様らの得意芸だからな。この期に及んでまだこの世にしがみついているとは、感服する」グンダーが一歩、相手に向かって足を踏み出す。「余の知る限り、貴様らがこれほど野蛮に人を襲うのを止めてから、既に数世紀は経っているはずだ。絶滅したと推測したのは、そのためだよ」


「大半は平凡な存在として生きようとしていますよ。正体が知れれば、即座に狩られる身ですからね」ヒンペリアもまた、距離を詰めていく。「ですが……未だに、深い復讐の渇きを抱いている者もいるのです」


 二人は正面から対峙した。


 グンダーは顎を上げ、厳格な表情で無言の決闘を促す。対するヒンペリアは、柔らかな笑みを浮かべながらも、その瞳には不気味なほど静かな狂気を宿していた。


 沈黙が流れる。グンダーがその静寂を破った。


「同類と顔を合わせるのが久しぶりすぎてな……。言葉を失ってしまったよ」彼は後頭部を掻きながら、白々しい照れ隠しのように薄笑いを浮かべた。


 謎の男は、さらに笑みを深めて目を閉じる。


「何を仰いますか。この私こそ、あなたほどの高潔な精霊を前にして、光栄のあまり声も出ませんよ」


 カッ!


 互いの目が開かれ、視線が衝突した瞬間。超高圧の水流が爆ぜる音が遺跡に響き渡った。


 ゴォォォッ!


 グンダーが放った凶悪な奔流が、ヒンペリアの頭部を狙って左側から襲いかかる。しかし、男は左手一本でその水の質量を受け止めた。


 衝突の衝撃で水飛沫が狂ったように四散する中、二人は視線を外さない。ヒンペリアの崩れない微笑と鋭い眼差しが、これから始まる惨劇を煽り立てる。


 一秒の猶予も与えず、精霊は追撃を繰り出した。


 男の足元から、鋭利な「水の糸」が湧き上がり、古代の岩を切り裂く。ヒンペリアはそれを避けるべく、後方へと跳躍した。


 彼の視線が精霊に突き刺さる。その不敵な笑みは消えていない。男が左手を差し出した。その部位は、最初の一撃を防いだ代償として、赤黒い肉の塊と化していた。砕けた骨が皮膚を突き破り、指は肉片のように無残にぶら下がっている。


 ドクン、ドクン……


 だが、その鮮血の海の中から、新たな指が芽吹き始めた。


 グンダーの目が見開かれる。それは演技ではない、本物の驚愕だった。


 瞬く間に、開いた傷口から何百もの変異した指(指節骨)が突き出し、有機的なミサイルの雨となって精霊へと襲いかかった。


 ――化け物め!


 グンダーは即座に両腕を掲げた。袖の中から溢れ出した奔流が数十の「水刃」へと形を変え、正確無比な斬撃で迫りくる肉の触手を斬り落としていく。しかし、切断された肉は瞬時に再生し、血まみれの株からさらなる指が芽生え、標的との距離を確実に喰らい尽くそうとしていた。


 肉の触手の一つが防御を破り、迫った。水刃で切断されたものの、同じ根元から代わりが飛び出し、グンダーの頭部を真っ直ぐに狙う。


 シュッ!


 グンダーは首を鋭く捻ってそれを回避したが、直後に目を見張った。外れた触手が背後の強固な岩盤を貫き、衝撃で石をドガァァン!と粉砕したのだ。


 その一撃の致死的なリスクを理解し、グンダーは完全なる回避を選択した。ヒンペリアの狂気に満ちた連撃が、コンマ数秒前まで彼がいた空間を次々と穿っていく。しかし、精霊は触れられることすらなく戦場を流れるように舞った。敵の周囲を旋回し、彼は紫色の残像と化した。ヒンペリアの感覚が処理しきれないほどの、恐るべき速度だ。


 ――速いですね……


 ヒンペリアは腕を暴力的に引きつり、己の手首に根付いた異形を引きちぎった。ブチィッ!続いて開いた肉に指を突き立て、自身の前腕の皮膚を丸ごと剥ぎ取る。メチャクチャッ!滝のように血が噴き出し、彼のブーツを赤く染め上げた。パックリと開いた傷口から、筋肉がグロテスクに膨張し、巨大で病的な変異腕を編み上げていく。


 しかし、その計画は始まる前に中断された。


 男の黄金の瞳が揺らぐ。いつの間にか、無数の青い点が自身の周囲を浮遊していることに気づき、驚きに襲われたからだ。


 絶望的な防衛行動として、変異した腕が開き、分厚い繭となってヒンペリアの体を包み込む。グンダーは容赦なく、両手を敵へ向けた。微小な針のごとき数百のウォータージェットが、一斉に繭を穿つ。ズドドドドッ!腐敗した肉片と血の、濃密な赤い煙が舞い上がった。


 精霊は土煙が晴れるのを待たず、再び左腕を掲げた。高密度の脈打つ水の球体が空中で凝縮し、彼の頭上を軌道を描いて回り始める。


 血の煙の中から、巨大な赤い腕が猛スピードで突進してくる。今やそこには、肉を突き破り、石灰化した棘のように突き出した骨の破片が露わになっていた。


 グンダーの右腕が流麗に動く。指先から放たれた水刃が、その筋骨隆々の異形を真っ二つに両断した。ザシュッ!


