第六章4『戦士の休息と、砂に沈む遺物』
血と汗、そして紫電と暴風が吹き荒れた灼熱の大地にも、やがて静寂で冷たい夜が訪れる。
神のシステムという名の枷が外れた世界は、牙を剥く時は理不尽なまでに残酷だが、それを乗り越えた者には等しく「極上の恵み」を与えてくれる。
紅の大陸アウストラ。その過酷な赤砂の荒野に、今夜ばかりは魔獣の遠吠えではなく、赤々と燃え盛る篝火の爆ぜる音と、陽気な男たちの笑い声が響き渡っていた。
空を統べ、大地を喰らう神話の巨獣たち。それらを立て続けに狩り尽くした暁の星徒たちは、一切の追撃を恐れることなく、巨獣の亡骸そのものを防壁とした巨大な野営地を築き上げていた。
戦いの時間は終わった。ここから先は、泥だらけの異邦人たちが最も得意とする「奪い取った獲物を喰らい、己の血肉と牙に変える」ための時間だ。
緊張の糸を解き、冷たい夜風の中で火を囲む彼らの横顔には、絶望の迷宮を抜けた者だけが持つ、逞しくも穏やかな生存者の笑みが浮かんでいた。
「ガァッハッハッハ!! 遠慮すんじゃねぇぞお前ら! 空の王様のお肉は、とんでもなく上等だ!!」
燃え盛る巨大な篝火の正面で、上半身裸になった龍崎が大剣の代わりに巨大な鉄串を握り回し、豪快に肉を焼いていた。
鉄串に刺さっているのは、討伐したばかりの空の巨鳥『ジズ』の肉塊である。
極道たちが大湧泉から持ち込んでいた秘伝のスパイスと、この大陸で採取した魔力を含んだ岩塩が振りかけられ、滴り落ちる脂が炎に触れるたびに、暴力的なまでに食欲をそそる香ばしい匂いが野営地全体に充満していた。
「……うわっ、本当に美味しい! 鶏肉みたいにあっさりしてるのに、噛むとマナの旨味が口の中にジュワッて広がるよ!」
純白のドレスの上に防寒用のマントを羽織ったリオナが、両手で串を持ち、火傷しそうになりながらも満面の笑みで肉を頬張っている。
「本当ね。ベヒモスの肉が硬すぎて使い物にならなかった時はどうしようかと思ったけど、こっちの鳥は大当たりだわ」
シオンも、切り株代わりにしているジズの魔力羽の上に腰を下ろし、豪快に肉を齧りながら持参した樽酒を呷った。
神域での概念を巡る重苦しい死闘から一転し、自分たちの足で大地を踏みしめ、狩った獲物をその場で喰らう。これこそが、彼女たちが望んでいた「生きている」という絶対的な実感だった。
「……チッ。どいつもこいつも暢気に飯食いやがって」
少し離れた篝火の影で、ハクが膝を抱えながら舌打ちをする。
「文句を言いつつ、ハク殿の足元の骨の数、誰よりも多いようですが」
ゼッカが、淹れたてのハーブティーを傾けながら、サングラスの奥で面白そうに目を細めた。ハクの足元には、綺麗に平らげられた巨大な骨の山がすでに三つも築かれている。
「うるせぇ! 俺は精霊獣だから燃費が悪いんだよ!」
ハクが顔を赤くして吠える背後で、幻狼たちもまた、ジズの巨大な残骸を分け合い、至福の喉を鳴らしていた。
一方、野営地の少し外れでは、カーン、カーンと、夜の静寂を打つような小気味良い金属音が響いていた。
昼国の鍛冶師たちと龍崎の舎弟たちが、簡易の魔力炉を立ち上げ、休む間もなく【装備の加工】に取り掛かっていたのだ。
「シオン女王陛下! 龍崎のアニキ! ちょっと見てくだせぇ!!」
興奮しきった様子の舎弟の一人が、分厚い皮の手袋に抱えるようにして、出来上がったばかりの一振りの「武器」を焚き火の元へと持ってきた。
それは、ジズの鋭利な嘴の先端と、ベヒモスの青銅の骨を組み合わせて急造された、漆黒と青緑色が混ざり合う『魔導短剣』であった。
