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月の斑(はん)  作者: エーテル
第一幕・隣接する夜: 『鋼鉄と月光の奔流』
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第61話「紅蓮の煙」

 辺り一面を、紅蓮の煙が埋め尽くしていた。息の詰まるような熱気。グンダーの喉元まで込み上げる胆汁――それは、目の前の『モノ』共に対する、絶対的な嫌悪と蔑みの証だった。


 (そもそも、奴らを『人』として認識する価値すら皆無だ。ただの悍ましい汚泥よ……)


 ヒンペリアの笑みは、磨き上げられたように崩れない。その黄金の瞳は、どこまでも冷徹で揺るぎなかった。


「この芸については、私も少々心得がありまして」


 彼は水の達人であるグンダーの技を模倣するように、極細の血の噴流で攻撃を相殺してみせた。


 グンダーの額に青筋が浮かぶ。ヒンペリアはその緊張を逃さない。


「埋もれよ」


 グンダーの放った言葉は、凍てつくような宣告だった。


 ズゥゥゥゥン!!


 大地が激しく震え、足元が崩落する。ヒンペリア、ヴァリス、そしてその分身たちの均衡が崩れた。岩石が雪崩のごとく押し寄せ、無数の鋭い石の杭が突き上がる。


「ああ……」


 ヴァリスは目前に迫る惨劇を予見し、力なく漏らした。


 だが、主は待つことなどしない。ヒンペリアは自らの血の霧に包まれ、上体を深く沈める。ボキボキッ!!と不気味な音を立てて、深紅の霧から異形の骨が突き出し、必殺の刃へと形を変えていく。


 その数は数十本。ヒンペリアは腕を掲げ、死の軍勢を操るように、それらを一斉に放った。


 シュバババッ!!


 骨の先端に宿る鉄の如き密度が岩石を切り裂き、硬化したカルシウムの厚みが土砂の進撃を食い止めた。


 だが、グンダーは既に次を読んでいた。


 影に潜んでいた水の大蛇たちが、高圧の水刃を伴い一斉に牙を剥く。全ての攻撃がヒンペリアへと収束する。


 男は血の雲を呼び戻し、一瞬にして骨と深紅の魔力による『繭』を構築した。


 水流の圧殺を狙い、グンダーが跳ぶ。


 (このまま押し潰してくれるわ)


 しかし、不可解な気配がグンダーの感覚を横切った。その魔力の正体は、依然として霧に包まれている。


 ガキンッ!!


 突如として、鎖が右腕に絡みつき、水砲を練り上げていた動きを封じた。その金属の出処を辿ると、ヴァリスの姿があった。鎖は、その男の開かれた胸部から直接生え出ていた。


 ヴァリスは両手で鎖を引き絞る。コンマ数秒、二体の分身がグンダーの背後に出現。メキメキッ!!と肋骨が砕ける湿った音が響き、新たな鎖が飛来する。


 グンダーは左腕一本で厚い水壁を張り、攻撃を阻む。そのまま、掌を地面に向け、指先から死の液体を流し込んだ。


 ピシュンッ!!


 針のような極小の水滴が分身たちの頭蓋を貫く。パッ!!と紅い霧が散り、二体の死体は石の床へと転がった。


 勢いのまま右腕を引き戻し、鎖の主を強引に引き寄せる。グンダーは左手でヴァリスの顔面を掴み、力を込めた。グシャッ!!圧倒的な圧力で顔を粉砕し、むくろを捨て置いた。


 精霊は空中に留まり、自身の左手を見つめる。


 (不浄な血だ……。反吐が出る)


 厭悪の表情を浮かべ、水を操り汚れを洗い流す。


 ヒュゥッ


 皮肉めいた口笛が、戦場の静寂を切り裂いた。


 グンダーが視線を向けると、そこには無傷のまま、腕を組んで待つヒンペリアがいた。相変わらずの笑みを浮かべて。その隣には、死んだはずのヴァリスが、ひどく疲弊した様子で歩み寄ってきた。


