第六章8『生きた砂漠と、黄金の流砂竜』
火山の熱気が、遠い幻覚のように感じられる。
紅の大陸アウストラの西方。一行が足を踏み入れたのは、生命の歩みを等しく拒絶する「黄金の死地」——【生きた大砂漠】であった。
そこには、遮るもののない暴力的な陽光と、一瞬で足跡を消し去る非情な砂の海が広がっている。だが、この地の真の恐怖は、環境そのものではなかった。
足元で微かに、しかし確実に波打つ砂丘。風も吹いていないのに砂が生き物のように蠢き、侵入者の体力を音もなく削り取っていく。
シオンたちが手にした【創世の鍵】は、二つの神話の熱を宿し、今やそれ自体が一個の心臓のように激しく脈動していた。
地脈の三つ目の要は、この流れる砂の深淵に眠っている。
かつて旧時代の文明を一夜にして飲み込み、歴史の表舞台から消し去ったといわれる黄金の災厄。
泥だらけの異邦人たちは、熱砂の海を泳ぐ「見えない牙」を相手に、己の知覚と意地のすべてを懸けた新たな狩りを開始する。
「……っ。火山よりはマシだと思ったけど、こっちはこっちで最悪ね」
シオンは、眩しすぎる日差しを遮るように手をかざし、見渡す限りの黄金色に目を細めた。
足を踏み出すたびに、サラサラと崩れる砂が足首までを執拗に絡め取る。背中に纏った『ジズのマント』を風の盾として広げ、熱気を逃がそうとするが、砂漠特有の乾いた風が唇の水分を一瞬で奪い去っていく。
「姉御、気をつけろ。この砂、ただの石の粉じゃねぇ。……マナを吸ってやがる」
龍崎が、ひしゃげた箇所を応急処置した『覇獣の魔鋼鎧』をガシャガシャと鳴らしながら、周囲を警戒する。
彼の言う通り、この砂漠に満ちているのは生命の気配ではなく、あらゆる活力を吸い尽くそうとする「渇き」の波動であった。
「……不可解ですね。マナの反応が、地脈の要からではなく、砂漠全体から均一に放射されています。まるで、この砂漠そのものが一つの巨大な生命体であるかのように……」
カイルが白銀の聖剣を杖にし、ふらつく足取りで歩むリオナを支える。
「みんな、足元に集中して……。砂の下で、何かが『笑ってる』ような気がするの」
リオナが震える声で呟いた、その瞬間だった。
『……警告。直下より、高エネルギー反応が急速接近!』
カイルの背中で、アノンの声が鋭く響く。
「散りなさい!!」
シオンの叫びと同時に、彼女たちが立っていた巨大な砂丘が、内側から爆発するように弾け飛んだ。
黄金の砂が豪雨のように降り注ぐ中、地底から突き出されたのは、数千本の水晶の牙が螺旋状に生え揃った、直径十メートルを超える『巨大な口腔』であった。
「ギィェェェェェェェェェェッ!!!!」
鼓膜を突き抜けるような高周波の咆哮。
姿を現したのは、全身を硬質な黄金の魔力結晶で覆った、超長大な巨躯を持つワーム型の神話獣——【黄金の流砂竜アバドン】である。
それは竜というよりは、砂の海を統べる巨大な「穿孔機」であった。
「へぇ……。神話の巨獣っていうからトカゲ系を想像してたけど、まさかデカい虫が出てくるとはね」
シオンは、舞い散る砂塵の中で魔剣『雷月』を抜き放った。
鍵に宿った火竜の熱が、刀身を通じてシオンの腕に心地よい昂揚感を与えている。
「いいじゃない。砂遊びの相手としては、最高に手強そうよ!!」
アバドンがその巨体を大きくくねらせ、再び砂の海へと潜り込む。
地響きと共に足元の砂が巨大な渦を作り、一行を底なしの暗黒へと引きずり込もうと牙を剥いた。
三つ目の神話、砂漠の主との死闘が、逃げ場のない流砂の真っ只中で、今まさに幕を開けた。
「全員、その場から動くな! 闇雲に跳べば、砂の振動で正確に位置を特定されるわよ!!」
シオンの鋭い号令が、熱波に揺れる砂漠に響き渡った。
足元では、先ほど姿を現したアバドンが潜った跡が巨大な蟻地獄のような「流砂の渦」と化し、凄まじい吸引力で一行を飲み込もうとしている。黄金の砂は、一度動き出せば鋼鉄の重甲冑すらも紙屑のように押し潰す質量兵器へと変貌する。
「ガハハハッ! じっとしてろって言われてもよぉ、この砂の野郎、俺の足を食おうと必死だぜ!!」
龍崎が、砂に埋まりかけた『覇獣の魔鋼鎧』の脚部に魔力を込め、強引に引き抜く。だが、彼が動くたびに、砂の下からは「ズズズ……」という不気味な地鳴りが近づいてくる。
「龍崎殿、そのまま!! ――『氷華の陣』!!」
カイルが聖剣を砂に突き立てた。サラマンダーの討伐で得た熱の対極にある、彼自身の純粋な魔力を氷へと変換し、龍崎の足元を瞬時に凍てつかせる。流動していた砂が氷によって固定され、一時的な足場が形成される。
「助かるぜ、若大将!! ……だが、本番はここからだ!!」
ドゴォォォォォォォォンッ!!