「ゼッカの旦那の言う通り、あのデカ鳥の嘴の素材、とんでもねぇッス。マナを通しただけで、刃の周りに『真空の刃』が自動展開しやがる! これなら、どんな魔獣の装甲もバターみたいに裂けますぜ!」
「おおっ! でかした! そいつはドブネズミの連中に優先して回してやれ!」
龍崎が身を乗り出して短剣の仕上がりを絶賛する。
「ありがとうございます。……それと、シオン様」
ゼッカが恭しく一礼し、シオンに向かって一つの包みを差し出した。
「ジズの魔力羽の最も純度の高い部分と、ベヒモスの耐熱装甲の繊維を編み込んだ、特注のマントです。防弾・防刃はおろか、高位の属性魔法すらも『風に受け流す』特性を持っています。ぜひ、羽織ってみてください」
シオンが包みを開けると、夜の闇に溶け込むような深い漆黒でありながら、光の加減で青緑色の嵐の紋様がふわりと浮かび上がる、極上のマントが姿を現した。
シオンがそれを肩に羽織ると、驚くほど軽く、そして夜の冷気を完全に遮断する優しい温もりが彼女の身体を包み込んだ。
「……最高ね。ゼッカ、それに職人のみんな、本当にありがとう」
シオンがマントを翻し、嬉しそうに紫の瞳を輝かせる。
神の玉座を破壊した伝説の武器『雷月』を腰に帯び、神話の巨獣の力を編み込んだマントを纏う。その姿は、もはやスラムを這いずり回っていた異邦人ではなく、真なる魔法世界の理を切り拓く【覇王】としての絶対的な風格を備え始めていた。
「美味しいお肉に、新しい装備。……ふふっ、なんだか私たち、本当に『冒険者』みたいになってきたね」
リオナが、焚き火の温もりに目を細めながら、隣に座るカイルに笑いかける。
「ええ。我々が自らの手で掴み取った、正当な勝利の報酬です」
カイルもまた、手入れを終えた白銀の聖剣を膝に置き、穏やかに微笑み返した。
戦いの重圧から解放され、満天の星空の下で、仲間たちと炎を囲み、力を蓄える。
読者も、そしてシオンたち自身も、この泥臭くも温かい『生の実感』に深く息を吐き、心地よい疲労感に身を任せていた。
だが。
この広大で理不尽な星は、彼らをただのキャンパーとして終わらせてはくれない。
『……地形データの異常を検知。現在地より南南東、約五キロの地点』
木箱の上に座って、ジズの肉の串焼きを無表情でかじっていたアノンが、不意にその緑色の瞳を夜の砂漠へと向けた。
「異常? まさか、またベヒモスみたいなバケモノが起きたのか?」
ハクが即座に立ち上がり、警戒の影を広げる。
『否定します。生体反応はゼロです』
アノンは、串焼きの肉を飲み込み、空中に一枚の赤外線ホログラムを投影した。
『……先ほどのジズの墜落地点。超質量の激突によって赤砂の大地が深く抉られたことで、地下数百メートルの地層に埋没していた【超巨大な人工物】が、地表に露出しました』
「人工物、だと……?」
シオンの顔つきが、スッと冒険者のそれへと切り替わる。
アノンの投影した映像。
そこには、赤砂の巨大なクレーターの底に、まるで巨大な魚の骨のように姿を現した、金属と水晶で構成された『流線型の巨大な古代船(あるいは列車)』のような遺跡の姿が映し出されていた。
『……材質の年代測定、および残留マナの波長パターン。……神のシステムがこの星を支配するよりもさらに前。旧時代(前世)の人類が、マナの力を利用して建造したとされる【魔導方舟】の残骸と推測されます』
「前世の……大魔導士たちが創った船……」
カイルが、息を呑んでそのホログラムを見つめた。
怪物ではない。
それは、数千年の間、この過酷な紅の大陸の地下深くで眠り続けていた、失われた文明と英知の結晶。
神の理に隠蔽されていた「本当の星の歴史」が、赤砂の中から彼らを呼んでいるのだ。