「そろそろ、我々を『真剣に』相手にしていただいてもよろしいのでは、偉大なる精霊殿?」


「……まだ手加減してたのかよ?」


 ヴァリスの声には、道化染みた絶望が混じっている。


 グンダーは空中で二人を見下ろす。


「考えておこう。貴様がその遊びをやめた時にな」


 彼は冷たく言い放ち、紫の瞳を鋭く光らせた。


「左様ですか……。ならば、ご希望通りに」


 ヒンペリアの口調は、依然として気だるげで、微塵も揺らぐことはない。


 グンダーは目を細めた。


 ヴァリスは主を仰ぎ見、その疲れた顔で『正気か?』と無言の問いを投げかけていた。


 大気が重くなる。血の臭いと熱気が、窒息するほどに膨れ上がった。ヒンペリアの体から、深紅の蒸気が高圧ガスのように噴出する。


 男の顔が強張る。彼が両腕を突き出すと、その霧から『異形』が完全に姿を現した。尖った骨、剥き出しの筋肉、歪んだ肢体、骨の刃、そして必殺の血の噴流。


 ドォォォォン!!


 地獄のような砲火がグンダーを襲う。


 グンダーは即座に障壁を張り、高密度の水流で不可侵の壁を築いた。ヒンペリアの連撃が激しく衝突するが、盾に吸い込まれ、決定打には至らない。だが、敵の攻勢は止むことなく降り注ぐ。


 (余をこの場に釘付けにするのが目的か……。力でねじ伏せるつもりはないようだな)


 その時、グンダーの目は瓦礫の影に潜む不穏な動きを捉えた。


 (やはりな。姑息な策だ)


 ヴァリスと分身たちが暗闇から飛び出し、再び鎖による波状攻撃を仕掛けてくる。


 血に汚れた鋼鉄が迫る。グンダーは片腕だけでそれを捌き、水を己の体の一部のように操り防戦する。


 前方の盾を維持するには集中が必要だ。グンダーはその苛立ちを抑えるべく、自らのコートの下から、音もなく水の大蛇を放った。


 水の大蛇たちが次々とヴァリスを屠る。首を跳ね、骨を砕き、溺れさせても、その度に新たな個体が出現した。


 (キリがない……。不快な奴らだ)


 一瞬の隙が生じた。ヒンペリアの猛攻に押され、グンダーの防御壁が体の方へと押し込まれる。


 グンダーは横目で盾の歪みを確認し、再びヴァリスを睨みつけた。


 (主は囮に過ぎぬ。ならば、この『切り刻まれた肉塊』こそが攻撃の鍵か。一体、何が特別だというのだ?)


 新たな鎖が飛来する。精霊は蛇を割り込ませ、その鎖を真っ向から受け止めた。


 (近くで、見極めてやろう……)


 スッ……


 空いた手で、グンダーは指先をわずかに動かした。


 ヴァリスの分身たちは、その魔術の致死性を悟り、両目をカッと見開いた。彼らのブーツの下で、岩が目を覚ましたのだ。


 ゴゴゴゴォォッ!!


 飢えた根のように、廃墟の床から鋭い石の石筍せきじゅんが突き出し、散らばっていた分身たちを次々と串刺しにして粉砕した。


 (なぜ、数は常に『三』に保たれる?殺すたびに、代わりが湧いて出る。死体は消滅することなく、その場に残り続けているというのに……。だが、余が最初に仕留めた死骸だけは、跡形もなく消え失せていた……)


 分身の一体が精霊に向かって突進してきた。跳躍した瞬間、鋭い岩の破片がシュバッ!と飛来し、襲撃者を真っ二つに両断する。その一千分の一秒の間に、グンダーの知覚は事実を線で結んだ。両断されたばかりの分身の半身が足元に落ちた、まさにその瞬間――洞窟の奥に転がっていた古い死体が一つ、跡形もなく消え失せたのだ。


 精霊の鋭敏な頭脳で謎のピースが噛み合うために必要だった、そのほんの一瞬。それこそが、敵が待ち望んでいた戦術的なほころびだった。


 ズドドドドッ!!


