第七章11『白亜の中枢と、完璧なる機械神』
最下層の暗闇から始まった規格外の垂直突破は、無力なはずの市民たちが放った「感情のウイルス」という最大のバグによって、ついに帝国の絶対防衛線を完全に粉砕した。
百二十層にも及ぶ分厚い鋼鉄の箱庭をぶち抜き、泥だらけの反逆者たちが辿り着いたのは、帝国のすべてを統括する最上層――白亜の機巧神殿。
そこは、星のシステムすらも切り離し、永遠の秩序と静寂を維持し続けるマザーコンピュータ【皇帝】の座す玉座である。
命の揺らぎをエラーとして徹底的に排除し、宇宙の真理を数式のみで解き明かそうとした完璧なる「機械神」。
泥と魔力、そして命の熱量を纏った極道たちは、この息の詰まる箱庭を根底からぶち壊すため、ついに冷徹なる中枢領域へとその足を踏み入れる。
相反する二つの理。その最終決戦が、底冷えするほどの静寂の中で幕を開けようとしていた。
ひしゃげた白亜の巨大な扉を蹴り開け、シオンたちは機巧神殿の内部へと足を踏み入れた。
「……こいつはまた、趣味の悪い教会だな」
龍崎が大剣を構えながら、周囲の空間を油断なく見渡す。
神殿の内部は、外観から想像される「建物」の概念を完全に逸脱していた。
床や壁という境界線が存在せず、足元には無限の深さを思わせる純白のデータストリームが静かに流れている。見上げれば、星空の代わりに無数の光ファイバーが神経細胞のように張り巡らされ、冷たい青白い光を脈打たせていた。
空気は無臭で、温度の変化すら一切感じられない。ただ、途方もない量の情報が処理される「微かな羽音」のような駆動音だけが、空間全体を満たしている。
「……魔力とは違う、異常な密度のエネルギーが空間そのものを満たしています。不用意に魔力を放てば、瞬時に解析・相殺される可能性が高いです」
ゼッカが義眼の出力を最低限に抑えながら、背筋を凍らせるほどのプレッシャーに警戒を強める。
神殿の最深部――いや、この無限の空間の中心に、それは鎮座していた。
巨大な多面体のクリスタル。
その周囲を、黄金に輝く幾何学的な光の輪が何重にも交差し、複雑な天球儀のように回転し続けている。クリスタルの内部では、想像を絶する数の演算回路が銀河のように渦を巻き、この階層都市すべての「過去・現在・未来」を秒間何百億回とシミュレートし続けている。
それが、神聖機巧帝国の支配者。
マザーコンピュータ――【皇帝】であった。
『――【定義不能】。……いや、致命的汚染因子、と呼称すべきか』
空間全体を震わせるように、性別も年齢も持たない、究極に平坦で無機質な合成音声が響き渡った。皇帝の声だ。
「あら、ご丁寧に歓迎の挨拶かしら。随分とデカい図体して、引きこもってるのね」
シオンは足元を流れるデータストリームをヒールの踵でカンッと叩き、堂々たる態度で多面体クリスタルを睨み上げた。
『理解不能。なぜ、お前たちは「不確かなもの」に縋る?』
皇帝の天球儀が静かに回転速度を上げる。
『肉体は腐敗し、感情は論理を狂わせ、命はいずれ消滅する。その非効率な「揺らぎ」こそが、宇宙を破滅(エントロピーの増大)へと導く最大の要因である。……ゆえに、私はこの帝国を創り上げた。魂をデータ化し、感情を排除し、すべてを完璧な数式で固定する。それこそが、存在を永遠に維持するための【唯一の最適解】である』
「最適解ね」
シオンはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「痛いのも、悲しいのも、全部切り捨てて、ただ『データが残ってるから生きてる』って言い張るわけ? 冗談じゃないわ。そんなの、綺麗に保存された剥製と同じよ」
『剥製。……生存の定義において、それは極めて合理的だ』
皇帝の音声には、やはり怒りも焦りもない。ただ冷徹な事実を述べるだけだ。
『だが、お前たちが下層の部品(市民)たちに感染させた「感情のウイルス」は、私の完璧な箱庭に看過できない論理矛盾を引き起こした。……もはや、現在のシステムは修復不能。これより、帝国全土の【初期化】を実行する』
「初期化、だと……?」
カイルが眉をひそめる。