 だが、ヒンペリアの突進は止まらない。血が記録的な速さで凝固し、不吉な接着剤となって、切断された両半分を強引に引き寄せて統合していく。


 グンダーはその戦術を理解した。敵は、あの悪臭を放つ筋繊維の檻の中に自分を生きたまま飲み込むつもりなのだ。精霊はその接近を完全に無視した。彼の真の魔術は、既に頂点に達していた。水の球体が彼の頭上で暴力的に脈動し、魔術師は左腕を前方へと突き出した。


「終わりだ」


 その宣告と共に、球体は巨大で破滅的な激流へと収束し、変異した腕もろともヒンペリアの体を飲み込んだ。ゴオオオオオッ!!圧倒的な水流は遺跡の開口部から爆発するように飛び出し、深淵の虚空を横断し、重力すら無視して反対側の岩壁に深々と突き刺さった。


 魔術の轟音が止むと、グンダーは断崖の縁へと歩み寄った。古代の岩は完全に水浸しになっている。水晶のように澄んでいた青い水は、今や敵のどす黒い血で汚され、赤く滴り落ちていた。


 彼は深淵の反対側の壁を調べ、理解とともに目を細めた。


「貴様らなど、永遠に隠れ潜んでいればよかったものを」


 激流の衝撃は、深淵の対岸に垂直のクレーターを彫り込んでいた。くぼみの中央には、人型の深紅の染みだけが残されている。皮膚を失い、圧倒的な水圧によってミンチ肉と筋肉の塊に還元された死体だ。


 グンダーは上層都市の基部へと顔を向けた。体が重力を失い、浮遊し始める。彼が上昇を開始したまさにその瞬間、何かが深淵に向けて落ちてきた。


 縦に裂けた猫の瞳が、そのシルエットを追う。自由落下する人間の体。上等なスーツを着て、長い髪をなびかせている。その痩せた体つきと顔立ちは、肉体的にも精神的にも絶対的な疲労の重みを引きずっていた。


 新参者の落下と精霊の飛翔が交差した、ほんの数分の一秒。二人の視線が絡み合った。その短い瞬間に、グンダーは異常性を察知した。


 ――こいつも……奴らの同類か!


 ヴァリスは生唾を飲み込んだ。


 そして、空中でフッ……と消滅した。


 ――何ッ!?


 グンダーは自身の上昇にブレーキをかけ、断崖の縁へと急激に着地した。ダッ!そして遺跡の内部へと勢いよく体を反転させた彼の目に飛び込んできたのは、ヒンペリアの残骸を持ち上げるヴァリスの姿だった。怪物は完全に再生を始めていた。圧縮された肉と引き裂かれた衣服の繊維が、同時に再構築されていく。


「この方、かなり強そうですね、ヒンペリア様……」ヴァリスは主人から手を離しながら呟いた。ヒンペリアはすでに、非の打ち所のない完全に修復された姿勢を見せていた。「本当に、あの計画で上手くいくんですかねぇ……?」


「ご心配なく、ヴァリス」その声はいつもの平穏と、揺るぎない微笑みを保っていた。ヒンペリアは部下へと顔を向ける。「彼の能力はすでにテスト済みです。私には確信がありますよ。あなたなら――」


 シュバァァァンッ!!


 空気を切り裂く水流の唸りが、リーダーの言葉を刈り取った。


 ヴァリスの頭部が、グンダーの放った超高圧の水流によって残酷に貫かれた。ドサッ…… 従者は石の袋のように地面に崩れ落ち、その肉体の機能は瞬時にシャットダウンされた。


 ヒンペリアは襲撃者を横目で見やり、この夜初めて、真に厳しい表情を露わにした。


「おっと……落ちたな」グンダーは冷酷な声で嘲笑った。


「クローンを飛び降りさせておいて、正解でしたよ……」空間にヴァリスの声が響き渡った。


 グンダーは目をカッと見開いた。


 ――何だと!?


「もし本物がそこに取り残されてたらと思うと……瞬きする間に殺されてましたね」


 ヒンペリアの隣には、ヴァリスが再び立っていた。無傷の完璧な状態で。眼下の岩肌には、先ほどのコピーが流した血だまりと散乱した脳漿がまだ生々しく残っており、攻撃が間違いなく命中したことを証明している。しかし、現在の肉体には汚れ一つない。


 ――馬鹿な!奴の脳を完全に破壊したはずだ!いかなる再生能力であろうと、これほど速く蘇生できるはずがない!


「よく観察なさい、ヴァリス」ヒンペリアが再び口を開いた。そこには明確な誇りの色が滲み出ている。「あなたの能力は、彼ほどの格を持つ存在すらも驚かせることに成功したのですよ」


 グンダーの紫の虹彩が震え、拡大した瞳孔がショックを物語っていた。致命的な一撃を放った直後の形で伸ばされた右手が、無意識の痙攣を起こしている。指先が純粋な緊張でワナワナと震えていた。


「あまり良いニュースには思えませんね……」ヴァリスは言い返した。彼の身を包む見事なスーツが内側からビリビリッと裂け始め、主人が誇示しているのと同じ、獅子の紋章が刻まれた青みがかったマントが姿を現した。同時に、彼自身の肉体がグロテスクに分裂し、継続的な細胞分裂のプロセスへと入っていく。

「驚いているというより、ずっと苛立っているように見えますよ」


 土煙が完全に晴れ、今の状況が明らかになった。グンダーは、ヒンペリアと、全く同じ姿をした三体のヴァリスのコピーと対峙していた。


「理解できますね……」ヒンペリアが呟いた。


「……これは、面倒なことになりそうですねぇ……」従者はそうぼやき、待ち受けるであろう大殺戮をすでに予感して、深いため息をついた。


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