氷の足場を嘲笑うかのように、龍崎の真下からアバドンの黄金の頭部が突き出された。螺旋状に並んだ数千の水晶牙が、ドリルのように回転しながら龍崎を丸呑みにせんと迫る。
「……させないわよ!!」
空中を滑空していたシオンが、魔剣『雷月』を振り下ろした。
今回、彼女が放ったのは紫電ではない。剣の柄に接続された【創世の鍵】から引き出された、先ほど手に入れたばかりの『サラマンダーの熱』――紅蓮の爆炎である。
ズバァァァァァァァンッ!!
シオンの放った一撃が、アバドンの口内へと真っ向から突き刺さった。超高熱の炎が砂の怪物の口腔を焼き、流砂の竜は苦悶の咆哮を上げながら横転する。
だが、アバドンは即座にその巨体を砂漠の表面へと打ち付けた。すると、熱せられた砂が瞬時に冷却・硬化し、巨大な『ガラスの棘』となってシオンへと降り注いだ。
「砂を溶かして、即席の武器に変えたの!? 小賢しい真似を……!!」
シオンは空中で身を翻し、ジズのマントで風の防壁を張るが、高密度のガラス片は風を切り裂き、彼女の頬を浅く掠めた。
「シオン女王陛下、奴の特性を解析しました!!」
ゼッカが、砂に半ば沈みながらも義眼を光らせ、思念波を送る。
「あのアバドン、全身が一種の『感応結晶』です。周囲の砂を魔力で操るだけでなく、受けた属性攻撃を瞬時に取り込み、砂の性質を『ガラス』や『粘土』、さらには『鋼鉄の砂』へと変質させています。……火の属性で攻めれば、奴は砂をより硬い物質へと変えてしまいます!!」
「なるほどね。……熱すれば固まる。なら、逆に徹底的に『乾かして』やればいいわけね!!」
シオンはニヤリと不敵な笑みを浮かべ、空中で再び鍵の出力を切り替えた。
今度は火の熱ではない。火山の深部で培われた『極限の乾燥』と、ジズの『暴風』の複合。
「ハク!! 奴の影を捕まえなさい!! 砂の中だろうが、存在しているなら『影』はあるはずよ!!」
「……無茶苦茶言い上がって! だが、やってやらぁ!! ――『影海・底なしの檻』!!」
ハクが砂の海に両手を沈めた。彼の影が、流砂の渦よりもさらに深い漆黒の沼となって砂漠に広がり、地底を泳ぐアバドンの巨大な輪郭を強引に「物質化」させて引きずり出す。
「ギィェェェェェェェェェェッ!!?」
砂の中から無理やり引きずり出されたアバドンの黄金の巨体が、灼熱の太陽の下に晒された。
シオンはその瞬間を逃さない。
「カイル、リオナ! 光の収束を!! 奴の水分、一滴残らず枯らしてあげるわ!!」
「「はいッ!!」」
カイルの聖なる光とリオナの祈りが、シオンの魔剣へと一点に集束する。黄金の鍵がかつてないほど激しく明滅し、砂漠全体が白く飛ぶほどの高密度の光線が、アバドンの中心核を目掛けて放たれた。
「――焼き尽くしなさい、『雷光・焦砂の一閃』!!!!」
光と熱、そして暴風が混ざり合った一撃が、砂の巨竜を直撃する。アバドンの結晶の鱗が、あまりの乾燥と熱膨張に耐えきれず、パキパキと音を立ててひび割れていく。
砂の海を統べる覇者が、その絶対的な防壁を崩され、初めて本物の「恐怖」に打ち震えた。しかし、神話の巨獣はまだ終わらない。アバドンは最後の反撃として、自らの巨体を砂漠そのものへと還元し、一行を取り囲む『死の砂嵐』へと姿を変えようとしていた。
「ギィォォォォォォォォォォォォッ!!!」
断末魔にも似た咆哮が砂丘を震わせ、アバドンの黄金の巨体が、文字通り砂の粒子へと分解され始めた。だが、それは敗北による崩壊ではない。奴は自らの肉体を構成する数億の結晶砂を、殺意を持った「意思ある嵐」へと変え、シオンたちを包囲する絶対的な死の檻を構築したのだ。
「……ッ、視界が! 砂が肌を削りに来るわ!!」
