おまけ
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「え……?え?……な、何で夏希……?」
頭の中が真っ白になった。あまりの暑さにとうとう俺の脳がイカれてしまったのだろうか。それとも、強すぎる未練が見せている残酷な幻覚か。俺が間抜けな声を出して呆然としていると、夏希は「あはは」と小さく笑って、アスファルトに膝をつく俺の目の前にしゃがみ込んだ。
「相変わらず泣き虫だなあ。高校生にもなって、道端で大号泣とか恥ずかしくないの?」
からかうような口調。ふわりと鼻をかすめる柑橘系のシャンプーの匂い。太陽を背負う彼女の顔は逆光になって少し暗いけれど、それでも、その瞳が俺をまっすぐに捉えているのがわかる。幻覚なんかじゃない。
「ほんとに夏希……なのか……?」
震える右手を恐る恐る伸ばす。もし触れて、空気を掴むだけだったらどうしよう。この光の幻がシャボン玉みたいに弾けて消えてしまったら。そんな恐怖で指先が小刻みに震える俺の手を夏希は両手で包み込むように、ギュッと握りしめた。
「っ……」
温かかった。夏の熱気を吸い込んだような、じんわりとした確かな体温。そして、トクトクと微かに脈打つ小さなリズム。かるたの練習でテーピングを巻いていたせいで少しだけ荒れていたあの懐かしい指の感触が、確かに俺の手の中にある。
「……触れる」
「うん。触れるよ」
「生きて、る……?」
「ううん。死んでるよ」
夏希はあっけらかんと、まるで「今日の晩ご飯はカレーだよ」とでも言うような軽さで答えた。
「じゃあ……なんで……」
「あのね」
夏希は俺の手を握ったまま、少しだけ顔を近づけて内緒話をするように声を潜めた。
「神様がちょっとだけ『おまけ』をくれたの」
「……おまけ?」
「そう。私がこの世界に戻ってこられる特別なおまけ」
彼女はそう言うと、俺の手を強く引いて立ち上がらせた。俺の膝についた砂をパンパンと払ってやりながら、夏希は眩しそうに青空を見上げる。
「ルールは二つ」
夏希は人差し指を立てて、俺の目の前に突き出した。
「一つ目。私の姿が見えて、声が聞こえるのは、世界中で涼太だけってこと。他の人からは私はいないもの。だから、外で急に私に話しかけたら、ただの独り言を言ってるヤバい奴になっちゃうから気をつけてね」
悪戯っぽくウインクをして、彼女は俺の顔を覗き込む。俺はその現実離れした言葉を半分夢の中にいるような気分で聞いていた。世界中で、俺だけ。
「……二つ目は?」
俺が問い返すと、夏希は立てた指を二本に増やした。その指先がほんの一瞬だけ、夏の強烈な光に溶けるようにして淡く透けたような気がした。
「このおまけには期限があるの」
「期限……」
「うん。8月31日私は今度こそ本当に消えちゃう。おまけの時間はそこでおしまい」
夏希はそう言って、またいつものように屈託なく笑った。八重歯が覗く、俺がずっと見たかった大好きな笑顔だった。ジリジリと、蝉の声が世界を満たしていく。
普通ならこんな非科学的な話、到底信じられるはずがなかった。だって夏希は死んだのだ。だけど、どうしても会いたかった、ずっと焦がれていた大好きな夏希を前にして、そんな常識は一瞬でどうでもよくなった。
幽霊だろうが、熱を帯びた脳が見せている残酷な幻覚だろうが、神様の気まぐれだろうが、なんだっていい。世界の理屈も正しい理論も、取り返しのつかない現実も今の俺には何の意味も持たなかった。
ただ夏希がここにいる。俺の目の前で、あの頃と同じように笑ってくれている。それだけでよかった。
「涼太……?」
不思議そうに俺の顔を覗き込む夏希の姿が一瞬でぐにゃりと歪んだ。乾きかけていたはずの目から、再び熱いものがボロボロと溢れ出す。
俺はもう我慢するのをやめて、大きく両腕を伸ばし、目の前に立つ夏希の細い体を力強く抱きしめた。
「わっ……ちょっと涼太っ?」
突然のことに夏希が短く声を上げる。でも絶対に離したくなかった。もう二度と、あの冬の日のようにこの手を離してなるものか。俺は彼女の温かい肩に顔を埋め、しがみつくように腕に力を込めた。
「ごめん……っ、ごめん、夏希……!」
ずっと胸の奥底でドロドロに渦巻いて、俺の心を殺し続けていた後悔を、堰を切ったように吐き出す。