 ヒンペリアの砲火が倍の激しさとなり、グンダーは防御壁の維持にほぼ全神経を注がざるを得なくなった。


 反撃の隙も与えぬまま、真っ二つになった分身の死体が空中でフッと消滅した。直後、グンダーからわずか数センチの距離に、二体の新たなヴァリスが実体化した。すでにその胸は大きく開かれ、鎖が獲物を狙う蛇のように鞭打っていた。


 (何ィッ!?)


 同時攻撃に虚を突かれながらも、精霊は本能的に反応し、純粋で破壊的な水の激流を放って二体の標的を吹き飛ばした。ドガァァァン!!圧倒的な水流が分身たちをなぎ倒す。


 命の灯火が消えた瞬間、その死骸は消滅し、新たな二体のアバターへと置き換わった。この病的なサイクルは続き、かつて倒された分身の残骸を媒介にして、三体目の戦士が『先触れ』の背後にひっそりと湧き出た。


 (奴は、己の死体をテレポートの『座標』として利用しておるのか!)


 ジャララッ!


 鋼が鳴った。鎖が精霊の手首に絡みつき、両腕を拘束する。その無防備となった絶対的な隙を突き、グンダーは水盾の上空を漂う深紅の霧に気づいた。紅い蒸気の核から、ヒンペリアが致命的な急降下を仕掛けてきたのだ。


 主の手は中央から裂け、前腕の骨が融合し、病的に歪んだカルシウムの鎌へと変貌していた。


 四方を完全に包囲されたグンダーは、自らの胸に向けて水柱を放った。ドバァッ!!その反発力で自身の体を強引に後方へ吹き飛ばし、迫り来る斬首の刃を数ミリの差で回避する。


 鎖に繋がれていた三体のヴァリスも、その逃避の衝撃で引きずられた。無重力状態の空中で、精霊は縛られた両手首を合わせた。


 (イングリッド……お主があの武器で訓練する姿を見ていたのが、ようやく役に立ったわ!)


 イングリッドの流麗な体術を模倣し、グンダーは自身の軸を中心にクルルッ!と猛烈な速度で回転。金属の鎖を巻き取り、空中で三体の分身同士を激しく激突させた。


「ヴァリス!」


 ヒンペリアが声を荒げる。


 遠心力を利用し、先触れは分身の塊を石の床へと叩きつけた。メチャァァッ!!肉が粉砕される鈍い音が廃墟に響き渡り、血の噴水と分厚い土煙の幕が舞い上がる。


「まだ終わらんぞ!」グンダーが宣告した。緩んだかせが腕から滑り落ちるのを、彼の手が即座に掴み取る。水の魔力が金属を伝って走り、接続部を凍結させながら、無惨に潰れた従者の体へと容赦なく這い進んだ。


「忌々しい……!」


 ヒンペリアが毒づいた。主は介入を試みたが、何十匹もの水蛇が牙を剥いて立ちはだかり、即座にそれを阻んだ。


 グイッ!


 致命的な力で、グンダーは鎖を引き絞った。細切れになった自分自身の死骸の山の中で、ヴァリスが吊り上げられる。鋼の縛りと液体の絞め技が、彼を無慈悲に窒息させていく。


「これ、痛いんですけどぉ……」


 ヴァリスが呟いた。その声からは、相変わらずの無気力さが滴り落ちている。


 グンダーは囚人の元へ、ゆっくりと歩み寄った。機能停止した自身の分身たちの重圧に潰されながら、従者は血まみれの顔を上げ、精霊の捕食者のような瞳を直視せざるを得なかった。


「捕まっちゃいましたぁ……誠に申し訳ありません、ヒンペリア様ぁ……」


「この待ち伏せの目的は、最初から余を排除することではなかった。そんな大望は不可能だからな」グンダーは裁きを下すように語り始め、ヴァリスの頭蓋骨に重いブーツを乗せながら、ヒンペリアを睨み据えた。「脳の完全な破壊、あるいは心臓の摘出。再生速度を上回るダメージを与えれば、貴様らのような獣にとっては確実な死を意味する。だが、貴様らの特異性は従来の生物学を逸脱しておる。既知の基準を異常なまでに凌駕する再生能力を持っている……」


