第六章10『星を覆う虚神と、絶望の泥雨』
物語は、始まりの地へと回帰する。
四つの神話の鼓動をその身に宿した【創世の鍵】は、今や直視することすら拒むほどの黄金の輝きを放ち、シオンの魂を激しく打ち据えていた。
次なる目的地は、紅の大陸アウストラの最北端。かつて泥だらけの異邦人たちが目を覚まし、死に物狂いで這い上がってきた原点――新星都市・大湧泉である。
だが、そこはもはや安住の地ではなかった。
虚神の末端である「泥の雨」は大陸全土を侵食し、星の最後の抵抗を摘み取るべく、大湧泉の頭上に漆黒の巨大な亀裂を広げつつある。
星の地脈を束ねる五つ目の要は、大湧泉の地下深くに眠る「始源の石碑」そのもの。
それは、星を救うための最終兵器のトリガーであると同時に、宇宙の捕食者を招き寄せる灯台でもあった。
仲間たちの装備はボロボロになり、魔力は底を突きかけている。それでも、シオンの瞳に宿る不屈の紫電は、かつてないほど鋭く燃え盛っていた。
これは、星の未来を懸けた最後の大博打。
泥だらけの反逆者たちは、自らが切り拓いた自由を守り抜くため、空を覆う絶望を撃ち落とすための最終決戦へと突き進む。
「……冗談じゃないわね。私たちがいない間に、随分と景気の悪い空に変えてくれたじゃない」
シオンは、特攻潜水艇を乗り捨て、大湧泉を望む北の絶壁に降り立つと、天を仰いで忌々しげに吐き捨てた。
かつては蒼穹が広がっていた大湧泉の頭上には、今や空を物理的に引き裂いたかのような、数千キロメートルに及ぶ漆黒の『亀裂』が横たわっている。
そこから降り注いでいるのは、雨ではない。
粘り気を持った反魔力のタール――「泥」が、意思を持つ生き物のように蠢きながら、大湧泉を覆う防衛結界をドロドロと溶かし続けていた。
「姉御、見てくれ! 街の入り口が泥のバケモノ共に囲まれてやがる!! 昼国の騎士団が応戦してるが、あいつらもありゃ限界だぜ!!」
龍崎が、ひび割れた魔鋼の大剣を握り直し、絶壁の下を指差した。
大湧泉の外郭門では、ジーグ将軍率いる昼国の騎士たちが、必死に盾を並べて泥の軍勢を食い止めていた。だが、泥は倒しても倒しても空から無限に供給され、騎士たちの聖なる光を容赦なく食い荒らしている。
「……アノン、状況報告を」
シオンが懐の【創世の鍵】に手を当てる。鍵は五つ目の要を求めて、火傷を負ったシオンの掌を焼くほどの熱を発していた。
『……最悪のシナリオです。上空の虚神は、大湧泉地下の「始源の石碑」を星の防衛兵装のルーターであると特定しました。……現在、奴は本体の重圧をこの地点に集中させています。結界の崩壊まで、残り三十分。結界が消滅すれば、都市の数十万の民は一瞬にして泥の餌食となります』
「三十分……。フン、泥水の中を三十分泳ぐのに比べれば、たっぷり時間があるわね」
シオンは魔剣『雷月』を抜き放った。刀身には、ジズの風、サラマンダーの熱、アバドンの重力、そしてリヴァイアサンの水圧――四つの神話の理が黄金の術式となって複雑に絡み合っている。
「ハク!! ゼッカ!! 動ける奴を全部連れて、騎士団の援護に回りなさい!! 城門を一分たりとも開けさせるんじゃないわよ!!」
「おうよ! 影の軍勢、全解放だ!! 宇宙のゴミ共に極道のカチ込みを見せてやるぜ!!」
ハクが影の波を広げ、絶壁から泥の軍勢の背後へと飛び降りる。
「……御意。女王陛下の道を塞ぐ不浄、すべて影から刈り取らせていただきます」
ゼッカもまた、暗殺部隊を率いて音もなく絶壁を駆け下りた。
「カイル、リオナ! あんたたちは私と一緒に、直接『始源の石碑』へ向かうわよ!! この鍵をぶち込んで、空のバケモノごと、この絶望を撃ち抜いてやる!!」
「「はいッ!!」」
シオンはジズのマントを最大出力で羽ばたかせ、雷光を纏った弾丸と化して大湧泉の中央へと突撃した。
だが、その進路を阻むように、空の亀裂から巨大な『多面体の檻』が高速で落下してくる。
『シオン、回避して!! それは虚神の放つ「因果の檻」です! 触れれば存在そのものを虚数領域へ引きずり込まれます!!』