「大好きだから……本当に夏希のことが本当に好きなんだ……!」
声が震える。涙で息が詰まる。それでも言葉を止めることはできなかった。
「ただの幼馴染なんかじゃない……っ、ずっと誰よりも大切だったのに……本当にごめん……」
あの日、変な意地を張って言えなかった言葉。一番伝えなきゃいけなかった本当の想いをみっともなく泣きじゃくりながら全てぶつけた。
どれだけ俺が身勝手で、どれだけ俺が最低だったか。罵られても、突き飛ばされても文句は言えない。そう思って身を固くした俺の背中にそっと、温かい手が回された。
「……うん」
夏希は俺を突き飛ばさなかった。代わりに、迷いのない優しい手つきで俺の背中を抱き返し、泣きじゃくる俺の頭を小さな子供をあやすように、ゆっくりと、何度も愛おしそうに撫でてくれた。
「分かってる」
耳元であの頃と少しも変わらない、優しい声が響く。
「全部分かってるから。涼太が私のこと、大好きだってことくらい」
夏希の指先が髪をすくうたび、柑橘系の香りがふわりと舞った。ジリジリと焼け付くような真夏の太陽の下、俺はただ子供のように声を上げて泣き続け、夏希は俺の気が済むまで、文句一つ言わずにずっとその頭を撫で続けてくれた。
⭐︎
どれくらい泣いていただろうか。ようやく涙が引っ込み、荒くなっていた呼吸が落ち着きを取り戻す頃には高く昇っていた太陽は少しだけ西へと傾き始めていた。泣き腫らして真っ赤になった目元をごしごしと袖で乱暴に拭う俺を見て、夏希は「ふふっ」と優しく笑った。
それから俺たちはかつて毎日そうしていたように、2人並んで帰り道を歩き出した。ジリジリとアスファルトを焼く熱気も、耳を劈くような蝉の声も、二人で並んで歩いているだけで、どこか愛おしい夏のBGMのように思えた。
隣を歩く夏希の歩幅は俺の記憶にある通り、少しだけ小さくて歩くペースが遅い。時折、ふわりと風に乗ってあの柑橘系の匂いが香る。
「……本当に夏希なんだな」
隣を歩く彼女の横顔をまじまじと見つめながら、俺はポツリとこぼした。手のひらに残る温もりも、目に映る姿も確かなのにまだどこか夢の中にいるようなふわふわとした心地だった。俺の言葉に夏希はくるりとこちらを向き、少しだけ背伸びをして顔を近づけてきた。
「本当に夏希だよ〜?ほらかわいい顔もあの時のまんまでしょ?」
顔の横でピースサインを作りながら、ふふん、と得意げに笑う。
いつもならここで俺が「はいはい。かわいいかわいい」と軽くあしらって、夏希がむくれて言い返してくるのが、俺たちのお決まりのパターンだった。だけど、今の俺にそんな軽口を叩く気なんて欠片もなかった。二度と後悔なんてしたくない。これからはもう絶対に強がりなんて言わないと誓ったんだ。
「……かわいいよ」
俺は立ち止まり、夏希の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「ほんとにかわいい」
ずっと見たかった笑顔。ずっと触れたかった温もり。心の底から出た、嘘偽りのない本音だった。
「ちょ……えっ……」
俺が真顔で即答すると、冗談めかして笑っていた夏希の動きがピタッと止まった。大きく見開かれた瞳が揺れ、みるみるうちに白い頬から耳の先までリンゴのように真っ赤に染まっていく。
「あ、えっと……その……」
明らかに動揺した様子で視線を泳がせると、夏希は慌てて俺から顔を背けた。少しだけ早足になって俺の前を歩き出し、照れ隠しのように両手でパタパタと自分の顔を扇いでいる。
「こんな真面目に言われたことないぞ……?」
前を向いたまま、ボソボソと呟く小さな声が聞こえた。赤くなったうなじが見えて、なんだか急に俺まで気恥ずかしくなってくる。
「全部伝えるよ。もう後悔したくないから」
俺がそう言って少し早足で隣に並ぶと、夏希は顔を真っ赤にしたまま、俺の腕を軽く小突いてきた。永遠に失われてしまったと思っていた、他愛のない、けど何よりも大切でかけがえのない時間。
終わりの時間が決まっている残酷な魔法だとしても、俺たちの2度目の夏はこうして静かに動き出した。
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