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月の斑(はん)  作者: エーテル
第一幕・隣接する夜: 『鋼鉄と月光の奔流』
57/62

第57話「大尉の祈り」

 ピカッ、ピカッ……


 街灯のラクリマから放たれる赤い光が絶え間なく明滅し、下層都市の最下層に広がる狭い路地裏を弱々しく、そして病的に照らし出していた。


 配管から滴り落ちる汚水の水たまりを踏みつけながら、彼は路地を駆ける。その顔は、脈打つような深紅の光に完全に染まっていた。青い制服、明るい色の髪、そして灰色の瞳のすべてが、緋色の反射に飲み込まれている。


 その時、彼――ブリッグスの視界が、地面に転がる動かない一対の脚を捉えた。


 ダッ!


 ブリッグスが駆け寄ると、そこには彼自身の部下である「番人」の一人が息絶えていた。若き兵士の胴体は無惨に引き裂かれ、抉り出された臓器がまだ内臓に繋がったままこぼれ落ちている。へし折られた肋骨が、死体から数メートル離れた場所に転がっていた。


 (……ッ!)


 ブリッグスは目を細めた。その顔つきは硬く、いかなる感情も読み取れない冷徹なものだった。


 立ち上がる前、彼は無惨に砕かれた部下の胸の上で、その両手をそっと重ね合わせた。


「私が、必ず仇を討つ……」


 その灰色の瞳には今、深く、静かに燃える怒りが宿っていた。ブリッグスは無言のまま、再び捜索へと歩みを進めた。


◇ ◇ ◇


 腐敗した悪臭が、猛スピードで巨大な縦穴を飛翔する精霊の鼻腔を突いた。斜めに伸びるトンネルの先に、すでに光が見えている。


 ゴォォォォッ!


 それは、古く忘れ去られた燃料で燃えるトーチから放たれる、病的な薄緑色の光の不規則な影だった。


 魚雷のようにクレーターから飛び出したグンダーは、スタッと猫のようなしなやかさで、崩れかけた岩の床に着地した。摩耗した石は、彼自身と同じくらい途方もない古さを漂わせ、退廃の息吹を放っている。


 彼は、かつてこの亀裂の岩壁の中に築かれたという、最初の都市――旧キサナトラの遺跡へと帰還していた。だが今や、この放棄された場所は、青空天井の牢獄としてのみ機能している。大都市の許されざる大罪人たちが、死ぬまでここで腐り果てるために投げ込まれるのだ。


 牢獄であるならば、囚人がいるはずだ。


 しかし、猫のように縦に裂けた紫色の瞳は、その場所に起きた劇的な変化を見逃さなかった。


「……皆、どこへ消えおった?」


 グンダーは独り言を呟きながら、数十メートル先にある巨大な開口部へと歩を進めた。その断崖は、下層都市の真下に広がる深淵へと直接繋がっている。


 彼の視線は遺跡の隅々まで走り、この見捨てられた巣窟の最も深い階層まで探りを入れた。崩れかけた建造物や病んだ岩には、自然の生命すら芽吹くことを拒んでいる。残っているのは、あの不浄な緑の炎を放つトーチを支える、いくつかの古い柱だけだった。


 (奴ら、こんな場所まで避難しおったというのか。あの空っぽの連中のために、ここまで深く降りてくるとは驚きであるな……)


 破壊された街路をさらに進む。やがて、弱々しい太陽の光が亀裂の縁を染め始めた。


 ピタッ……


 その瞬間、グンダーは足を止めた。


 首は完全に固定したまま、眼球だけを滑らせて周囲を鋭く睨む。


 (……まだ誰かおるな。感じるぞ……この、腐った肉の臭いを……)


◇ ◇ ◇


 下層都市の暗く汚れた路地裏。


 ドゴォォォッ!!


 一人の番人の体が、極めて暴力的な力で狭いレンガの壁に叩きつけられた。激突した瞬間、彼の肺から空気が根こそぎ絞り出される。


 男は前のめりに崩れ落ちた。その左腕は純粋な力任せに引きちぎられており、彼は地面に這いつくばりながら、必死に立ち上がろうと無駄な足掻きを見せていた。


「あらあら……」


 病的な無邪気さの裏にサディズムを隠した、甘ったるい女の声が響いた。


「そう、もっともがいて……獲物が抵抗するのって大好きなのよね。ふふふ……」


 青みがかったマントを纏った女――ヴェロニアは身を屈め、兵士の首根っこを掴み上げた。そのまま彼を高く吊り上げ、引き裂かれた男の胸を自身の顔の高さに合わせる。


 番人の顔は鮮血に塗れていた。顎から左目にかけて深く刻まれた裂傷が、汚れにまみれた肌を痛々しく分断している。まだ機能している右目だけが、薄れゆく意識の中で必死に焦点を保とうとしていた。


 彼に残された最後の視界――それは、ヴェロニアのサディスティックで病的な顔だった。高い位置で結われた長い金髪が、濃い青の瞳と毒々しい化粧を際立たせている。海の色に染まった唇を、唾液で濡れた舌が絶え間なく舐め回していた。


