第56話「不可視の断絶」
爆発の轟音が四方八方に響き渡った。
――ドドォォォォォン!!
切り裂くような風と煙に、濃紺のマントが激しくなびく。
上層都市、開けた広場。ラグラムは肩で息をしながら、その手に杖を固く握りしめていた。彼の背後には、おぞましい「モノ」が浮遊している。それは、数十もの瞳が充血したまま散らばり、醜く歪んだ四肢がどす黒い赤色に脈打つ、異形の肉塊――悪魔だった。
少年の中では、視覚が数十倍にも増幅されていた。悪魔の瞳は、まるで自分自身の器官であるかのように、周囲のあらゆる角度を捉えている。
だが、その三百六十度の視界が告げるのは絶望のみ。自分を包囲する数十人の「黒鋼の刃」の姿だ。オードリーの指揮のもと、部隊は着実に距離を詰めてくる。彼女自身は後方に控え、鋭い眼光で少年の動きを観察していた。その手には、既に風の刃が抜かれている。
(あの女、自分からは仕掛けてこない……。僕が反撃する時に、騎士たちを守っているだけだ。一体、何を企んでいる……?)
漆黒の全身鎧が鈍く光る。槍、剣、弓、杖、そして魔導技術の結晶である銃器――そのすべての銃口と切っ先が、彼一人に向けられていた。
「放てッ!」
騎士の怒号が響く。
ラグラムは食いしばった歯の隙間で舌を打った。
空中に魔法陣が展開され、猛烈な火炎と電撃の奔流が彼を襲う。
――ドォォォォォォン!!
爆発が床を揺らし、立ち昇った濃い土煙がラグラムを呑み込んだ。
煙が晴れ始めると、そこには彼を守るようにとぐろを巻いた、巨大な白蛇の残骸が崩れ落ちていた。攻撃魔法を真っ向から受けたその白い肉は、無残に黒焦げとなり、腐臭を放ちながら剥がれ落ちていく。
焼けただれた鱗と肉の塊の中から、黒い影が上空へと跳ね上がった。
「逃がすな!撃てッ!!」
遠距離部隊が再び動く。矢と魔弾の雨が、絶え間なく空を切り裂く。
――ヒュッ!ヒュババババッ!!
異様に巨大な頭部とさらに巨大な瞳を持つ「怪鳥」の爪に吊り下げられ、ラグラムは猛攻を回避していく。彼は杖を掲げた。シンボルのない、不気味な緑色の魔法陣が展開される。虚空から現れた数十の小型悪魔たちが、少年の盾となるべく肉の防壁となって弾け飛んだ。
傍らに浮遊する眼球の悪魔。その無数にある不規則な瞳の一つが、大きく見開かれた。
ラグラムはその警告を察知し、怪物が指し示す方向へ視線を飛ばす。金色の金属で造られた建物の屋上――そこには、一人の黒鉄の騎士が待ち構えていた。
騎士は黄金の輝きを纏った槍を掲げ、一気に投擲した。
――シュゥゥゥゥンッ!!
直撃の瞬間、それを遮ったのは、腐り落ちたピンク色の肉を持つ巨大な「虫」だった。怪物は主の身代わりとなり、その頭部を粉砕され、黒く濁った返り血を撒き散らした。
屋上の騎士が即座に腕を伸ばし、武器を手元に呼び戻そうとする。だが、その動作は一歩遅かった。金色の建物の内部から、二体目の巨大な虫が突き破るように出現したのだ。構造物を粉砕し、騎士を一飲みに喰らい尽くす。
ラグラムは地上の部隊に杖を向けた。さらに二体の虫が地中から這い出し、隊列へと牙を剥く。
だが、先遣隊は怯まない。兵士たちは即座に迎撃陣形を立て直し、一瞬にして地下の怪物を細切れに切り裂いた。鋸状の歯を持つ異形の頭部が、左右真っ二つになって転がる。
自らの召喚獣が無に帰す光景を処理する暇もなく、先遣隊の砲撃が倍の勢いで再開された。
空を護衛するために新たな悪魔を呼び出すが、魔法の斉射はあまりにも過酷だった。一発の衝撃が、彼を運んでいた巨鳥の胸を貫く。怪鳥は金属質な悲鳴を上げ、ラグラムを道連れに墜落を始めた。
「しまっ……!」
地面に激突するまで、あと数メートル。ラグラムは広場の石畳に杖を向けた。杖の先で澄んだ緑の魔法陣が弾ける。圧縮された空気の爆破が全方位に広がり、墜落の衝撃を殺した。
――ドォォォォン!!
