夏希を救う方法
ちょっと大事な話かも?ぜひ読んでください!
キッチンへと足を踏み入れると、ちょうど買い物袋を提げた母親が玄関から上がってきたところだった。
「ただいま涼太。今日は少し帰りが早いのね」
「……あ、おかえり。そうだ……今日は夜、俺が作るよ」
俺がそう言うと、母親は少し驚いたように目を丸くし、それから慈しむような微笑みを浮かべた。
「あらそう? 珍しいわね。頼りにさせてもらうわ」
母親の視線は俺の背後――ちょうど夏希が立っている場所を何の疑いもなく通り抜けていく。本当に見えていないんだ。俺のすぐ隣で、夏希がワクワクしながらキッチンの調理台を覗き込んでいるのに。その事実は改めて胸に小さなチクリとした痛みとなって突き刺さった。
夏希はそんなことなど気にする様子もなく、鼻歌を口ずさみながら冷蔵庫の中身を指差してくる。
「たくさん食べたいな〜」
俺は夏希の指示に従うように野菜を取り出し、まな板に向かった。包丁を握る手つきはあの日のままのはずなのに、不思議と心が軽かった。その横で、母親が淹れたてのお茶を飲みながら俺の様子を不思議そうに眺めている。
「……ねえ、涼太」
「ん?」
「なんか今日は少し雰囲気が違うわね」
母親の声に俺の手が止まった。夏希がいなくなったあの日から、俺はいつも下を向いて、誰とも目を合わせず、ただ息をしているだけの時間が続いていた。母さんはそんな俺をずっと心配していたのだろう。
「……そうかな」
「ええ。なんだかとても明るい顔してる。ずいぶん長い間、そんな表情を見ていなかった気がするから」
母さんの言葉に俺は思わず隣に立つ夏希の方を見た。夏希はキッチンのカウンターに腰掛け、俺のことを見つめながら、八重歯を覗かせてとびきりの笑顔を向けてくれている。俺の顔が晴れているのはきっと今の俺の視界の中に、かけがえのない宝物が戻ってきてくれたからだ。
「……いいことあってさ」
俺がそう言うと、母親は満足げに「そう。それはよかった」とだけ言って、リビングへと戻っていった。
母さんの足音が遠ざかり、リビングにテレビの音が微かに流れてくると、キッチンには再び俺と夏希だけの時間が戻ってきた。
「涼太、顔!ニヤニヤしすぎだよ」
夏希がカウンターの上で足をブラブラと揺らしながら、俺をからかうように笑う。俺は慌てて包丁を動かすスピードを上げたが、口元に浮かぶ笑みまでは消せなかった。
「ニヤニヤ……!?してない……だろ」
「してるもん。おばさんにもバレバレだったじゃん」
夏希は俺の横にぴたりと寄り添い、まな板の上の野菜を覗き込む。彼女の肩が触れるたび、その冷え切ったはずの心にじんわりと確かな温もりが溶け込んでいく。
「ねえ涼太、包丁、気をつけてね?今の涼太、ふわふわしてて危なっかしいから」
そう言って、夏希は俺の左手をそっと自分の小さな手で覆った。食材を押さえる俺の手の上に、彼女の透き通るような白い指が重なる。それに冷たさはなく、キッチンに満ちる野菜の瑞々しい香りと、どこか懐かしい温もりを伴っていた。
「……夏希は幽霊になっても変わらないな」
「幽霊じゃないってば!『おまけ』の夏希ちゃんです!」
彼女は膨らませた頬を俺の肩にすりつけるようにして、茶目っ気たっぷりに笑う。こうして二人で夕飯を作るなんて、いつぶりだろう。いつもはもっと騒がしくて、部活帰りに「お腹すいた!」と俺の分までつまみ食いしようとして、俺と小競り合いになって……。
そんな日常がいかに奇跡のような時間だったのかを、失った半年間という絶望が嫌というほど教えてくれた。
⭐︎
「いただきます!」
食卓にはありふれた家庭料理が並んだ。俺が作った野菜炒めに、母さんが買ってきた総菜。いつもなら、俺一人で静かに咀嚼音だけが響く味気ない夕食だ。けれど今夜は向かいの席に夏希が座っているだけで、その風景はまるで別世界のように華やいで見えた。
「んんっ、おいしい!」
夏希は箸を動かし、勢いよく口に運んだ。咀嚼するたびに喉仏が小さく上下する。本当なら、死者である彼女に胃も消化機能もないはずだ。けれど、彼女が食べると決めた瞬間、そこには確かに"食事"という行為が成立していた。
「……味するのか?」
俺が尋ねると、夏希は目を丸くして、それからふにゃりと柔らかく笑った。
「うん。……ちょっと薄味だけど涼太の味だ。……あ、もしかして私のこと思って減塩にした?」
「……前と同じだ」
「あははっ、そっかそっか」
俺たちのやり取りに隣の部屋でニュースを見ていた母さんが「何か言った?」と声をかけてくる。
「……いや。なんでもない」
そう答えて視線を戻すと、夏希は箸を休めて、じっと俺を見つめていた。その瞳の奥にはさっきまでの茶目っ気とは違う、どこか深く静かな感情が揺れている。
「……ふう。ごちそうさまでした!」
夏希はパンと手を合わせると、満足げに胃のあたりをポンと叩いた。俺も箸を置く。彼女が隣にいるだけで、冷めていたはずの食事がこんなにも温かく感じられるなんて。
