第六章7『焦熱の火口と、目覚めし火竜』
静寂の谷という名の「偽りの聖域」を脱出した一行を待ち受けていたのは、星の肺が吐き出す熱き吐息であった。
紅の大陸アウストラの中央部に鎮座する、大陸の心臓にして地獄の門——【焦熱の活火山地帯】。
そこは、かつて神話の時代に火の理を司った巨獣、火竜サラマンダーが永き眠りについたとされる絶対の禁足地である。
虚神の影が大陸を徐々に黒く塗り潰し始める中、シオンたちの手にある【創世の鍵】は、次なる力を求めて脈打つように黄金の光を放ち、火口の深淵を指し示していた。
一歩進むごとに大気が揺らぎ、吸い込む空気すらも喉を焼く猛熱の世界。
だが、泥だらけの異邦人たちの足取りに迷いはない。彼らが求めているのは、安らかなる生ではなく、運命を焼き尽くし、新たな世界を切り拓くための「絶対的な力」なのだ。
灼熱の風が吹き荒れる中、星の未来を懸けた二つ目の神話狩りが、陽炎の向こう側で静かに牙を剥こうとしていた。
「……っ、暑いなんてレベルじゃないわね。ここ、本当に生き物が立ち入っていい場所なの?」
シオンは、顔に滴る汗をボロボロの袖で拭いながら、目の前に広がる景色に目を細めた。
足元を流れるのは、土ではなく半ば融解した赤黒い岩。周囲の岩壁は、地底から噴き出す魔力の熱によって赤々と発光し、立ち上る硫黄の煙が視界を黄色く濁らせている。
背中の『ジズのマント』が、風の魔力を放出してかろうじて周囲の温度を数度下げてはいるが、それでも一歩踏み出すたびに靴の裏から焦げた臭いが漂ってくる。
「ガハハハッ! 最高のサウナじゃねぇか! 贅肉と一緒に、甘っちょろい精神も全部溶けていきそうだぜ!!」
龍崎が、赤銅色に熱せられた『覇獣の魔鋼鎧』をガシャガシャと鳴らしながら豪快に笑う。だが、その肌はすでに真っ赤に焼け、立ち上る蒸気は笑い事ではない過酷さを物語っていた。
「龍崎殿、無理は禁物です。……ハク殿、影の遮熱はまだ持ちますか?」
カイルが、白銀の聖剣を鞘のまま杖にして、ふらつく足取りで問いかける。
「……無茶言うな。俺の影だって、この熱じゃ『蒸発』しそうなんだよ……」
ハクは、普段の余裕を完全に失い、自身の影を可能な限り小さく収束させていた。彼のような精霊に近い存在にとって、火山の「陽のマナ」の塊は、毒にも等しい破壊的なエネルギーだった。
「アノン。火竜の正確な位置は?」
シオンが懐の【創世の鍵】を強く握りしめる。鍵は、この火山の深部へ向かうほどに、熱を帯びた脈動を強めていた。
『……前方、中央火口の直下。深度八百メートルに、巨大な高エネルギー反応を確認』
アノンの声が、熱によるノイズを僅かに含みながら響く。
『……ですが、シオン。火竜サラマンダーの周囲に、無数の「泥の波長」を検知しました。虚神の末端が、すでに火竜の休眠場所を汚染し、その魔力を直接奪おうとしています』
「なんですって……!? せっかくの『ご馳走』を、あの宇宙のゴミに横取りされるわけにはいかないわよ!!」
シオンの瞳に、熱波を凌駕するほどの紫電の殺意が宿る。
一行が険しい火口の縁に辿り着いた、その瞬間。
ズゴォォォォォォォォォォォォンッ!!
足元の大地が、爆発的な震動と共に大きく跳ね上がった。
中央火口の底から、天を衝くような火柱が立ち上り、その中から黄金の瞳を持つ、深紅の鱗に覆われた巨躯が姿を現した。
全長百メートルを超える、神話の火竜サラマンダー。
だが、その美しいはずの紅蓮の鱗には、どす黒い「泥」が蔦のように絡みつき、狂気と苦悶を撒き散らしながら暴れ狂っていた。
「ギィィィィィィィィィィィッ!!!!」
火竜の咆哮一つきで、周囲の岩壁が音を立てて融解する。
虚神の汚染によって理性を失い、目に入るものすべてを焼き尽くそうとする、狂える火の神。
「……上等よ。あんたを泥の呪縛から解放して、その力、丸ごと私の鍵に食わせてあげるわ!!」
シオンは灼熱の風を切り裂き、魔剣『雷月』を抜き放った。
空を赤く染める火花の舞いの中、二つ目の神話——火竜との死闘が、溶岩の渦巻く絶望の淵で幕を開けた。
「全員、散れ!! その火花に触れるな、一瞬で骨まで焼かれるわよ!!」
シオンの鋭い警告と同時に、火竜サラマンダーが大きく顎を開いた。その喉の奥で、超高熱に圧縮された溶岩の弾丸が爆ぜる。
ドォォォォォォンッ!!
