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月の斑(はん)  作者: エーテル
第一幕・隣接する夜: 『鋼鉄と月光の奔流』
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第58話「意地の飛翔」

 埃っぽい空気に、古の石の匂いが混ざり合う。足元の地面には、数日前のオードリーとの死闘が刻んだ無数の亀裂と歪みが、生々しい傷跡として残っていた。


 奈落の底に穿たれた巨大な空洞。巨大な柱に掲げられた僅かな松明の火が、かつては軍神の鍛冶場であったという旧王宮の残骸を、微かに照らしている。


 本来であれば、ここは永遠の静寂と闇に包まれているはずの場所だ。


 ……今日、この時までは。


 ハァ……ハァ……


 ドワーフと元騎士は、疲労困憊の眼差しを交わした。肩を落とし、疲弊しきった様子の二人。だが、洞窟に響く荒い息遣いと格闘の音は、彼らによるものではなかった。


「……っ!ああもう!離して!ここから出してってば!!」


 地面に転がされたまま、グンダーが召喚した黄金の魔力鎖に縛り付けられたイングリッドが、蛇のように身をよじっていた。彼女は必死に足をバタつかせ、拘束から逃れようと足掻く。


「……おい、よせ。無駄だ」


 ヴェルンが呆れたように呟いた。


 (僕……じゃなかった、私の計画が……!まだ、できる。絶対に外してやる……!)


「いいえ……まだよ……私、自分が何をしてるか……分かってるんだから……っ!」


 少女——フェンリエは息を切らしながら、体に密着した鎖に抗い、腕を不自然に曲げていく。

その様子に、元騎士は溜息を漏らし、助けようと一歩踏み出した。


 だが、その瞬間だった。


 カチッ


 乾いた音が響く。その異音に、ドワーフ親子の視線も集中した。直後、抵抗を続けていた黄金の鎖が、あっけなく霧散したのだ。フェンリエは勝利を確信した表情で立ち上がり、誇らしげに腰に手を当てた。


「言ったでしょ!」


「……おめでとう。一応な」


「して……」長く汚れ、装飾品にまみれた髭を弄りながら、グリムがヴェルンに歩み寄った。


「ヴェルンよ、この地の果てからどうやって脱出するつもりじゃ?儂はあんな代物の操縦など知らんぞ」


 グリムが顎で示した先。ヴェルンの視線は、隣で点らされた小さな、だが老練な眼差しに向けられた。


「ああ、それなら……グンダーを待った方が……」


 ブロロロロッ!!


 突如として響き渡った轟音が、彼の言葉を遮った。ヴェルンとグリムが反射的に振り返ると、そこには既に一台のアルカンエンジンに跨ったフェンリエの姿があった。


 車体後部のエネルギー球から青白い光が溢れ出し、魔法技術の粋を集めた内燃機関が、獣のような咆哮を上げている。


「おい、待て!」


「小娘!我らの足を壊す気か!」


 年長者たちの制止を無視し、少女は夢中で魔法バイクを調べ回る。ハンドルを握りしめ、両足をペダルに乗せる。


 (……確か、あの酔っ払いのジジイはこうしてたはず……!)


 彼女が右足のペダルを強く踏み込んだ。


 ギュイィィン!


 エネルギー球が猛烈に回転し、アルカンエンジンはふわりと宙に浮き上がった。


「うわあああ!」


「すぐに止めろ!」


 ヴェルンが叫びながら駆け寄る。一方で、若いドワーフ——リリムドールは、目を輝かせてその光景を見つめていた。


「……すげえな」


「リリムドール!感心しとる場合か!」


 父親の叱責などどこ吹く風。父親代わりであるヴェルンの過保護な反応を見たフェンリエは、躊躇わなかった。彼女は右手のスロットルを一気に回した。


 ドシュゥゥゥッ!!


「うおっ!?」


 二人のドワーフが声を上げる。暴走したバイクは、猛烈な勢いで前方の巨大な柱へと突っ込んでいく。


「止まれ!止まれええ!」


 パニックに陥りながらも、フェンリエは辛うじてハンドルを切り、障害物を回避した。制御不能なまま、彼女は洞窟内を無茶苦茶な軌道でジグザグに飛び回る。


 それは、端から見れば決死のアクロバットであり、本人からすればただの生存を賭けた悪あがきだった。


「…………」


 ヴェルンは絶望していた。飛びついて止めるべきか、もう一台のバイクで追うべきか、あるいは叫び続けるべきか。結局、彼は呆然と空を見上げるしかなかった。


 急上昇と急降下を繰り返し、壁や柱にぶつかりそうになりながらも、徐々に少女の動きに安定が戻り始める。空中でピタリと制動がかかったのを見て、ヴェルンはようやく安堵の溜息を吐いた。


 宙に浮くフェンリエが、下を見下ろす。顔は真っ青で、唇は小刻みに震えていたが、その瞳は爛々と輝き、誇らしげに親指を立てて見せた。


 リリムドールが小さく拍手を送る。グリムはこめかみを押さえて項垂れ、ヴェルンは強張った肩を揺らしながら、疲れ切った苦笑いを返した。


 フェンリエは深く息を吸い込み、両手で自分の頬を叩いて気合を入れ直すと、再びハンドルを握りしめた。その勇ましい姿に、ヴェルンもどこか誇らしさを感じる。


「……なあ。今こそ、あの娘を降ろすべきじゃないのか?」


 グリムの言葉に、ヴェルンの表情が凍りついた。


「え?」


 時、既に遅し。勢いに乗った少女は、再びペダルを力一杯踏み込んだ。最大出力まで回されたスロットル。アルカンエンジンは垂直に上昇し、洞窟の天井に開いた穴へと突入した。


「待て!行くな!!」


 ヴェルンの叫びは、轟音にかき消された。一気に外の世界へ飛び出そうとしたバイクだったが——出口の境界線で、目に見えない「壁」に衝突したかのように、突如として静止した。


 フルスロットルのまま、前進を拒む見えない暴風。


 キィィィィィンッ!!


