第6話 原作のラスボスを殺すつもりが……
その老人は、どこにでもいる善良な人だった。
山あいに建つ一軒の民家。年季の入った木造の家には、長年使い込まれた家具が並び、縁側には丁寧に手入れされた鉢植えが置かれていた。老人はそこで1人暮らしをしているらしい。私が訪ねたときも、彼は見ず知らずの私を警戒するどころか、温かいお茶を出してくれた。
「こんな山奥まで大変だったでしょう」
穏やかな声だった。人を疑うことを知らないような、優しい笑顔。こんな人が悪魔に狙われる理由なんて、どこにもないはずだった。
だからこそ、私は目の前の老人から目を離せなかった。
老人は、湯飲みを持つ手を止めて、私を見つめている。
「どうしたんだい? そんなに怖い顔をして」
「……おじいさん。1つ、聞いてもいいですか」
「なんだい?」
「あなたは、本当におじいさん本人なんですか?」
老人の笑顔が止まった。
数秒の沈黙。
やがて、老人は湯飲みを置き、心底意外そうに目を見開いた。
「……へえ?」
その声は、さっきまでの穏やかな老人のものとは違っていた。
「驚いたな。君には分かるのかい?」
背筋が冷たくなった。
やはり、そうだった。
目の前にいるのは善良な老人ではない。老人の肉体を乗っ取った悪魔。原作ゲームの隠しルートで姿を現す、すべての元凶。
メフィスト・ワルツ。
「どうして分かった? この老人の記憶も、仕草も、声も、すっかり自分のものにしたつもりだったんだが」
「……」
私は老人の目を見据えた。
老人の顔は穏やかなままだった。口元には柔らかな笑みが浮かんでいる。けれど、その目の奥にあるものは、人間のものではなかった。
他人の苦しみを楽しみ、絶望を眺め、壊れていく心を何よりも愛する存在。私が99回の人生を繰り返す中で、いつか倒さなければならないと考えていた敵が、今、目の前にいる。
「君は面白いね。訳知りなのは分かった。普通の人間なら、私が誰なのか気づくことすらできないのに」
「その人を解放しろ」
「それはできない相談だなあ。この老人の体は、今の私にとって実に都合がいいんだ。誰からも警戒されない。誰からも疑われない。善良なおじいさんムーブ中なんだ」
老人は私の左腕を見た。
「分かっているんだろう? 私を殺すには、宿主ごと消し飛ばすしかない」
左腕が痛んだ。
埋め込んだ下級悪魔の核。私はその力を暴走させ、自分ごとメフィストを吹き飛ばす事も考えた。成功する保証はない。失敗すれば、私だけが死ぬかもしれない。それでも、ほかに方法がないのなら、やるしかないと思っていた。
だが、目の前にいるのは老人の体を奪ったメフィストだ。
この老人を殺すわけにはいかない。
悪魔を倒すために、何の罪もない人を犠牲にする。そんなことをしてしまえば、私はいったい何のために戦っているのか分からなくなる。
「さあ、どうする? 君は自分の命を捨てることには慣れているようだけど、罪のない人間を殺す覚悟はあるのかな?」
何も言い返せなかった。
そんな覚悟はない。
私は99回の人生で、何度も自分の命を犠牲にしてきた。自分が死ねば誰かが助かるのなら、それでいいと思っていた。だが、今回ばかりは違う。私が死ぬだけでは済まないのだ。
この老人を巻き込むことはできない。
「……卑怯者が」
「褒め言葉として受け取っておこう」
メフィストは立ち上がり、私の肩を軽く叩いた。
「安心したまえ。今すぐ君を殺すつもりはないよ。せっかく面白いものを見つけたんだからね」
その手が私の左腕に触れた。
「人間が自分の体に悪魔の核を移植するなんて、普通は考えない。君はいったい何者なんだい?」
メフィストの興味が、老人の体を通して私へと向けられる。
「……ただの用務員だよ」
「ははっ! それは面白い冗談だ!」
老人が声を上げて笑った。穏やかな老人には似つかわしくない、楽しげで、底意地の悪い笑い声だった。
「まあいい。だったら、もっと近くで観察させてもらおうじゃないか」
