第六章11『終末の防衛戦と、不屈の防人たち』
空が、物理的な質量を伴って落ちてくる。
大湧泉の頭上に開いた漆黒の亀裂は、星の反撃兵器『星穿の極光』の起動を察知し、ついにその本体を大気圏内へと降下させ始めた。
降下までの一時間。それは、泥だらけの異邦人たちが積み上げてきた自由の価値を、宇宙の深淵に刻みつけるための最後の試練である。
星の命運を懸けた、人類史上最大にして最悪の防衛戦。そのカウントダウンが、今、絶望の重圧の中で静かに始まった。
『……創世の鍵、始源の石碑との完全同期を確認。最終防衛兵器「星穿の極光」、物理充填シークエンスを開始します。臨界点到達まで、残り六十分』
大湧泉の中央広場。天を貫く黄金の光柱の傍らで、アノンの無機質な、しかしどこか震えるような宣告が響き渡った。
だが、その光は希望であると同時に、星喰らいの虚神にとっての明確な標的となった。
「……ッ、なんだよ、この気圧の変わりようは……! 空気が、鉛みたいに重てぇぞ!!」
外郭の防壁に立つハクが、自身の影をマントのように広げ、上空を睨みつけた。
空を裂く巨大な黒い亀裂が、内側からメリメリと音を立てて広がり、そこから「本体」の一部と思われる漆黒の質量が、ゆっくりと大湧泉を押し潰すように降りてくる。
それはもはや雲や雨といった自然現象ではない。大陸一つを容易に覆い尽くすほどの、巨大な『宇宙の眼球』が、星の命を吸い上げるために降臨しようとしていた。
ボトッ……、ボトボトォォォォォォッ!!
虚神の降下に伴い、その表面から剥がれ落ちた反魔力のタールが、空中で意思を持つ軍勢へと変貌していく。
これまでのような単なる「泥の雨」ではない。虚神が大湧泉の防衛線を強引に食い破るために生み出した、戦闘特化の『泥の魔獣軍』だ。
全長十メートルを超える六本腕の巨人、翼の代わりにカミソリのような膜を持つガーゴイル、そして――大陸の各地でシオンたちが屠ってきたはずの魔獣たちが、泥に侵食された『ゾンビ』となって、地平線の彼方から津波のように押し寄せてくる。
「ガハハハッ! 掃除されるのは俺たちか、それともその図体か……試してみようじゃねぇか!!」
城門の最前線。赤銅色に輝く『覇獣の魔鋼鎧』をガシャガシャと鳴らし、龍崎が魔鋼の大剣を肩に担いで咆哮した。
彼の後ろには、大湧泉の荒くれ者たち――極道組の面々が、ベヒモスの骨を削り出した無骨な棍棒や斧を手に、血走った目で構えている。
「龍崎殿、無茶は承知だが……一歩も引くわけにはいかん。我ら昼国の騎士団、貴殿らの背中は死守しよう!」
龍崎の隣には、白銀の甲冑を纏ったジーグ将軍が、折れた聖剣を魔力で補強して立っていた。
かつては泥沼の戦争を繰り広げた極道と騎士。だが今、この星で最後に残された絶対防衛線の前で、彼らは一つの軍勢として、泥の濁流に真っ向から牙を剥いている。
「……シオン女王陛下。敵軍、防衛ラインまであと三百。……空挺部隊も来ます」
城壁の塔の上。ゼッカが義眼を鋭く明滅させ、腰の短剣に手をかけた。
「……分かってるわ。一時間、この街に泥の一滴たりとも近づけなきゃ、私たちの勝ちよ」
シオンは、ボロボロになった魔剣『雷月』を抜き放ち、刀身に四つの神話の理を宿した黄金の紫電を走らせた。
ズガァァァァァァァァァァァァンッ!!!!