「……ガハハハッ! 聞いたかお前ら! 怪物の次は、本物の『宝探し(トレジャーハント)』のお出ましだぜ!!」
龍崎が大剣を担ぎ上げ、舎弟たちも「オラァッ! 遺跡の金銀財宝は全部俺たちのモンだ!!」と血走った目で歓声を上げる。
「ちょっと、龍崎! 罠があるかもしれないんだから、勝手に突っ走らないでよ!」
シオンが苦笑しながら立ち上がり、新調したマントを夜風に翻した。
「……でも、まあ。お腹も膨れたことだし、食後の運動にはちょうどいいわね」
紫の瞳に、好奇心と野心の炎を赤々と燃やし。
泥だらけの異邦人たちは、神話の巨獣を狩る闘争から一転、数千年の謎が眠る『砂の遺跡』へと、新たな冒険の歩みを進めるのであった。
月明かりの下、巨大なクレーターの底へと降り立った一行を待ち受けていたのは、数千年の静寂を纏った銀白の巨体であった。
赤砂に埋もれていたその遺物は、アノンの推測通り、かつての文明の英知が結晶化した『魔導方舟』の残骸である。流線型の船体には、現代の兵器とは一線を画す、流れるような曲線美と複雑な魔力回路の紋様が刻まれていた。
「……こりゃあ、たまげたな。大湧泉の地下で見つけた石碑も凄かったが、こいつはまるごと一艘の『船』かよ」
龍崎が、畏怖の念を込めて銀白の外壁にそっと触れる。
指先から伝わるのは、金属の冷たさではなく、微かに脈打つような、どこか懐かしい魔力の残響だった。
「……シオン。私、ここを知っている気がする」
リオナが、何かに導かれるように船体の亀裂へと歩み寄る。
「ええ。私もよ。……いいえ、『私たち』が知っているはずだわ。これは、私たちの魂がこの箱庭に囚われるよりもさらに前……あの大戦の真っ只中で、私たちが最後に創り上げたものよ」
シオンが魔剣『雷月』を背負い直し、裂けた装甲の隙間から船内へと足を踏み入れた。
内部は、外部の灼熱が嘘のように冷え切った静寂に包まれていた。廊下の壁面には、侵入者の魔力に呼応して淡い藍色の光が灯り、数千年の時を超えて眠りから覚めた「記憶」が、ホログラムのように空中に揺らめいている。
一行は、吸い寄せられるように船の中枢――かつて『操舵室』と呼ばれたであろう広大な円形の間へと辿り着いた。
そこには、神の理が支配する以前の、純粋な魔法技術の粋を集めた制御壇が鎮座していた。
「……アノン。起動できる?」
『肯定します。残留マナの認証を開始……。個体識別、特異点アルファ、ベータ、ガンマ、デルタを承認。……封印を解除します』
アノンの声と共に、制御壇の中央から一条の光が天に向かって噴き上がった。
眩い閃光が収まった後、そこに浮かび上がっていたのは、一人の女性の立体映像だった。
その姿を見た瞬間、シオンたちは息を呑んだ。
そこに映し出されていたのは、現在の彼女たちよりも少し大人びた、しかし紛れもなく『前世のシオン』自身であった。
『――このメッセージが再生されているということは、私の……いいえ、私たちの「賭け」は成功したということね』
ホログラムのシオンが、悲しげに、しかし確かな意志を宿した瞳で語りかける。
背後には、同じく前世の姿をしたカイル、リオナ、ハク、そして現在は管理者となっている親友の姿も映り込んでいた。
『私たちは、神の理という名の檻を創った。……それは、この星を滅ぼそうとする「外宇宙からの汚染」から、人類の魂を一時的に隠蔽し、守るための最後の手段だった』
「外宇宙からの、汚染……?」
ハクが、動揺を隠せないまま呟く。