「避けるわけないでしょ!! 道がないなら、力ずくでこじ開けるだけよ!!」
シオンは黄金の鍵の出力を最大へと解放し、雷月の刃を空へと突き出した。
黄金の閃光と、漆黒の檻が空中で激突し、大湧泉の空にひび割れた太陽のような衝撃波が走る。
星の存亡を懸けた、全大陸を巻き込む最終決戦。その第一撃が、絶望の泥雨を切り裂いて放たれた。
「おおおおおおおっ!! どけぇッ! 宇宙の塵共がァ!!」
龍崎の咆哮が、泥雨に煙る城門前に轟いた。
絶壁から飛び降りた彼は、落下の衝撃をそのまま大剣に乗せ、城門に群がっていた泥の巨像を真っ二つに叩き割る。砕け散った反魔力の残骸が飛沫となって龍崎の顔を焼くが、彼はそれを拭うことすらせず、すぐさま次の獲物へと突進した。
「助かるぞ、異邦人の勇士よ!!」
血反吐を吐きながら盾を構えていたジーグ将軍が、龍崎の背後に並び立つ。
「将軍サマ、礼は後だ! 街の中には一歩も通さねぇ。……それが、俺たちの『シノギ』の落とし所だ!!」
かつて敵対し、剣を交えた極道と騎士が、今や泥にまみれ、互いの背中を守る盾と矛となって絶望の濁流を押し戻していく。
一方、シオンは空中を疾走していた。
彼女を阻むように降り注ぐ『因果の檻』——多面体の光の監獄が、意思を持つかのように軌道を変え、四方八方からシオンの存在を消し去るべく収束する。
「アノン、座標固定! ハク、影の錨を撃ちなさい!!」
『了解。因果律の歪みを計算……今です!!』
「承知した! ――『影界・空間固定』!!」
ハクが空中に展開した漆黒の影が、実体のない檻の隙間を縫い、シオンの足元に一瞬だけ強固な「足場」を創り出した。シオンはその影を蹴り、物理法則を無視した急加速で、閉じる直前の檻の包囲網を紙一重で突破する。
「カイル、リオナ! 石碑までの道を焼くわよ!!」
「はいッ! ――『聖光・神域展開』!!」
カイルとリオナが手を繋ぎ、シオンの周囲に極大の浄化結界を張った。泥の雨が結界に触れるたびに、ジュウと音を立てて蒸発していく。その光のトンネルを、シオンは黄金の鍵を掲げて突き進む。
だが、大湧泉の中央広場、目的地の『始源の石碑』を目の前にして、空の亀裂がこれまでで最大の蠢きを見せた。
ゴォォォォォォォォォォォォッ!!
重力が反転したかのような錯覚。空から降ってきたのは、もはや泥ではない。それは、虚神の意識が直接形を成した『星喰らいの分身』——全長数百メートルに及ぶ、漆黒の巨大な腕であった。
「……ッ、直接石碑を握りつぶす気!? させないって言ってるでしょ!!」
シオンは懐の【創世の鍵】に全魔力を注ぎ込んだ。
四つの神話の力を内包した鍵が、シオンの血管を黄金色に焼きながら、魔剣『雷月』を変貌させていく。刀身は黄金のプラズマを纏い、神話の巨獣たちの咆哮が、空間を震わせる共鳴音となって響き渡る。
「全部、食らいなさい!! ――『神話合一・極光破斬』!!」
シオンが放った黄金の斬撃は、降り注ぐ巨大な漆黒の腕を正面から受け止めた。
天と地が真っ二つに割れたかのような衝撃が走り、大湧泉の空が一瞬だけ黄金色に塗り潰される。
虚神の腕とシオンの閃光。
拮抗する二つの力の間で、大気は発火し、石畳は粉々に砕け散る。
シオンは腕の骨が軋む音を聞きながら、必死に食いしばった。あと数百メートル。石碑への「接続」さえ果たせば、この絶望を終わらせる光が放たれる。だが、虚神もまた、その獲物を逃がすまいと、さらなる深淵の力を空から引きずり出そうとしていた。
「……っ、あああああああああっ!!!」
シオンの喉が裂けんばかりに咆哮を上げた。
黄金の閃光と漆黒の腕が激突した中心点から、因果を歪めるほどの衝撃波が同心円状に広がり、周囲の石造りの建物が砂のように崩れていく。
虚神の腕は、ただの物理的な質量ではない。それはこの星のすべての「可能性」を否定し、静止した死へと引きずり込む宇宙の摂理そのものだ。
「押し、負ける……? 私たちが、ここまで積み上げてきたものが……!」
シオンの視界が赤く染まる。魔剣『雷月』を握る両手の感覚はとうに消え、創世の鍵から流れ込む過剰なマナが、彼女の毛細血管を内側から焼き切っていた。