開戦の合図は、空から降ってきた『泥の巨人』の着弾音だった。
城門の目前、数十メートルの砂埃を上げて着地した巨人が、丸太のような腕を振り上げる。
「野郎ども!! 極道のカチ込みだァァァッ!! 宇宙のゴミに、泥水すすってきた人間の意地を見せてやれェェッ!!!」
龍崎の絶叫と共に、防衛部隊が一斉に泥の軍勢へと突撃した。
魔法が効かないなら、神話の素材で物理的に叩き潰すのみ。
龍崎の大剣が巨人の足を砕き、倒れ込んだところへ騎士団が浄化の槍を突き立てる。
頭上からはゼッカ率いる暗殺部隊が、ジズの魔力羽を用いた真空刃の雨を降らせ、ガーゴイルの翼を次々と切り落としていく。
「ハク!! カイル、リオナ!! 私たちは遊撃に回るわよ!! 突破された箇所を片っ端から埋めるわ!!」
シオンが城壁から跳躍し、空中で黄金の雷光となって最激戦区へと突っ込んだ。
紫電が泥を焼き、四つの神話の力が空間を震わせる。
一秒一秒が、命を削る削岩機のように重く苦しい。
星を護るための、そして自由を証明するための最後の六十分。その序盤戦は、開戦のわずか数分で、地獄ですら生ぬるいほどの惨劇へと変貌を遂げた。
「ギギギギィィィッ!!」
「怯むなッ! 押し返せ! 泥の塊に我らの街を、一歩たりとも踏ませるな!!」
最前線は、阿鼻叫喚の肉弾戦へと化していた。
虚神が吐き出した『泥の巨人』の一体が、自重に任せて防壁に激突する。ベヒモスの骨格で補強された強固な外壁すらも、物理法則を無視した泥の重圧に悲鳴を上げ、亀裂から粉塵が舞い散る。
そこへ龍崎が、ひしゃげた魔鋼の大剣を杭のように巨人の胸元へと突き立てた。
「オラァッ!! 砂漠で学ばなかったか!? 固まらねぇなら、熱で焼いて陶器に変えてやるよ!!」
龍崎が大剣からサラマンダーの超高熱を放出すると、泥の巨人の身体は赤熱し、一瞬で硬質なセラミックへと変質した。その脆くなった箇所を、昼国の騎士たちが一斉に槍で突き、粉々に粉砕する。
だが、敵の数は文字通り「星を埋め尽くす」ほどに無尽蔵だった。
一体を倒せば、上空の亀裂から十体の新たな異形が降り注ぐ。空を埋め尽くすガーゴイルの羽ばたきが太陽を遮り、大湧泉は真昼であるにもかかわらず、死の静寂を伴う薄暗がりに包まれていた。
「……ッ、姉御! 空から『デカブツ』が来るぞ!!」
ハクが影の触手で数体のゾンビ魔獣を空中で絞め殺しながら、絶叫に近い警告を上げた。
上空数千メートル。重力に逆らって渦を巻く泥が、一つの形を結んでいく。
それは、リヴァイアサンを模したような、全長数百メートルに及ぶ『泥の鯨』であった。
その巨躯には虚神の紋章が刻まれ、空中を泳ぐたびに周囲の魔力を強引に吸い取り、防衛結界の出力を物理的に減衰させていく。
「空中戦艦まで用意してきたってわけね……! ゼッカ、対空班を!!」
「……不可能です、シオン女王陛下! すでにジズの羽は限界まで稼働させていますが、あの質量は風の刃では捌ききれません!!」
ゼッカの叫びと同時に、泥の鯨がその巨大な尾を振り下ろした。
一万メートルの深海で受けた水圧の打撃に匹敵する、圧倒的な衝撃が城壁を襲う。
ドォォォォォォォォォォォォォォンッ!!
「ぐ、あぁぁぁぁぁッ!!」
「結界が……第一防衛線、崩壊します!!」
リオナが展開していた光の障壁が、ガラスが砕けるような音を立てて四散した。
守り手を失った城壁の一部が音を立てて崩れ、そこから泥の軍勢が、まるで黒い雪崩のように都市内部へと雪崩れ込み始める。
「――そこまでよ。私の庭で、勝手に泥遊びを広げないでもらえるかしら」
崩壊した瓦礫の頂点に、紫電を纏ったシオンが立った。
彼女の右手に握られた魔剣『雷月』が、創世の鍵の出力を受けて、白銀から黄金へと色を変えていく。
シオンは、自身の中に眠る四つの神話の理――陸、空、火、砂――のすべてを、一つの術式へと強引に束ねた。
「アバドンの重力で沈め、ジズの嵐で切り刻み、サラマンダーの熱で焼き払い、ベヒモスの質量で――圧殺なさい!!」
シオンが空へ向けて剣を振り抜くと、黄金の渦巻くエネルギーが、泥の鯨を直撃した。
それは単なる爆発ではない。対象の周囲の重力を数千倍に増幅させ、自己崩壊を促す「星の質量攻撃」だ。
泥の鯨は、自らの重さに耐えきれず内側から爆ぜ、漆黒の飛沫となって都市の外へと弾き飛ばされた。
『……極光のチャージ率、50パーセント。充填完了まで、残り三十分』
アノンの冷徹なカウントダウンが響く。
「……半分ね。……みんな、死ぬのはまだ早いわよ。ここからが、本当の『命の削り合い』なんだから!!」