シオンは空中でジズのマントを固く閉じ、暴風の盾で身を守るが、超音速で飛来する結晶砂は、ジズの風の障壁すらも紙ヤスリのように削り取り、マントの端から火花を散らせていく。
「姉御! このままじゃ全員、砂のヤスリで生きたまま骨にされちまうぜ!!」
龍崎が、ひしゃげた魔鋼鎧を盾にして舎弟たちを庇うが、彼の自慢の鎧も、結晶砂の猛攻によって見る影もなく表面が削り取られ、赤錆びたような無惨な姿へと変貌していた。
「シオン様、あれを! 嵐の中心、砂が逆巻く一点に……魔力の核が露出しています!!」
カイルが、リオナを抱き寄せながら、聖剣の光でかろうじて視界を確保し、叫ぶ。
嵐の渦の中心。そこには、アバドンが砂漠の全マナを制御するために露出させた、眩い黄金色の「地脈の要」そのものが、鼓動する心臓のように剥き出しになっていた。
「……あそこを叩けば、この砂遊びも終わりってわけね!!」
シオンは、逆巻く砂の礫を全身に浴びながら、魔剣『雷月』を逆手に構えた。
現在、彼女が使えるのはジズの風、サラマンダーの熱。だが、この圧倒的な物量の砂嵐を突破するには、さらなる「重さ」が必要だった。
「鍵よ、応えなさい!! この星の、大地の怒りを見せてやりなさい!!」
シオンが懐から取り出した【創世の鍵】を雷月の鍔元へ強引に叩き込むと、鍵は青白い紫電を放ちながら、周囲の重力そのものを歪め始めた。
彼女が引き出したのは、かつて静寂の谷で対峙した『ベヒモスの残滓』と、この砂漠の根底を流れる『大地の重圧』。
「ハク!! 全影を解放しなさい!! 奴の動きを、一瞬だけでいいから地面に縫い付けろ!!」
「……ッ、死ぬ気かよ!? ……だが、相棒の頼みだ、断れねぇなぁ!!」
ハクが口の端から血を流しながら、自らの全存在を影へと変換した。砂漠の地平線すべてを覆い尽くすほどの漆黒の影が、暴風となって荒れ狂う結晶砂の一粒一粒に『重力の楔』を打ち込む。
「今よ!! ――『極光・地穿雷断』!!!!」
シオンは流星の如き速度で、砂嵐の最深部へと突っ込んだ。
ベヒモスの重圧を纏った雷月が、黄金に輝く地脈の核へと、一切の慈悲なく叩き込まれる。
ドガァァァァァァァァァァァァァンッ!!!!
核が砕け散ると同時に、世界から色が消えた。
激しく渦巻いていた砂の嵐は、魔法の糸を切られた人形のようにその場に力なく崩れ落ち、ただの動かない砂の山へと戻っていく。
そして、核のあった場所には、アバドンの力を完全に吸い上げ、さらに眩い黄金色へと進化した『第三の属性』を宿した鍵が、シオンの手の中で静かに熱を帯びていた。
「……ハァッ、ハァッ。……これで、三つ目」
砂の山の上に膝を突いたシオンの頬を、一筋の汗が伝う。
彼女たちの足元には、静寂を取り戻した黄金の砂漠が、どこまでも虚無的に広がっていた。
黄金の流砂竜アバドンとの死闘は、暁の星徒たちに新たな「力」と、それ以上に深い「消耗」をもたらした。
灼熱の火山から、命を削る砂漠へ。休息なき神話狩りの旅は、一行の装備をボロボロにし、精神を極限まで摩耗させていく。
だが、手にした【創世の鍵】は、三つ目の地脈の要を喰らい、今やそれ自体が一個の小宇宙のような重厚な魔力圧を放ち始めていた。
シオンは、砂に埋もれた魔剣を引き抜き、遥か彼方の空を見上げる。
アノンの示す次の座標は、アウストラ大陸の北東——そこは、これまでとは一転して、大陸の裂け目から冷たい潮風が吹き込む「極東の深海」へと続いていた。
砂の海の次は、本物の海。
星の涙を束ね、すべての航路を拒絶する最後の覇獣リヴァイアサンが、その深淵の底で特異点たちの来訪を待っている。
泥だらけの異邦人たちは、砂を払い、渇いた喉を潤す間もなく、星の存亡を懸けた最後の大航海へと、その泥臭い一歩を踏み出すのであった。