しかし、先遣隊は休ませてくれない。着地した瞬間に、剣と槍の壁が目の前に迫っていた。
黒き騎士たちが、彼を屠らんと包囲網を狭める。
だが、ラグラムは並の魔導師ではない。
空気爆破の余波を利用し、左手で地面を叩いて身体を跳ね上げた。最初の刺突を紙一重でかわし、空中で回転して着地する。騎士たちは容赦なく追撃を繰り出す。
――キィィィィンッ!!
直線的に突き出された槍を回避。通り過ぎる黒鎧の背中に、強烈な蹴りを叩き込む。
二振り目の剣が垂直に振り下ろされる。ラグラムは体幹を斜めに捻り、後方へ跳躍。さらに別の槍が胴体と左腕の隙間をかすめていく。研ぎ澄まされた反射神経で、ラグラムはその金属の柄を掴み、力任せに叩き折った。そして、その折れた先端をそのまま、襲撃者の喉元に突き立てる。
――グチャリ。
鮮血が噴き出し、少年の顔を赤く染めた。その表情は今や、激しい怒りに変貌している。
左右から新たな攻撃。斬り上げられた刃が頬をかすめ、細い傷を作る。もう一振りが正面から突き出される。今度は金属を折るような真似はしない。杖を直接、相手の胸当てに押し当てた。緑の魔法陣が再び輝き、騎士の身体は内側から爆発する空気によって粉砕された。
返り血が、埃にまみれた紺色のマントをどす黒く染めていく。
大気の圧力が変わるのを感じ、少年は顔を上げた。青い瞳が、騎士団の魔導部隊を射抜く。魔力の回路が激しく脈動している。刹那、気流と渦巻く火炎が融合し、広場を飲み込むほどの火炎嵐へと化した。
――ゴォォォォォォォッ!!
紅蓮の地獄のただ中で、ラグラムは首を抑えながら荒い息をついていた。間一髪で召喚した擬人型の悪魔の死骸が、彼を盾となって守っている。だが、熱気よりも恐ろしいのは、燃焼によって酸素が奪われ、窒息しそうになっていることだった。
彼は膝をつき、滝のような汗を流しながら、薄れゆく意識を繋ぎ止める。残り火の霧の向こうから、黒鉄の騎士たちの悲鳴が聞こえてきた。苦悶の声、パニック、助けを求める叫び。
それは、撤退が間に合わなかった仲間たちの末路だ。
(そうか……。これが「弱肉強食」か……)
ラグラムの乾いた唇に、残酷な笑みが浮かぶ。黒鉄の先遣隊は、標的を仕留めるためなら、味方の犠牲など微塵も躊躇わない。冷酷で、極めて厄介な戦術だ。隙があれば、彼らは同胞の血を厭わずに自分を仕留めに来る。
火炎の嵐が徐々に収まり、周囲には焼けた肉の臭いと濃い黒煙が立ち込めた。
「撃てッ!」
将校の号令。即座に、弓兵と砲術士たちが煙の中の影を目掛けて魔導弾を叩き込む。
その時、焦げ臭い空気を塗りつぶすように、鼻を突くほど濃い硫黄の臭いが立ち込めた。魔導部隊の背後から、緑色の霧が湧き上がる。
――シュルルル……
汚れ、煤けた紺色の袖に包まれた「手」が、霧の中から飛び出した。そして、一人の魔導騎士の兜を正面から掴み取る。
煙の中から躍り出たラグラムは、戦士の背中に飛び乗っていた。指先が金属に食い込み、バイザーを強引に引き剥がす。再び、敵の軍勢が剣と槍を彼に向ける。
少年は魔導師の頭部を乱暴に掴み、そのまま自らの手で頭蓋を握りつぶした。物言わぬ肉塊となった死体を盾として掲げ、それを残りの部隊へと投げつけ、攻撃陣形を崩す。
崩れ落ちる死体の背中に、杖を向けた。