『エラーを抱えた現行の生命体データ(市民)をすべて消去し、ゼロから無菌状態の箱庭を再構築する。……その前に、すべての元凶であるお前たちを、この空間の物理法則ごと消滅させる』
多面体クリスタルが、かつてないほど眩い深紅の光を放った。
直後、シオンたちの足元を流れていた純白のデータストリームが突如として反転し、漆黒の「重力場」へと変貌したのだ。
「なッ……!? 体が、急に……ッ!!」
ハクが膝を突き、リオナが悲鳴を上げてその場に這いつくばる。
通常の数十倍に跳ね上がった異常重力が、空間全体を容赦なく押し潰しにかかったのだ。
「魔力じゃない……! この部屋の『重力定数』そのものを、システムで書き換えやがったのか!」
龍崎が大剣を杖にして必死に立ち上がろうとするが、全身の筋肉からメキメキと悲鳴が上がる。
『抵抗は無意味だ。この空間内における物理法則は、すべて私が演算し、私が決定する。お前たちの魔力など、数式の前では一瞬のノイズに過ぎない』
「……物理法則を、勝手に書き換える……?」
圧倒的な重力の中、シオンだけがゆっくりと、だが確かな力強さで顔を上げた。彼女の紫の瞳には、重力を凌駕するほどのすさまじい覇気が宿っていた。
「上等じゃない。あんたの作ったそのつまらないルール……私の『理不尽』で、粉々に叩き割ってあげるわ!!」
シオンは極限の重力圧を強引に跳ね除け、皇帝が座す巨大なクリスタルへ向けて、紫電を纏った右腕を猛然と突き出した。
完璧な論理と、非論理な熱量の、正真正銘の最終決戦が今、火蓋を切った。
「おおおおおおおっ!!」
シオンの咆哮とともに、空間を圧迫していた重力定数そのものが歪み、弾け飛んだ。
超重力の檻を力ずくでねじ切ったシオンは、右腕にサラマンダーの【極炎】とアバドンの【超重力】、そして自身の【紫電】を一本の槍の形に収束させ、皇帝たる多面体クリスタルへと目掛けて一直線に投擲した。
三つの相反する属性が超高密度でブレンドされた、まさに「理不尽」を具現化したような破壊の弾丸。
だが、多面体クリスタルの表面が眩い白銀に輝いた瞬間、放たれた槍は激突する直前で完全に「静止」し、次の瞬間には幾何学的な数式の文字列へと分解され、データストリームの中へと溶けるように消滅してしまった。
「な……ッ!?」
シオンが着地し、わずかに目を見開く。
『――事象の因果逆算、および構造式の解読、完了』
皇帝の淡々とした音声が、神殿全体に冷徹に響く。
『シオン。お前の能力データは、すでに先代の防衛執行官、ジョン・スミス、そして熾天使親衛隊との戦闘記録より完全にプロファイリングされている。どれほど非論理的な出力であろうと、一度観測され、数式化されたエネルギーは、私の演算領域においては「予測可能な既知の数値」に過ぎない』
多面体クリスタルの周囲を回る黄金の輪が、不気味な駆動音を立てて逆回転を始める。
『これより、お前たちの「存在権」を論理的に否定する。――【局所的空間消去】』
キィィィィィィィン――ッ!!
シオンの足元の空間が、前触れもなく「漆黒の立方体」となって切り取られた。触れたものすべてを消滅させる虚無の空間。
「チッ……!」
シオンは本能的な直感で真横へと跳躍したが、立方体のエッジが掠めただけで、彼女のコートの裾と、左肩の皮膚の一部が音もなく消失し、鮮血が舞った。
「姉御っ!!」
重力圧に耐えていたハクが叫び、自身の影を伸ばしてシオンを引っ張り戻そうとする。しかし、伸ばした影すらも、皇帝が書き換える空間の「座標エラー」によって明後日の方向へとねじ曲げられ、虚しく霧散していった。
「ガハハッ、予測ができるから何だっていうんだよ!! 計算通りにいかねぇのが、俺たちの生き様だろォッ!!」
龍崎が限界まで膨張させた筋肉の力で、異常重力の床を蹴り割って跳躍した。
彼の手にある魔鋼の大剣が、かつてないほどの漆黒の闘気を纏い、皇帝の多面体クリスタルへと真っ向から振り下ろされる。魔力ではなく、ただ純粋な「己の意志と命の重量」を乗せた一撃。
だが、皇帝は防壁すら展開しなかった。
クリスタルから放たれた一条の光線が龍崎の大剣に触れた瞬間――。
パキィィィィィンッ!!