その瞬間、体が動かなくなった。見えない鎖で縛られたかのように、手足が硬直する。私は歯を食いしばり、左腕に埋め込んだ核へ意識を集中させた。魔力を暴走させる。老人を巻き込まずにメフィストだけを殺す方法がない以上、せめて抵抗するしかない。
だが、メフィストは私の考えを見透かしたように笑った。
「おっと。自爆は駄目だよ。せっかく見つけた面白いおもちゃを、こんなところで壊すわけにはいかないからね」
老人の手が私の胸に触れた。全身を冷たい何かが駆け抜けた。
「ぐっ……!」
呼吸が止まる。心臓を直接つかまれたような圧迫感に、私は膝をつきそうになった。けれど、倒れることすら許されなかった。私の体が勝手に姿勢を正し、両腕を持ち上げる。
何が起きているのか、理解したくなかった。
メフィストの手が、私の体を通り抜けているような感覚があった。肉体の内側に、異物が入り込んでくる。意識の奥深くへ、黒い影が侵入してくる。
「やめろ……! 私の体に入るな!」
「嫌だなあ。そんなに怒らなくてもいいじゃないか。君の体を壊すつもりはないよ。むしろ、大切に使ってあげるさ」
声が遠ざかっていく。
いや、違う。
私の意識が、体の奥へ押し込まれているのだ。
指先の感覚が消えた。腕を動かそうとしても動かない。声を出そうとしても、喉が反応しない。視界だけは残っているのに、目の前の光景が自分のものではないように感じられた。
そして、私の口が勝手に開いた。
「これはなかなか居心地がいい」
聞こえてきたのは、メフィストの声だった。私は、自分の体を乗っ取られたのだ。
「おい……、返せ……!」
心の中で叫ぶ。だが、声は届かない。体の支配権は完全に奪われていた。私は自分自身の内側に閉じ込められ、目の前の景色を眺めることしかできない。
メフィストは私の手を握ったり開いたりしながら、満足そうにうなずいた。
「……なるほど。にわかには信じがたいが、君は99回も人生を繰り返しているのか。そしてこれが最後のチャンスであると。面白い。君は本当に面白いね」
老人の体が、床に崩れ落ちた。
「おじいさん!」
私は叫んだ。だが、私の口から声は出ない。
「安心したまえ。死んではいないよ。少し眠っていてもらうだけさ」
老人の胸が、かすかに上下していた。
よかった。
しかし、私の体を支配する悪魔は、そんな私の気持ちを見透かしているかのように笑った。
「さて、せっかく君の体を手に入れたんだ。少し遊んでみようか」
メフィストは立ち上がり、窓の外へ目を向けた。
「君が大切に思っている彼女たちは今、何をしているのかな?」
蓮城フレイア、氷室エルサ、紫電レイ。
3人の顔が脳裏に浮かんだ。
まさか……。
嫌な予感がした直後、メフィストが指を鳴らした。
家の外から、何かが壊れる音が響いてくる。続いて、獣のようなうなり声。窓の向こうに目を向けると、庭先に黒い影が蠢いていた。
黒い肉の塊に歪んだ手足と鋭い爪が生えた、下級悪魔たちだった。
メフィストが手を軽く振ると、悪魔たちは一斉に暴れ始めた。庭の鉢植えを踏み潰し、門を破壊し、民家の壁へと体当たりを繰り返す。悲鳴のような咆哮が山あいに響き渡り、静かな集落が騒然となった。
「何をするつもりだ……!」
私は心の中で叫んだ。メフィストは用務員である私の顔で、楽しそうに笑った。
「決まっているだろう? お客さんを呼ぶのさ」
その言葉に、私は息をのんだ。
「君の大切な3人の少女たちをね」
フレイアたちは、悪魔が現れれば必ず駆けつける。誰かが危険にさらされていると知れば、自分の身を顧みずに助けようとする。そういう子たちだ。
だからこそ、メフィストは彼女たちを呼び寄せようとしている。
「やめろ……! 彼女たちを巻き込むな!」
必死に叫んでも、私の口は動かない。
メフィストは、私の体を通して窓の外を眺めていた。
「さあ、一般市民である老人を守れず、悪魔に殺される用務員を前に、どんな曇った顔を見せてくれるのかな。君が大切にしている少女たちは」
老人の体を奪い、私の体まで乗っ取った悪魔は、次の獲物を待つように笑っていた。
私は自分の体の中で、ただ抵抗を続けることしかできなかった。