放たれた火球がシオンのいた場所に着弾し、一瞬にして岩盤を真っ赤な粘土のように融解させた。シオンはジズのマントを翼のように広げ、上昇気流を捉えて空へと逃れるが、熱風が肌を直接炙り、呼吸をするたびに肺が焼けるような痛みが走る。
「ガハハハッ! 避けてばかりじゃシノギにならねぇ! ――オラァッ、お返しだァァッ!!」
龍崎が、赤銅色に輝く『覇獣の魔鋼鎧』の重量を活かして、溶岩の川を強引に跳躍した。ベヒモスの骨から打たれた魔鋼の大剣が、火竜の分厚い脚部に向けて叩きつけられる。
ガキィィィィィィィィィンッ!!
火花が散り、鋼と鱗が激突する轟音が火口内に反響した。だが、火竜を侵食している『反魔力の泥』が、龍崎の打撃の衝撃を黒いクッションのように吸収し、さらには大剣の刀身をドロドロと腐食させ始めた。
「……ッ!? 俺の大剣を食いやがったか、この泥ネズミめ!!」
「龍崎殿、下がれ! ――『浄化の光刃』!!」
カイルが白銀の聖剣を一閃し、龍崎の大剣に絡みつこうとした泥を浄化の光で焼き切った。その隙に、リオナが純白の結界を全員の周囲に展開するが、降り注ぐ火の粉と泥の瘴気によって、結界は見る見るうちにひび割れていく。
「……アノン! あの泥、サラマンダーの核を直接支配してるわね!?」
空中を自在に舞いながら、シオンが叫ぶ。
『肯定します。火竜の背中、第三関節付近に「泥の根」が集束しています。……あそこを断ち切らない限り、火竜の無限の熱量はすべて虚神の糧となり、私たちの攻撃も無力化されます』
「……了解したわ。ハク! 泥に触れないように、あいつの視界を影で塞ぎなさい! 決定打は私がぶち込む!!」
「無茶を言うなよ……! だが、やってやらぁ!! ――『影縛・千棘』!!」
ハクが灼熱の岩盤に両手を突き立てた。高熱によって自身の魔力が削られる激痛に耐えながら、千本の影の棘を噴出させ、火竜の巨大な双眸を下から突き刺すように覆い隠す。
「ギィェェェェェェェェェェッ!!!!」
視界を奪われたサラマンダーが狂乱し、周囲に無差別の火炎放射を撒き散らす。
その猛火の嵐の中を、シオンは『創世の鍵』を雷月の柄に接続し、弾丸のような速度で突撃した。黄金の光と紫電が混ざり合い、彼女自身が一本の巨大な雷の槍と化す。
「目覚めなさい、星の守護者!! あんたの熱は、そんなゴミにくれてやるためのものじゃないでしょ!!」
シオンは火竜の背上へと一気に肉薄し、泥が最も濃く集束している漆黒の塊目掛けて、黄金の雷刃を深々と突き立てた。
ズバァァァァァァァァァンッ!!!!