 ギリッ……


 精霊は囚人の顔面に靴底を押し付けた。


「それに加えて、己の細胞分裂を利用して、死に対する無限の逃走経路を偽造する、この従者の寄生的な能力もな」


「見事な推論です」ヒンペリアが同意した。「この任務にヴァリスを選んだのも、まさにその論理に従ってのこと。他の部下であれば、あなたの卓越した技の前に、とうに存在を消し去られていたでしょう。ヴァリスとの最初の遭遇時と、全く同じ結末を迎えていたはずです」


「貴様らの戦術が完全に無意味であることを、今ここで通達しておこう。封印魔法で余の本質を幽閉することなど、不可能だ」


 ヒンペリアの顔に皮肉な笑みが引き裂くように広がった。彼は両手を上げ、嘲るように降伏のポーズをとる。


「見抜かれていましたか。これは驚きました……」


「これからどうしますぅ、ヒンペリア様ぁ?」ヴァリスが囁いたが、その言葉は顎を砕くブーツの残忍な圧力によって掻き消された。「いってぇ……」


「自らの肉を増殖させ、死を欺く。生存戦略としては見事なものだ」グンダーは話を再開し、鎖に繋がれた首を掴んでヴァリスを吊り上げ、その濁った網膜の奥深くを睨みつけた。


「作戦の本来の目的が封印であったのなら、立場を逆転させてやろう。貴様の本質を幽閉すれば、あの不快な寄生虫が新たに孵化するのを永久に阻止できる!」


 精霊は最終宣告を下した。空いた腕を高く掲げる。袖の下では水刃が渦を巻き、敵の生命線を切り刻む準備を整えていた。


 囚人は絶望的にもがいた。極限の細胞分裂を予期し、筋肉組織が脈打つ。しかし、グンダーの濃密なエネルギーが傷口を凝固させ、母体を中和し、新たな宿主の再生を完全に封じ込めていた。


 ヴァリスの歯がギリリと鳴った。その無気力な顔に、初めて本物のパニックが引き裂くように浮かび上がった。


 (分離できない!嘘だろ!このままじゃ奴に……奴に……!)


 ズバァッ!!


 水の槍が闇を貫いた。


 ヴァリスは主に視界の救いを求め、怯えた目を恐怖で見開いていた。湿った一撃が肉を裂く。だが、グンダーの肌を染めたその液体は、焼け付くような熱を放って脈打っていた。手首を掠める髪の毛は、整えられた巻き毛。貫かれた布地は、仕立ての良い紺碧の外套オーバーコートの正確な縫い目を露わにしていた。


 猫の瞳孔が、極限のショックでカッと見開かれる。


 精霊の前腕は、ヒンペリアの胸を暴力的に貫通していた。ロードは口から大量の血を吐きながらも、病的に洗練された微笑みを保っていた。


 生存と戦闘の本能に突き動かされ、精霊はトドメの一撃を放とうとした。反対の腕が完璧な弧を描いて鞭打ち、水の断頭台を纏った指先が、致命的な斬首を狙って異形の首へと迫る。


 だが、その一撃が振り抜かれるより早く、鈍重な鉄の衝撃が彼の肋骨に容赦なく叩き込まれた。


 ドゴォッ!!


 罠の仕掛けが露見する。ヴァリスは、自らの主の肉体をテレポートの『座標』として利用したのだ。空間が入れ替わったその一千分の一秒の間に、従者は安全な場所で自身の肉体を複製し、先触れの背後から鎖の連射を放ったのだった。


 鋼の鎖がグンダーの防御を打ち砕き、地震の如き力で彼を後方へ弾き飛ばした。虚空へと投げ出され、ブーツの下に支えを失った精霊は、深淵の底知れぬ暗闇へと真っ逆さまに墜落していった。

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