やり残したこと
続きです!読んでください!
見慣れた住宅街を抜け、俺の家に着いた。玄関を開け、仕事に出ている両親のいない静かな家に「ただいま」と小さく呟く。靴を脱いで廊下を進み、階段を上ろうとしたところで、後ろからペタペタと足音がついてきていることに気がついた。振り返ると、夏希が当たり前のような顔をして俺の背中についてきている。そのまま二階に上がり、自分の部屋のドアノブに手をかけたところで、俺はたまらず口を開いた。
「……夏希、俺の部屋に来んの?」
「うん。だって、家帰っても私に気づかないし」
夏希はきょとんとした顔でそう言うと、俺の脇をすり抜けて部屋の中へと入っていった。何の気なしに返ってきたその言葉に俺はハッと息を呑んだ。
『他の人からしたら、私はいないもの』
先ほど彼女が言っていたルールの残酷さをここに来てようやく実感する。姿が見えない。声も聞こえない。それはつまり、夏希を誰よりも愛していた彼女の家族でさえも、例外ではないということだ。
部屋に入った夏希は俺のベッドの縁にちょこんと腰を掛けた。少しだけ肩を落とし、自分の膝の上を見つめるようにしてポツリと呟いた。
「顔だけは見てきたよ」
「え……」
「涼太のところに来る前にね、自分の家に寄ってきたの。お母さんもお父さんも……まだ虚な目をしてた」
夏希の両親の姿が脳裏によぎる。葬儀の日、立っているのもやっとという様子で声を枯らして泣き崩れていたおばさんと必死にそれを支えるおじさん。1人娘を突然理不尽に奪われたのだ。あの冬の日から、2人の時間もまた、止まったままなのだろう。目の前に愛する娘がいるのにそれに気づくことも、その声を聞くこともできない。あまりにも残酷すぎる現実だった。
胸をきつく締め付けられるような痛みに俺が気の利いた言葉一つかけられずにいると、夏希はそっと目を伏せた。
「……大好きだよ。ごめんね。ありがとうって」
小さく震える、消え入りそうな声だった。
「届かないって分かってたけど……ちゃんと伝えてきた」
そう言って顔を上げた夏希は無理に作ったような、どこか泣き出しそうな笑顔を浮かべていた。悲しみに暮れる両親の背中に向かって、誰にも気づかれないまま1人で言葉を投げかけてきた彼女の孤独を想像して、俺はギリッと奥歯を噛み締めた。
重苦しい沈黙が部屋に落ちかけた、その時だった。パンッ!と夏希が顔の前で勢いよく両手を叩いた。
「さっ!せっかく帰ってきたんだし、しんみりしたのはここで終わり!」
ベッドから勢いよく立ち上がった夏希は先ほどまでの泣き出しそうな顔を嘘のように拭い去り、いつもの太陽みたいな笑顔をパッと咲かせた。あまりに突然の切り替えの早さに、俺は呆気にとられて瞬きを繰り返す。
「私が帰ってきた理由はただ1つ!」
夏希はビシッと俺の鼻先を指差して、えっへんと胸を張った。
「涼太とやり残したことを全部やるため!」
そして、自分で「ばばん!」と効果音を口ずさみながら、両手を大きく広げてみせる。
「そこで涼太にはこの夏休み、私がやりたいこと全部に付き合ってもらいます!休む日なんて1日もないからね?覚悟してよ?」
悪戯っぽく笑いながら、ぐいっと顔を近づけてくる。その強引で自分勝手なだけど俺を暗い海の底から力強く引っ張り上げてくれる彼女の眩しさに、胸の奥で凍りついていた氷がまた一つ溶けていくのを感じた。
悲しい現実も、寂しさも、全部自分の中に飲み込んで、彼女は俺の前で「いつもの夏希」でいようとしてくれている。だったら、俺がウジウジしている場合じゃない。
「……よし!分かった!」
俺は真っ直ぐに夏希の目を見て、深く頷いた。
「夏希のやりたいこと、なんだって全部付き合う!休みなんか1日もいらないよ」
俺の答えを聞いた夏希は今日1番の、ひまわりのようにパッと弾ける笑顔を見せた。
「よーし!じゃあさっそくこの夏休みの計画を立てよう!」
夏希はそう元気よく宣言すると、俺の学習机から勝手にノートとボールペンを引っ張り出してきた。そして、ベッドの横のカーペットにぺちゃんと座り込み、バンバンと隣の空いたスペースを叩いて俺を呼ぶ。
俺が隣に腰を下ろすと、夏希は真っ白なページの1番上に、大きな文字で『夏休みやりたいことリスト!』と書き込んだ。
「まずはやっぱり海でしょ!それから夏祭りにも絶対に行きたい!りんご飴食べて、射的やって、型抜きもして……」
「あと……花火も」
「そうそう!大きな打ち上げ花火、2人で見よ!」
夏希のペンが軽快な音を立ててノートの上を滑っていく。二人で頭を寄せ合い、思いつく限りの楽しそうなことを片っ端から書き出していった。遊園地に行く、美味しいかき氷屋を探す、ひまわり畑に行く、スイカ割りをする……。
少し丸みを帯びた夏希の字で埋まっていくページを見ていると、本当にただのありふれた高校生の夏休みが始まるような気がしてきた。半年前の事故なんて最初からなくて、俺たちは当たり前のように一緒に大人になっていくのだと、そんな錯覚に陥りそうになる。
ふと、ノートの隅に書き込まれた『8月31日』という日付に目がいった。やりたいことを全部詰め込んだ、その計画表のゴール。
――夏希は……本当にこの日にまたいなくなるのか?