「『逆転の奇跡』――!!」
地に落ちるはずだった魔導師の遺体が、空中で不自然に回転した。手足がマカブルな角度でへし折れ、骨の砕ける音が響く。再起動された「死体」は、獣のような動きでかつての仲間たちへと飛びかかり、容赦なくその刃で肉を削ぎ落としていく。
だが、その冒涜的な突撃は単なる囮に過ぎなかった。先遣隊が死体を切り刻んでいる間に、ラグラムは血に染まった手を口元に運び、破壊したバイザーに残っていた鮮血を、獣のように啜り取った。
騎士団が陣形を立て直すより早く、硫黄の臭いが再び広場を支配する。
緑の霧がラグラムを包み込み、その姿が消えた。
精鋭部隊は防御陣を敷き、武器を構えて周囲を警戒する。直後、彼らの真後ろに硫黄の臭いが漂った。床から煙が吹き上がる。術者の手が再び影から伸び、別の騎士の兜を掴んだ。ラグラムはそのまま、騎士を魔法の霧の中へと引きずり込む。鎧の半分が呑み込まれた瞬間、霧は唐突に消滅した。
――ドサリ。
糸の切れた人形のように崩れ落ちた騎士の頭部は、正確に半分だけが失われていた。
少し離れた場所に、緑の霧と共にラグラムが再実体化した。その手には、兜を失った生身の生首が握られている。彼はその頭部を顔の前に掲げると、眼球の近くに食らいつき、用済みと言わんばかりに石畳へと放り捨てた。
騎士たちは腰を落とし、槍を構え直す。目の前の「人の形をした悪魔」を迎え撃つ覚悟を決めたのだ。
「僕、こんな力をオープンな場所で使うのは嫌いなんだよね。エネルギーを使うし、努力なんて大嫌いだからさ」
ラグラムの声は静かだが、その瞳には抑えきれない憤怒が宿っている。
「それに、こんな戦い方、少し卑怯だし……」
彼は肩をすくめ、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「でも、見ての通り……」
霊の使い手は、不遜極まりない態度で腕を組む。
「多勢に無勢なら、卑怯な手を使っても問題ないよね? そうだろう?」
彼は右手の杖を部隊に向け、左手の人差し指と小指を立てる儀式的な印を組んだ。
広場に硫黄の臭いが充満する。
だが今度は、その霧が広がる前に、一瞬にして切り裂かれた。
(なっ……!?)
疑問が脳裏をよぎったのは、わずか一瞬。
完璧に清廉な、目に見えぬ「断絶」が、彼の左肩を通り抜けた。
ラグラムは、自分の左腕が切断され、血溜まりの中に落ちるのを、ただ呆然と見つめていた。
――ポタッ……ポタポタッ。
衝撃は、剥き出しの絶望へ。そして、燃え上がるような殺意へと変わる。
「ご苦労様、皆。あなたたちの犠牲は、決して無駄にはしないわ」
オードリーの声が響く。冷徹で、絶対的な響き。彼女は騎士たちの前に歩み出、戦いの先頭に立った。部隊は即座に後方へと下がり、負傷者への治癒魔法を開始する。
ラグラムは膝を折り、残った右腕を伸ばして切断された腕を回収しようとした。だが、目に見えない新たな一撃が目の前の空気を切り裂き、その動きを止める。
「そう急がないで」
「この……泥棒猫がっ!!」
「神々に祈りなさい、悪徒。私はついに、貴様の薄汚い種明かしを解明したわ」
彼女の声は、先ほど少年の腕を奪った斬撃と同じく、冷たく、鋭利だった。