「あなたみたいに『綺麗な』獲物、ほーんと大・好・きよ」


 女の震える声には、隠しきれない興奮が滲んでいた。彼女の左手が、酸素を求めて喘ぐ兵士の顔に触れる。青く長い爪で飾られた指先が、血塗れの肌を撫で、そのままゆっくりと、破壊された胸の上へと降りていった。


「顔がこれだけ美しいんだもの……体だって、きっと……」彼女は低く、甘く、そして完全に狂った声で囁く。「こんなに魅惑的なんだから……あなたのそのお肉、どんな味がするのかしら……」


 再び唇を舐め、彼女は邪悪な笑みを浮かべた。


 色白の指が手際よく制服のボタンを外し、獲物のむき出しの胸を露わにする。


 そして、ヴェロニアの口が限界まで開かれた。


 メリメリメリッ!


 両頬が残酷に裂け、顎の筋肉が断ち切られたロープのように弾け飛んだ。並んだ歯は鋭い牙へと変貌し、美しい女の顔に、血に飢えた獣の巨大なあぎとが形成される。


 ヴェロニアは兵士の胸を喰らおうと、まさに飛びかからんとしていた。


 ――その時。


 ヒュンッ!!


 鋭く空気を切り裂く音が、路地裏に鳴り響いた。


 ドサッ……


 兵士の体が地面に落ちた。完全に意識を失っている。


 一方、ヴェロニアは信じられないほどの暴力的な力で後方へ吹き飛ばされた。


 ズドォォォン!!


 眩い黄金の槍が、彼女を汚れた金属の壁に串刺しにしていたのだ。怪物の体はだらんと垂れ下がり、両腕が力なく揺れている。


 数秒後、女の左手がゆっくりと上がり、自身を貫くその黄金の柄へと伸びた。


 ヒュンッ!!


 再び、空を切り裂く轟音が響く。


 二本目の黄金の槍がヴェロニアの手を貫通し、彼女の首のすぐ下へと突き刺さった。その衝撃で、彼女の頭は上を向いた不自然な角度で固定される。


 それでもなお、彼女の顔にはあの不気味で病的な笑みが張り付いていた。引き裂かれ、むき出しになった顎の肉や筋肉の隙間から、青い瞳が純粋で絶対的な恍惚に大きく見開かれる。


 血の混じった声で、彼女は歓喜の叫びを上げた。


「あなた、おもしろーい!!」


 路地の反対側。遺体を回収し、切断された生存者の救護に当たる番人たちを伴って、そこにブリッグスが立っていた。


 彼は最前線に陣取り、怒りに燃える灰色の瞳を向けていた。その腕はまだ高く掲げられ、投擲の姿勢を完璧に保っている。


「お前だな?」


 ブリッグスは尋ねた。その声は氷のように冷たく、完璧に制御されていた。


「あら?何?」彼女はあの芝居がかった無邪気さで問い返す。


「十五ヶ月前だ……下層都市のドブの中に、胴体を開かれ、臓器を貪られた死体が初めて見つかったのは……」


 大尉は冷徹な声のまま語り続け、姿勢を正して殺人鬼の方へと歩みを進めた。


 ヴェロニアはただ天使のようにパチパチと瞬きをする。


「……その後、虐殺は上層都市へも及んだ……盗賊や労働者から、他区画の権力者に至るまで、男の死体ばかりだ。私の番人の部下たちさえも犠牲になった……全員が同じ手口で殺されていた。胴体を切り裂かれ、内臓を食い荒らされてな」


「で、それがどうしたの、番人さん?」ヴェロニアが尋ねる。今度はその声に、明確な脅威の響きが混じっていた。


「やがて、我々の捜査が犯人の足取りを掴み始めた。部下の一人が、ある紋章を目撃したのだ。青いマントのスカートに刻まれた、獅子の紋章を……」


 ヴェロニアの青いマントは、洗練されたドレスのような仕立てだった。腰から裾にかけて深いスリットが入り、彼女のすらりとした脚を強調するようにデザインされている。そして腰のすぐ下、そのメインのスリットの始まりに、威風堂々たる獅子の紋章が鎮座していた。


「オードリー嬢が対峙した敵から確認されたものと、全く同じ紋章だ」


 ヴェロニアの目が細められた。


「お前だな……?私の部下たちを殺した化け物は」


 戦士の顔は無表情のままだったが、灰色の瞳は純粋な憎悪で赤く燃えているようだった。


 対する女の目は、興奮でキラキラと輝いていた。


「大・正・解……番人さぁん……」


 彼女は囁いた。その声は、マカブルな歓喜にどっぷりと浸かっていた。


「貴様を、ここで殲滅する」


 ブリッグスはそう宣告した。


 チャキッ!