「あー、お腹いっぱい!さてと。次はどうする?もう寝るには早いよね?」
夏希がいたずらっぽく小首をかしげる。俺は食器を片付けながら「何か映画でも見る?」と提案しようとした。だが、その前に夏希がニヤリと笑って俺の袖を引いた。
「……ねえ涼太、先にお風呂入っちゃおっか一緒に入る〜?」
「はっ!?入らないよ……!!」
予想外の言葉に俺は手に持っていた茶碗を落としそうになりながら全力で否定した。顔がカッと熱くなるのが自分でもわかる。
「え〜?入ろーよ!涼太の背中流してあげるのに〜。小さい頃は一緒に入ったのになぁ〜?」
「それは小さい頃の話だろ……!本当……そういうとこ変わんないな!」
「ふふん。涼太が反応してくれるの楽しいんだもん。ね、いいでしょー?」
「ダメ!絶対ダメ!あ、おい!俺が入ってる間、絶対に覗くなよ!」
俺は真っ赤になった顔を隠すようにして、逃げるように風呂場へと駆け込んだ。背後で夏希のケラケラという楽しそうな笑い声がリビングに響いていた。
脱衣所で服を脱ぎ、湯気の充満する風呂場に一人で入る。熱い湯船に肩まで浸かると、身体の芯からじわじわと力が抜けていくような感覚があった。
一人。さっきまでの賑やかな時間が嘘のように風呂場には静寂だけが支配している。湯船の縁に頭を預け、天井を見つめながら、俺は今日という一日を反芻した。
午前中はただの虚無だった。それが今、この瞬間、隣に夏希がいる彼女が笑っている。あの日、俺の目の前で消えてしまったはずの笑顔が確かにそこにある。
……でも。
「……やっぱり変だよな」
自分の声を湿った空気に溶かすように呟く。いくら『おまけ』だとしても、死んだはずの幼馴染がこうして当たり前のように家で過ごしている。母さんにも見えていない。夏希自身、自分の死をそして別れの時を冷静に受け入れている。
まるで、神様が俺にくれた「猶予期間」だ。8月31日という期限。その日になったら、彼女は本当に消えてしまうのだろうか。
「……夏希は大丈夫かな」
あんなに明るく振る舞っているけれど、本当は怖いんじゃないのか。俺の前でだけ無理をして笑っているんじゃないか。
そう考えると、胸の奥がチリチリと痛んだ。彼女が俺のために演じてくれている「いつもの夏希」を俺もまた、笑顔で守り通さなきゃいけない。
「……夏希を救う方法」
湯船の中で、ぼんやりと自分の指先を見つめる。もしこの8月31日という期限が"決まり"なのだとしたら。それを覆すことはできるんだろうか。
一度は死んだ彼女がこうして俺の目の前に戻ってきた。それは理屈じゃ説明できない奇跡だ。ならばその奇跡がもう一度――あるいは永遠に続くことだって、どこかにあるかもしれない。
「……バカか俺は」
自嘲気味に鼻で笑う。そんなことばかり考えて、また下を向いていたら、夏希が帰ってきた意味がなくなる。夏希は"今"を全力で楽しむために、わざわざ俺の元へ来てくれたんだ。それをもっと先までなんて欲張ったら、彼女のその真っ直ぐな想いを汚すことになる気がした。
俺は鏡を見つめた。そこに映る自分は確かに以前より少しだけ生気に満ちている。夏希と一緒に過ごす1ヶ月。その間に俺が見つけなければいけないのは「彼女を留める方法」じゃない。彼女が「帰ってきてよかった」と思えるような、そんな夏にすることだ。
湯船から上がり、身体を拭いて脱衣所を出ようとした時、ふと、湯気越しに誰かが立っているような気がした。振り返る。そこには誰もいない。ただ脱衣所の空気がほんの少しだけ冷えたような気がした。
「……夏希?見てるのか?」
俺の問いかけに返事はない。いたずらっ子の彼女なら、どこかの影から隠れて俺の反応を楽しんでいるのかもしれない。あるいは今の言葉を聞いて、どこかで笑っているのかもしれない。
俺はバスタオルを腰に巻き、冷えた空気を吸い込んで、強く息を吐いた。
「……覗いてないよな」
壁の向こうにいるであろう夏希に向かって呟くと、ふいに脱衣所の扉の向こうからポンポンと、小さな音がした。誰かがドアを控えめに叩いているような音。
「……涼太、早く出てきてよ。寂しい」
ドアの向こうから聞こえたのはさっきまでの茶目っ気ある声ではなく、どこか心細げな、消え入りそうな呟きだった。心臓が大きく跳ねる。俺は急いで着替えを済ませ、扉を開けた。廊下の明かりが少し薄暗く見える。
そこに夏希が立っていた。先ほどまで俺をからかっていた笑顔は消え、彼女は俺の顔を見るなり、またいつものひまわりのような笑顔を浮かべた。
「おっそい!涼太、のぼせたんじゃない?」
そう言って俺の腕を引こうとするその指先が先ほどよりも少しだけ、冷たく感じた。
……8月31日。その期限は刻一刻と、確かに彼女の体温を奪っていくのかもしれない。俺は夏希の手をしっかりと握り返した。
たとえ最後が残酷だとしても、今はただ、この手が離れないように。
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