黄金の光が泥の呪縛を内側から爆破し、火竜の咆哮が火口全体を揺るがした。 泥と炎が混ざり合う狂気の中、シオンの瞳は、その奥に眠る真の火の輝きを、しっかりと射抜いていた。
「……貫けぇぇぇぇぇぇッ!!」
シオンが叫ぶと同時に、雷月の刀身から解き放たれた黄金の雷光が、火竜の背を覆っていた「泥の根」を内側から焼き尽くした。
ジュゥゥゥゥゥゥゥゥッ!! という、呪詛が蒸発するようなおぞましい音が響き、サラマンダーの全身を縛っていたどす黒い蔓が、ボロボロと灰になって剥がれ落ちていく。
「ギ、ギィィィィ……ルォォォォォォォォォッ!!」
絶叫に近い咆哮が上がった。
だが、その声は先ほどまでの狂乱に満ちたものではない。泥の支配から解き放たれ、星の守護者としての気高さ――そして、余計な夾雑物を削ぎ落とした「純粋な破壊の意志」が戻った音だった。
「……ッ、姉御、離れろ!! そいつはもうバケモノじゃねぇ、本物の『神』に戻りやがった!!」
龍崎の叫びが届くより早く、サラマンダーの全身から、それまでの数倍に膨れ上がった超高熱の衝撃波が円形に放たれた。
「――っ、しまっ……!!」
シオンは空中でジズのマントを盾にするが、あまりの熱量にマナが燃え上がり、火口の壁面へと叩きつけられる。
泥に頼らぬ火竜の真の熱量は、火口そのものを一つの巨大な太陽へと変えていた。
『警告。サラマンダーの魔力出力、臨界点を突破。……シオン、対象は全エネルギーを一点に集約し、この階層ごとすべてを灰に還すつもりです!!』
アノンの警告通り、火竜は翼を大きく広げ、その胸元に眩いばかりの紅蓮のコアを露出させた。
もはや、通常の手段では防ぎきれない。
「……ハク! カイル! リオナ!」
壁に背を預けたまま、シオンが叫ぶ。
「あんたたちの魔力を、全部私に寄越しなさい!! 鍵を……『創世の鍵』を、強制駆動させるわ!!」
「無茶を言うな、シオン! その鍵はまだ調整が……ッ!」
「四の五の言わないで!! 食われるか、食うかの二択よ!!」
ハクが漆黒の影を、カイルとリオナが光の奔流を、弾丸のようにシオンへと放った。
シオンは火傷を負った手で、懐の黄金の水晶を魔剣の柄に強く押し当てる。
「飲み込みなさい、私たちの意地を!! ――『神話解体・紅蓮極光』!!!!」
火竜から放たれた極大の火炎放射と、シオンの放った黄金の雷光が、火口の中央で真っ向から激突した。
ドガァァァァァァァァァァァァンッ!!
空間そのものが歪み、溶岩の川が逆流する。
押し問答は数秒。だが、シオンの鍵は火竜の放つエネルギーそのものを「捕食」するように吸い込み、その輝きを増幅させて押し返した。
黄金の光が火竜の胸を貫いた。
一瞬の静寂の後、サラマンダーの巨躯は、音を立てて崩れ落ちるのではなく、数千の美しい火の粉となって空へと舞い上がった。
その中心から、眩い紅蓮の魔核が、シオンの手にする『創世の鍵』へと吸い込まれていく。
「……ハァッ、ハァッ。……二つ目、回収したわよ」
熱波が引いた火口の底で、シオンは膝を突きながら、一段と熱く、そして重みを増した黄金の鍵を見つめていた。
その腕は火竜の熱で焼け、マントはボロボロになっていたが、彼女の紫の瞳には、神話の巨獣を一人、また一人と喰らい尽くしていく、底知れぬ野心の炎が燃え盛っていた。
火竜サラマンダーの討伐は、一行にとって単なる素材回収以上の意味を持っていた。
かつては星の平穏を守る「装置」であった神話の巨獣が、虚神の汚染によって狂える獣へと堕ちていた現実。そして、その汚染を解いたとしても、なお彼らは戦い、その力を奪い取らねばならないという非情な宿命。
泥だらけの異邦人たちは、救世主ではない。
彼らは自分たちが自由を掴み取るために、星の記憶そのものをその身に刻み、必要とあれば神話の主たちを屠る「開拓者」であり「侵略者」なのだ。
手に残る火竜の熱は、そのまま【創世の鍵】の拍動となってシオンの魂を打ち据える。
二つの属性を宿した鍵は、今やそれ自体が一個の生命体のような威圧感を放ち始めていた。
だが、休息の時間は与えられない。
火山の熱気が冷めやらぬ中、アノンの指し示す次なる方位は、アウストラ大陸の西方——そこは、一切の風が死に、あらゆる生命の方向感覚を奪う「生きた大砂漠」であった。
次なる神話、黄金の流砂竜との闘い。一行は、自らの肉体をさらに硬く、鋭く鍛え上げながら、陽炎の揺れる黄金の地平へと、その泥だらけの歩みを進めていく。