「シオン様ッ!!」
「シオン!!」
カイルとリオナが、自分たちの生命力そのものを光に変え、シオンの背中を支える。だが、虚神の重圧はそれすらも嘲笑うかのように増し続け、彼女たちの膝が石畳にめり込んでいく。
その時だった。
「……ハッ、湿っぽい顔してんじゃねぇよ、姉御!!」
「そうだ。泥水の中で笑うのが、我らの流儀ではなかったか!」
影の中から跳ね出したハクが、全身からどす黒い血液を噴き出しながらも、虚神の腕の根元へと無数の影の鎖を巻き付けた。さらに、城門から駆け戻った龍崎が、ひしゃげた魔鋼の大剣を、自身の右腕ごと虚神の腕に叩き込む。
「野郎ども、力を貸せェ!! この星は、俺たちの『シノギ』の縄張りだァァァッ!!」
龍崎の叫びに呼応し、大湧泉に残っていたすべての異邦人、騎士、そして民衆たちが、祈りにも似た魔力を空へと捧げた。
それは微かな光の粒に過ぎなかったが、数千、数万と集まったその輝きは、シオンの手にする『創世の鍵』へと吸い込まれ、最終的な回路を完成させた。
「……みんな……。ええ、そうね。こんなところで終わるタマじゃないわよ、私たちは!!」
シオンの瞳に、極彩色の光が戻った。
鍵に宿る四つの神話の理――ベヒモスの「不屈」、ジズの「飛翔」、サラマンダーの「情熱」、アバドンの「変転」。それらが民衆の意志と混ざり合い、五つ目の、そして最大の力――「星の鼓動」へと昇華された。
「消え失せなさい、宇宙のゴミ溜めへ!! ――『星穿・創世の産声』!!!」
シオンが魔剣を振り抜くと同時に、黄金の光柱が石碑から天へと逆噴射された。
虚神の巨大な腕は、その指先から一瞬で粒子へと分解され、空を覆っていた漆黒の亀裂を内側から焼き尽くしていく。
爆発的な閃光が大湧泉を包み込み、すべての泥を、すべての絶望を、白銀の光の中へと浄化した。
光が収まった後、そこには青黒い夜空と、静かに明滅する始源の石碑、そして泥まみれで笑い合う反逆者たちの姿があった。
黄金の光柱が漆黒の亀裂を貫き、空を焼き尽くした衝撃。その余波が収まった大湧泉の中央広場には、耳を劈くような静寂と、焦げた大気の臭いだけが漂っていた。
虚神の巨大な腕は跡形もなく消滅し、都市を溶かし続けていた泥の雨も、その勢いを失って灰白色の塵へと変わっていく。
「……ハッ、やってやったぜ。宇宙の神様を相手に、特大の返礼品をぶち込んでやった……」
龍崎が、ひしゃげた魔鋼鎧の破片を地面に吐き捨て、震える手で膝を突いた。その隣では、ジーグ将軍が折れた剣を杖にし、信じられないものを見るかのように晴れゆく空を見上げている。
泥にまみれ、血を流し、極限まで魂を削りながらも、彼らはこの星の最後の希望を守り抜いたのだ。
だが、広場の中央に立つシオンの表情に安堵の色はなかった。
彼女が握る魔剣『雷月』の柄に埋め込まれた【創世の鍵】は、五つ目の地脈――この都市の地下に眠る始源の石碑と完全に同期し、かつてないほどの激しい拍動を繰り返している。
四つの神話の理を束ね、ついに星の全回路を繋ぎ止めたその輝きは、もはや一つの生命体のようにシオンの腕を黄金に染め上げていた。
空の亀裂は、完全に閉じたわけではない。
むしろ、先ほどの反撃によって星の存在を明確に捕捉した虚神は、その巨大な瞳孔をさらなる殺意で染め、宇宙の深淵から本体を降下させようと蠢き始めている。
「……まだ、終わってないわ。今の光は、ただの『呼び鈴』よ」
シオンは、火傷でただれた左手で、激しく脈打つ鍵を強く抑え込んだ。
星の全回路が開かれた今、シオンは感じていた。
大陸の各地で目覚めた神話の巨獣たちの意志、そしてこの星そのものが抱き続けてきた、永い絶望と微かな期待。
泥だらけの異邦人たちが辿り着いた、物語の最終地点。
そこは、星の運命を自分たちの手で奪い返すための、真なる戦場。
空から降りてくる次なる絶望を前に、シオンは血に濡れた唇を吊り上げ、不敵な笑みを浮かべた。
運命のカウントダウンは、今、最終秒読みへと突入する。