シオンは血の混じった唾を吐き捨て、倒れかけた龍崎とハクに手を差し伸べた。
都市の内部へと侵入を許した絶望的な状況下で、泥だらけの反逆者たちは、文字通り自らの魂を燃料に変え、終わりの見えない防衛戦の「後半」へと足を踏み入れていく。
「……ッ、総員、市街地へ後退! 瓦礫を盾にしろ! 泥の一滴たりとも始源の石碑に近づけるな!!」
シオンの喉を裂くような号令が、爆音の渦巻く大湧泉に響き渡った。
城壁の崩落箇所から雪崩れ込んだ泥の軍勢は、もはや「波」という表現では生ぬるい。それは都市そのものを物理的に塗り潰し、消滅させようとする漆黒の泥流であった。
市街地の石畳は、虚神の重圧と反魔力の腐食によりドロドロに溶け、かつての美しい街並みは一瞬で地獄の沼地へと姿を変えていく。
「姉御、後ろは任せな!! ――野郎ども、極道の意地を見せるのは今だぞォ!!」
龍崎が、ひしゃげた魔鋼の大剣を地面に突き立て、自らの肉体を強引に固定する。彼の背後には、傷だらけの極道たちと騎士団の生き残りが、互いの肩を組み、崩れかけた民家を盾にして「肉の防壁」を築いていた。
彼らの前には、無数の泥のゾンビが牙を剥いて殺到する。魔法も聖気も泥に食われ、もはや武器の重さと肉体の力だけが、この星に残された唯一の対抗手段だった。
「ギ、ギィィィッ!!」
「どけぇッ!!」
龍崎が大剣を横薙ぎに一閃し、三体の泥の巨人をまとめて両断する。だが、斬り裂いた断面からは熱い血の代わりに冷たい泥が噴き出し、彼の腕を腐食させようと纏わりつく。
「龍崎殿! ――『浄化の炎』!!」
ジーグ将軍が、自らの命を削って絞り出した光を龍崎の腕に浴びせ、泥を焼き払う。二人の瞳には、種族も立場も超えた、ただ「この一秒を生き抜く」という生存への執着だけが燃え盛っていた。
一方、上空ではシオン、ハク、カイルの三人が、始源の石碑の真上に陣取り、最後の一線を死守していた。
虚神の本体が降下するに従い、その巨大な眼球から放たれる『漆黒の凝視』が、空間そのものを物理的にねじ曲げ、始源の石碑へ直接的な破壊圧力を加え始める。
「アノン! 充填率は!?」
『……85パーセント。石碑の構造材に致命的な亀裂を確認。外部からの衝撃をこれ以上許容すれば、極光の発射前に石碑が爆壊します!!』
「……させるわけないでしょ。ハク、あんたの全影を、この石碑の補強に使いなさい!!」
「……ッ、無茶言うな……俺が消えちまうぞ……!!」
ハクは悲鳴に近い声を上げたが、その直後、不敵に笑って自身の身体を漆黒の霧へと霧散させた。彼の影が大湧泉の全域に広がり、崩落しそうな石碑を、そして立ちすくむ民衆を、数千万の影の触手で繋ぎ止め、物理的な補強材となって都市全体を抱きしめたのだ。
「カイル、最後の光を!! 私が……あの空の眼球に、直接風穴を空けてやる!!」
シオンは魔剣『雷月』に、手元に残るすべての神話の素材を注ぎ込んだ。
ベヒモスの重圧を足場にし、アバドンの反重力で加速し、サラマンダーの熱を噴射剤に変え、リヴァイアサンの水圧の理で一撃の密度を極限まで高める。
黄金に輝くシオンの姿は、もはや人間を越え、星そのものが放つ殺意の結晶と化していた。
「――っ、おおおおおおおおおッ!!!!」
シオンが垂直に跳躍した。
空から降りてくる宇宙の巨悪に向かって、泥だらけの少女が一本の光の矢となって突き刺さる。
彼女の放った一撃は、虚神の眼球の表面を覆う反魔力の外殻を食い破り、その奥に潜む「核」へとわずかに届いた。
ドォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
天と地が逆転するほどの衝撃が走り、虚神の降下が一瞬だけ停止する。
だが、それは勝利の合図ではなかった。虚神は、自らを傷つけたシオンという存在を「星の意志」と断定し、そのすべての殺意を彼女一人へと向けた。
残り、十分。
極光発射までの最後のカウントダウンは、シオンの命と、星の命運を等価に秤にかける、残酷な最終局面へと突入する。
泥にまみれ、影に消え、光に焼かれながらも、彼らは立ち続けている。
都市の半分が崩壊し、仲間の多くが力尽きても、シオンたちの瞳から「自由」の光が消えることはない。
宇宙の絶対的な質量に対し、泥だらけの人間たちが「意地」だけで抗うその姿は、かつて神が定めた予定調和を完全に破壊するものであった。
極光発射まで、あとわずか。
天が落ち、地が裂ける中で、シオンは自らの命を何に変えるのか。星の未来を掴み取るための「最後の大博打」が、ついに決着の時を迎える。