 青白い輝きが増し、風圧がフェンリエの顔を歪める。頬が波打ち、髪が激しく後ろへなびく。食いしばった歯が剥き出しになり、圧力で唇を閉じることさえできない。


 (な、なにこれ……通れない!?)


「あやつ、何をしておるんじゃ?」


「あの砂風呂野郎……ここまで計算してたのかよ……」


 ヴェルンの声が、再び疲労に染まった。直後、バイクのエネルギー球が青から赤へと点滅を始める。


 ピピピピピピッ!


「あ……」


 悲鳴と共に、フェンリエはバイクごと地面へと真っ逆さまに墜落した。


「フェンリエ!」


 ヴェルンが跳躍した。その踏み込みの衝撃で足元の岩が砕け、ドワーフたちが転倒する。空中でバランスを取り直したフェンリエが、辛うじて着地を安定させる一方で——。


 ドゴォッ!!


「ぐはっ……」


 勢い余ったヴェルンは空を切り、巨大な柱に顔面から激突。そのまま不浄な地面へと崩れ落ちた。


「大丈夫ですか、フェンリエさん?」リリムドールが駆け寄る。


「ええ……ありがとう、リリムドール君」フェンリエは、激しい恐怖を押し殺しながら、荒い息を整えて答えた。


 (リリムドール君……君、か……)


 若いドワーフは、その言葉の響きを噛みしめるように黙り込んだ。


「あーあ、全く。あの使い魔野郎が我らを閉じ込めたというなら、どうやってここを出るつもりじゃ?」転んでいたグリムが、魂が抜けたような顔をしている息子を追い抜きながら吐き捨てた。


「あそこよ」フェンリエが指差したのは、宮殿の反対側に広がる、底知れぬ闇に包まれた洞窟の入り口だった。


「ハッ!何千年も誰も足を踏み入れとらんような穴蔵か!名案じゃな、これ以上ないほどにな!」


「……じゃあ、他に良い案でもあるの?」


「砂風呂野郎が戻るのを待つことじゃな」埃まみれの体を起こしながら、ヴェルンが言った。顔は柱にぶつけたせいで真っ赤になり、無惨な姿だ。


「どうして待たなきゃいけないの?グンダーが戻るまでここにいろって、一体何が起きてるのよ!」


 フェンリエが腕を組んで詰め寄る。


「……別に、何も起きてねえよ」


「隠し事してるでしょ!」少女の鋭い指先が、ヴェルンを指した。


「……っ、おい!聞け、このガキ!」声を荒らげ、ヴェルンが彼女の肩を掴もうと手を伸ばす。


 ブォォンッ!


「わっ!?」


 フェンリエは再びバイクを急加速させ、近くにいた年老いたドワーフを二度目の転倒に追いやった。


 放心状態のリリムドールを除いた三人の間に、苛立ちが伝染していく。ヴェルンの隠し事を疑う少女。彼女の頑固さに限界を感じる元騎士。そして、二人の騒ぎに巻き込まれ続けるドワーフ。


「いいから降りろ!地面に足をつけろ!」


「嫌よ!貴方は私の……っ」


 フェンリエは言葉を飲み込んだ。正体をバラしかけた焦りが顔に出る。


「私の……その……」


 (どうしよう……!ええと、ええと……)


 困り果てた彼女の視線が泳ぎ、冷ややかな目で見つめるヴェルンとぶつかる。


「……先生……?」


「……そう!先生でしょ!」


 ヴェルンは深々と溜息を吐いた。


 (……やってられん。酒でも飲まなきゃやってられんぞ、これは)


 彼は少女を見上げた。荒い呼吸を繰り返す彼女の瞳には、共有された「偽り」と「秘密」の重みが宿っている。自分たちの正体。この場所の異様さ。


 左を見れば、グリムが息子を現実世界に引き戻そうとしており。右を見れば、底知れぬ闇が広がる岩穴が口を開けている。


 (あの廃墟の先に、こんな場所があるなんて聞いてねえ。調査に向かった連中が戻らないのは、ここを探索しようとしたからか……?だとすれば、中は魔物や魔力生物で溢れてやがるな……)


 想像するだけで顔が歪む。だが同時に、ヴェルンの視線は天井の開口部へと向いた。


「ねえ、聞いてるの!?」


 フェンリエの怒鳴り声を無視し、ヴェルンは思考を巡らせる。ここに留まるのが正解か、それとも——。彼はもう一台のアルカンエンジンへと視線を移した。


「……ねえ、酔っ払いオヤジ」


 マシンの駆動音と共に、フェンリエが横に並んだ。彼女は身を乗り出し、バイクの上でバランスを取りながら、小声で囁く。


「……何を考えてるの?」


 ヴェルンは横目で彼女を見た。


「どうやってここを出るか、だよ。お転婆お嬢さん」


 その言葉を聞いたフェンリエは、不敵で、確信に満ちた笑みを浮かべた。


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