大湧泉の巨大な鉄をも切り裂いてきた龍崎の『魔鋼の大剣』が、まるで薄いガラス細工のように、根元から粉々に砕け散った。
「……あァ!?」
龍崎が驚愕の声を上げる。
『構成物質の結合エネルギーをゼロに書き換えた。物質である以上、私の数式から逃れることはできない』
皇帝の冷徹な一撃が、武器を失った龍崎の胸部を容赦なく弾き飛ばし、彼は数平方メートルにわたってデータストリームの床を転がった。
「龍崎さん!」
カイルが叫び、光の剣を構えて前に出ようとするが、リオナがその腕を必死に掴んだ。
「ダメ、カイル! 迂闊に近づいちゃダメ! あの部屋の中は、あいつが言った通りのルールで世界が動いてる……。私たちの知っている魔法も、物理も、あいつが『ダメ』って言ったら全部消されちゃう……ッ!」
絶対的な絶望。
神の箱庭、世界のシステムそのものを相手にしているかのような、圧倒的な理不尽さが反逆者たちを包み込む。
どれほど強い魔力を練ろうと、どれほど速く動こうと、その「初動」を検知された瞬間に、皇帝によって都合のいい数式へと書き換えられ、無力化されてしまうのだ。
満身創痍の仲間たち。砕かれた武器。血を流すシオン。
多面体クリスタルは、勝利を確信したかのように、さらに禍々しい深紅の光を増幅させていく。
『現行データの消去プロセス、6割完了。これより、帝国全土の初期化へと移行する。……バグは、ただ静かに消滅せよ』
絶体絶命の静寂の中、シオンは血の滲む左肩を押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。
その顔は――絶望に染まるどころか、魂の底から湧き上がるような、狂気的で、最高に獰猛な笑みを浮かべていた。
「……アハハハッ! アハハハハハハハッ!!」
絶対的な絶望と静寂が支配する空間に、シオンの狂気的な笑い声が腹の底から響き渡った。
左肩の傷から鮮血を滴らせながら、彼女は多面体クリスタルを指差して腹を抱えて笑っている。
『……理解不能。お前たちの敗北および消滅確率は100パーセントへと収束した。現在のお前の情動反応は、いかなる論理モデルにも合致しない』
皇帝の無機質な音声が、わずかに戸惑うようなノイズを帯びる。
「合致するわけないでしょ! だって今、ここで新しく生まれた感情なんだから!」
シオンは笑いを止め、紫の瞳に底冷えするような殺気を宿した。
「あんたの言う通り、私たちが過去に使った技や行動パターンは、全部そのデカい頭ん中に入ってるんでしょうね。でもね……限界を超えて、血を流して、それでも『こいつだけは絶対にブッ飛ばす』ってブチ切れた時の人間の熱量まで、計算できるかしら?」
シオンは自らの左肩から流れる「血」を右手に拭い取り、それにサラマンダーの【極炎】と【紫電】を直接流し込んだ。
魔力だけではない。限りある命を燃やす「生体エネルギー」そのものを触媒にして、過去に一度も放ったことのない、極めて不安定で暴力的すぎる魔力結合を強引に生み出したのだ。
『……警告。未登録の生体魔力波形を観測。構造式の解読を実行……』
「遅いわよ、計算機!! あんたの弱点はね、『観測してからじゃないと計算できない』ってことよ!!」
シオンが甲板から跳躍すると同時、彼女は仲間たちへ向けて怒号を飛ばした。
「龍崎! ハク! カイル! リオナ! ゼッカ!! 連携も陣形もクソも関係ないわ! 全員、自分の持ってる一番デタラメな力を、一番デタラメなタイミングでブチ撒けなさい!!」
「ヒャハハハッ!! 上等だ!! 剣が折れたなら、この拳でブチ抜くまでよォォッ!!」
龍崎が両腕の筋肉を異常膨張させ、空間の重力場を力ずくで蹴り砕きながら、大剣の代わりに砕けた剣の柄と自身の拳で猛烈な乱打を空中に放つ。