 彼は剣を抜き放ち、怪物の顔面を一直線に狙って猛烈な刺突を繰出した。


 躊躇うことなく、ヴェロニアは自らの体を前へと押し出した。その突進の力で、突き刺さっていた刃に自らの胸と肩をさらに深く抉り込ませながら、黄金の鋼から強引に身を解放する。


 ザシュッ!!


 ブリッグスの剣は空を切り、金属の壁に虚しく突き刺さった。彼が即座に刃を引き抜き、上を見上げると、女はすでに高度を上げていた。彼女はブリッグスが踏み込む直前、腕の筋力だけで自らを槍から引き抜き、上の階の居住区に届かんばかりに跳躍したのだ。


 青の淑女レディは、狂喜の笑みを浮かべたまま路地へと舞い戻ってきた。彼女の胴体には致命的な亀裂が走り、マントの生地が青白い肌からだらしなく垂れ下がり、血にまみれた豊かな胸元を露わにしそうになっている。


 スタッ……


 彼女は羽のような優雅さで、数メートル離れた場所に着地した。うつろな視線を向けたまま、舌で自身の唇を舐め回し、両手で慌ただしくマントの解けた部分を結び直して胸元を隠す。


 ブリッグスは、服の下で女の腹部が激しく波打つのを認めた。灰色の瞳が、一瞬の理解とともにそのプロセスを読み解く。


 (胴体を引き裂く手口、あの獣のような顔、そしてセヴァー嬢を喰らおうとしたというオードリー嬢の報告……)


 彼女は人肉を食らうのだ。そして、その肉が……。


 女の胴体に開いた傷口が、驚異的な速度で塞がり始めた。まるで一度も貫かれてなどいなかったかのように、筋肉組織が結合していく。喰らった若き番人の肉が、彼女の暗黒の代謝によって消費され、純粋な再生力へと変換されているのだ。


「新品同様よ!」


 彼女は甲高い声で嘲笑い、子供っぽい演技を完璧にこなしてみせた。


 残忍な笑みを浮かべたままブリッグスを見つめる。しっかりと結び直されたマントが、再び彼女の病的な魅力を隠していた。


「あなた、ブリッグス大尉殿でしょ?正解かしら?」彼女は首を傾げた。そのコンマ数秒後、瞳孔が捕食者のように縦に細まる。「あなた、とっても魅力的ね……凄く男らしい体つきをしてるわ……きっと、最っ高のエンターテインメントになるわね……」


「近づいてみろ、この冒涜的な化け物め!」


 青の淑女は体の軸を傾け、ブリッグスに向かってミサイルのように発射された。


 ダァァァッ!!


 指は爪のように曲げられ、狂気の笑みが顔を引き裂き、そして両手のひらから金色の螺旋を伴った輝く紫のヴォルテックスが弾け出た。


 瞬きする間に、ヴェロニアはブリッグスの上に浮かんでいた。伸ばされた腕が兵士の心臓を狙い、渦が彼の存在そのものを分解しようと唸りを上げる。


 ガキィィィンッ!!


 金属的な衝撃音が通りを揺るがした。凄まじい慣性を保ったまま、ヴェロニアはブリッグスの横を残像のように通り過ぎ、不規則な床を滑って戦士の数メートル後方で停止した。


 ズザザザッ……!


 着地の反動で膝を曲げる。上体を起こした時、彼女は自分の両手が消滅していることに気づいた。狂気の眼差しが、計算し尽くされた冷徹なものへと変わる。血まみれの切断面からすでに骨と筋肉の繊維が芽吹き、失われた肉を急速に編み上げていた。


 彼女は敵の広い背中を睨みつけた。ブリッグスの周囲から黄金の輝きが放射されており、大尉の黒いブーツの横にある汚水溜まりの傍らに、女の青白い両手が転がっている。


 ブリッグスは踵を返し、彼女と向き合った。その眼差しは絶対的な集中力を示している。


「あらあら……」彼女は先ほどの嘲笑を捨て去り、シューッと息を吐いた。「私の勘違いだったみたいね……あなたのその汚らわしい肉なんて、私の中に入る価値もないわ」


「それは残念だ」彼もまた皮肉で応じた。


「あなたのそういうの、大っ嫌い……」


 凝縮された黄金の光が、戦士の右側へと収束していく。光の中から、ブリッグスは一本の荘厳な槍を実体化させた。


「その言葉はよく耳にする」


「その魔法……私、その魔法が憎くて憎くてたまらないのよ……」


「私がこの力を持っているのは明白だ。なにせ、戦闘魔術師コンバット・メイジの称号を背負っているのだからな」


 黄金の槍の切っ先が持ち上がり、ヴェロニアに照準を定めた。


「戦神の忌々しい魔法……!」彼女は獣のような歯を食いしばって唸った。新たに形成された両手が赤く燃え上がり、貪欲な渦が再び点火される。「あなたの骨を粉々に砕いて、その血を一滴残らず飲み干してやるわ!」


 ブリッグスは無言のまま、戦闘の構えを固めた。


 そして、祈りを紡ぐ。


「どうか……私の刃を導きたまえ」


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