そう心の中で呟いた瞬間、せっかく引っ込んでいた涙が再び熱を持って頬を伝いそうになった。ダメだ。ウジウジしないって、夏希のやりたいことに全部笑顔で付き合うって決めたばかりじゃないか。俺は必死に奥歯を噛み締め、両目にぐっと力を入れて涙を堪える。
しかし、長い間一緒にいた幼馴染の目を誤魔化すことなんてできなかった。ピタッとペンを動かす手を止め、夏希はノートに落としていた視線をそっと俺に向けた。
「……うん。その日が最後」
俺の心の声が聞こえたかのように夏希は静かに、誤魔化すことなくはっきりと言った。その声の響きに俺の胸がギュッと締め付けられる。
「でもね」
俯きかけた俺の顔を覗き込むようにして、夏希は続ける。
「本当だったらこんなチャンス二度となかったんだよ?もう一度涼太と話せるなんて、一緒に夏休みを過ごせるなんて思ってなかった。だから最後の日まで存分に楽しむの!1秒だって無駄にしたくない!」
夏希は俺の肩をポンと軽く叩き、いつものように屈託なく、弾けるように笑ってみせた。
「だから涼太も全力で楽しんで!ウジウジしてたら置いてっちゃうからね?」
強がりかもしれない。本当は夏希だって、怖くて寂しいのかもしれない。それでも、彼女は俺のために笑ってくれている。この限られた時間を悲しいだけの思い出にしないために。俺は堪えていた涙をぐっと飲み込み、彼女の目を見返して力強く頷いた。
「よーし!じゃあ今から夏希と涼太の夏休み大作戦スタート!」
夏希は勢いよく立ち上がると、空に向かって高らかに宣言した。彼女の明るい声が俺の狭い部屋の空気を一気に塗り替えていく。さっきまで重く垂れ込めていた湿っぽい気分なんて、今の彼女の圧倒的な生命力の前では霧散するしかなかった。
「まずは明日!明日はね、朝から商店街に行って、一番美味しいかき氷を食べに行こう!」
夏希は楽しそうにもう明日のことばかり考えている。その無邪気な姿を見ていると、8月31日なんて、まだ気の遠くなるような先の話のように思えてくる。
「分かった。付き合うよ」
俺が笑って答えると、夏希は「約束だよ!」と力強く親指を立てた。
彼女のその指先が夕暮れの光を受けてふわりと透けた気がしたけれど、俺はあえてそこには触れなかった。今はただ、この瞬間、隣に彼女がいてくれるという事実だけで十分だった。
机の上にはこれから書き足されるはずの思い出たちが、真っ白なページの向こうで待っている。どんなに短い夏だとしても、どんなに残酷な結末が待っていたとしても、俺はこのノートを世界で一番幸せな記憶で埋め尽くしてやろうと心に誓った。
「あ、ねぇ涼太。お腹すいた。なんかある?」
計画を立て終えた途端、夏希が急に現実的なことを言い出した。死んでから何も食べていないはずなのに相変わらず食いしん坊なところは変わらないらしい。
「なんか作ろうか?」
「作って!涼太の作るやつ久しぶりに!」
夏希が嬉しそうに俺の腕に抱きついてくる。その柔らかな体温と、心地よい重み。
二度目の夏が始まる。もう涙は拭いた。これからは最後の1秒まで、死ぬほど笑い転げてやるんだ。俺は夏希の手を引いて、一階のキッチンへと向かった。
窓の外ではようやく夜の気配が忍び寄ってきていた。七月の終わり、俺と夏希だけの、最高に熱くて切ない夏休みの幕開けだった。
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