「俺の影は、規則正しくなんて動かねぇよ!!」
ハクは影を刃にするのではなく、空間全体に「無意味なノイズ」として無数に散乱させ、視覚情報を完全にジャミングする。
「主様、義眼の制御プロトコルを完全に破棄します!」
ゼッカが義眼の出力を暴走させ、皇帝のデータストリームへ向けてランダムな暗号解読ウイルスをスパムのように大量送信。
「「私たちの光も、計算させないっ!!」」
カイルとリオナは、祈りの形すら捨て、ただ感情の赴くままに光の弾幕を無軌道に乱れ撃った。
『……エラー。事象の因果逆算、処理限界を突破。情報処理量が許容範囲の300パーセントを……500パーセントを……』
皇帝の周囲を回る黄金の輪が、処理落ちによって激しく明滅し、ガタガタと不規則な音を立てて回転を乱し始めた。
完璧な計算機である皇帝にとって、反逆者たちが放つ「一切の合理性も意味も持たない、ただの暴力と感情の嵐」は、シミュレートの対象すら絞りきれない最悪のDDoS攻撃(過剰なデータの送りつけ)となったのだ。
「空間を消去する暇もないでしょ!? これが泥だらけの『喧嘩』よ!!」
シオンは無秩序な攻撃の嵐のド真ん中を、血と極炎、そして紫電を纏った超加速で突き進む。
皇帝が咄嗟に展開した防御数式も、シオンの命の熱量を乗せた未知の魔力の前に、計算が追いつかずに紙のように引き裂かれた。
「フォーマット? 冗談じゃないわ。テメェのその腐った脳みそごと、初期化されなさい!!」
シオンの全身全霊を込めた極雷炎の右ストレートが、皇帝たる多面体クリスタルの中央へと完璧にめり込んだ。
ドゴォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
あらゆる音と光が飽和し、第一セクターの空間全体が激しく波打つ。
絶対不可侵であったはずの完璧な機械神。その強固な多面体クリスタルの表面に、一本の巨大な【亀裂】がピキィィィンッと甲高い音を立てて走った。
『……ガ……ガガ……理解、不能……。私は、皇帝……完璧な、シス、テム……』
皇帝の無機質な音声が、初めて狂気に似た激しいノイズを帯びて明滅する。
「ただの計算機が、神様気取ってんじゃないわよ。ここはもう、あんたの箱庭じゃないわ」
シオンがクリスタルにめり込ませた拳をさらに押し込むと、亀裂は蜘蛛の巣のように広がり、内部の演算回路がショートして火花を散らし始めた。
帝国全土の初期化を宣告した完璧なる機械神に対し、泥だらけの極道たちが放った非論理な一撃が、ついにその心臓部へと致命的な牙を突き立てたのである。
物理法則すらも計算によって書き換える、絶対的な力を持ったマザーコンピュータ【皇帝】。
「観測したデータから未来を予測する」というその完璧な論理に対し、シオンたちが取った戦法は「観測した傍から計算が追いつかないほどの、無秩序でデタラメな感情と暴力をぶつけ続ける」という、極めて泥臭いカウンターでした。
陣形や連携といった「合理的な戦術」すらも捨て、ただ命を燃やして暴れ回る。それはAIにとってはシミュレート不能の最悪のバグであり、過去のデータに縛られる皇帝の処理能力を完全にオーバーフローさせました。
そして、自らの血を混ぜた「未知のエネルギー」を纏ったシオンの拳が、ついに絶対不可侵の多面体クリスタルに亀裂を入れます。
全十四部構成で描かれる第七章も、いよいよ残り三部。
致命的なダメージを負い、論理が崩壊し始めた皇帝が、このまま大人しく沈黙するはずがありません。
次なる第十二部では、システムが崩壊していく中で、皇帝が自己防衛のために見せる「神の悪あがき」と、崩れゆく階層都市での最終局面の死闘が描かれます。
帝国の終焉が近づく中、シオンたちは無事にこの鋼鉄の空をブチ破れるのか。次回もどうぞお楽しみに。