『けれど、私たちは知っていた。システムはやがて暴走し、安定を求めるあまりに「停滞」という名の緩やかな死を世界に強いることを。……だからこそ、私たちは自らの記憶を封印し、数千年後の世界に転生するという禁忌の魔術に手を染めたの』
ホログラムの彼女は、慈しむような視線を現在のシオンたちへと向けた。
『未来の私たちへ。……あなたたちがシステムを打ち破り、この方舟に辿り着いたのなら、それはこの星が「本来の過酷さ」と、それ以上に「無限の可能性」を取り戻した証拠よ。……けれど、忘れないで。システムが消えた今、かつて私たちが恐れた「真なる災厄」もまた、再びこの星へと目を向け始めているわ』
シオンが、思わずホログラムに手を伸ばす。
『紅の大陸アウストラ……。その最南端にある【静寂の谷】に、私たちの本当の遺産を隠しておいた。……そこにある「鍵」を手にしなさい。それが、この星の未来を……今度こそ、私たちの手で創り変えるための唯一の希望よ。……さあ、顔を上げて。泥だらけになっても、私たちは……』
ノイズが走り、ホログラムが静かに掻き消えた。
船内には再び深い静寂が戻り、ただ一行の荒い呼吸の音だけが響いていた。
「……そういうことだったのね」
シオンが、自らの両手を見つめ、静かに呟いた。
「私たちがこの地に投げ出されたのも、システムと戦ったのも……偶然じゃなかった。数千年前の私たちが、自分たちに託した『宿題』だったんだわ」
「外宇宙の汚染に、真なる災厄……。どうやら、神様を倒して一段落、なんて甘い状況じゃないみたいだな」
ハクが、漆黒の影を苛立たしげに揺らす。しかしその瞳には、かつてないほど強烈な「目的」の光が宿っていた。
「……行きましょう、シオン様。我々の前世が、命を懸けて託した未来です。……それを見届けるのが、我々『暁の星徒』の務めです」
カイルが聖剣を握り直し、毅然とした態度で告げる。
「うん! ……なんだか、あっちの大陸の端っこに、すごく大事なものが待っている気がするよ。……龍崎さんたちも、手伝ってくれる?」
リオナの問いに、龍崎はニヤリと牙を剥き、大剣の柄を力強く叩いた。
「ガハハハッ!! 当たり前だ!! 前世の因縁だか何だか知らねぇが、この船の正体を知っちまった以上、最後まで付き合わなきゃ極道の名が廃るってもんだ! ――野郎ども! 荷物をまとめろ! 目指すは大陸の最果て、【静寂の谷】だ!!」
古代の英知が眠る砂の遺跡を後にし、一行は再び灼熱の荒野へと躍り出た。
かつて自分たちが創り出し、そして自分たちが壊した世界の理。
その向こう側にある「真実」を手にするための、新たな希望と因縁に導かれた開拓の旅が、紅の月が昇る夜の砂漠で、より深く、より熱く加速し始めた。
数千年の時を超えて届けられた、自らの魂からのメッセージ。
それはシオンたちにとって、これまでの戦いの意味を肯定すると同時に、さらなる巨大な責任と未知の脅威を突きつけるものとなった。
神のシステムが、実は「外敵」から人類を守るための盾であったという事実は、これまでの善悪の価値観を根底から揺るがすかもしれない。しかし、それでも彼らは立ち止まらない。
停滞という安らぎを捨て、過酷であっても「自由な未来」を選んだのは、他でもない彼ら自身なのだ。
巨獣を狩り、素材を剥ぎ取り、そして失われた古代の英知を掘り起こす。
泥だらけの異邦人たちの冒険は、今や単なる生存競争を超え、星の運命を左右する壮大なレガシー(遺産)の争奪戦へと変貌を遂げようとしている。
次なる目的地は、この大陸の最南端、すべての音が消えるという【静寂の谷】。
そこには一体、どのような「鍵」が眠っているのか。そして、ホログラムの彼女が警告した「真なる災厄」とは何なのか。




