第五章3『魔獣の宴と、白銀の鍛冶場』
大湧泉の堅牢な城門が、重々しい地響きと共にゆっくりと開かれる。
夕闇が迫る新世界の空の下、土埃と魔獣の返り血に塗れた一行が城壁の中へと足を踏み入れると、待ち構えていた数千の民衆から割れんばかりの歓声が沸き起こった。
ヤクザの組員たちが数人がかりで引く巨大な荷車の上には、新世界の生態系の頂点たる『岩鎧の巨熊』の亡骸が、戦利品として誇らしげに横たわっている。
かつての冷たいコンクリートと排気ガスの匂いは完全に消え去り、そこにあるのは、魔獣の放つ濃密なマナの残滓と、生きるために牙を剥いた戦士たちの熱き凱旋の空気だけであった。
大通りを練り歩く凱旋パレードの中心で、巨大な魔鋼の大剣を肩に担いだ龍崎が、沿道から降り注ぐ歓声に豪快に手を振って応えていた。
派手な柄シャツと細身のスーツをとうの昔に脱ぎ捨て、分厚い魔獣の革を幾重にも重ねた防具を身に纏ったその姿は、もはや現代日本の広域指定暴力団の若頭などではない。数千年の時を超えたこのファンタジー世界において、力と任侠でシマを切り拓く歴戦の『ギルドマスター』そのものであった。
「オラァッ! 見てみろこのバカデカい獲物を! 俺たち龍崎ギルドと、シオンの姉御たちが今日仕留めたとびきりの晩飯だぜ!!」
龍崎の野太い声が響き渡ると、彼に従う舎弟たちも、血に濡れた長剣や戦斧を天に突き上げて誇らしげに叫んだ。
「アニキ、最高ッス!!」
「弾の出ねぇチャカなんて最初からいらねぇんだよ! 俺たちの気合とこの剣一本があれば、どんなバケモノだって三枚下ろしだ!!」
熱狂的なパレードのすぐ後ろを歩きながら、シオンは漆黒の魔剣『雷月』の柄に手を置き、呆れたような、しかしどこか心底嬉しそうなため息を漏らした。
彼女が羽織るレザージャケットの裾は巨熊の返り血で僅かに汚れていたが、その紫の瞳には、かつて復讐に囚われていた死神の暗さは微塵もなく、ただ純粋な闘争の後の高揚感が宿っていた。
「……たくっ。あいつら、完全にこの世界のノリをエンジョイしてるわね。数日前に異世界転移に巻き込まれたばっかりの人間の適応力じゃないわ。本当に図太い連中」
「ガハハハ! 頼もしい限りではないか、シオン女王陛下! 彼らのその底抜けの闘志と義理人情こそが、この未開の大地を切り拓く最大の武器となるのだ!」
夕日を受けて赤く染まる純白の甲冑を鳴らし、ジーグ将軍がシオンの隣で力強く頷いた。
昼国の光の騎士たちと、現代の極道たち。生まれも育ちも、背負ってきた常識も全く異なる彼らだが、圧倒的な力を持つ魔獣に共に立ち向かい、互いの背中を預け合うことで、その間には種族や世界観の壁を越えた太く熱い絆が確実に結ばれつつあった。
一行が中央広場に到着するや否や、荷車に積まれていた巨熊の亡骸は、昼国の熟練の解体師たちによって瞬く間に捌かれていく。巨大な刃物が滑らかに肉と骨を切り離し、広場には濃厚な生命の匂いが立ち込める。
だが、彼らの最大の目的はただの食料調達ではない。
「おお……! なんという高純度な魔力鉱石だ! この巨熊、岩の装甲の奥に、大地から直接吸い上げたマナの結晶を骨格にまで癒着させておるぞ!」
煤だらけの顔をした昼国の鍛冶長が、巨熊から剥ぎ取られたばかりの分厚い装甲板と、人間の胴体ほどもある巨大な牙を前にして、ブルブルと感動に打ち震えていた。
その岩の表面には、青白いマナの脈絡が血管のように走り、夕闇の中でも微かに発光している。
「どうですか、鍛冶長。これほどの素材なら、現代の機械を混ぜずとも、純粋な魔力武具として最高のものが打てるのではありませんか?」
白銀の聖騎士カイルが、解体された魔力鉱石の塊を素手で持ち上げながら、期待に満ちた声で尋ねる。
始源の石碑の波動によってあらゆる電子回路が死滅した今、彼らがこれから『硝子の廃都トキオ』という神域のダンジョンへ向かうためには、現代兵器の残骸に頼らない、純粋かつ圧倒的な威力を誇る新しいファンタジーの武具が絶対に必要だったのだ。
「ええ、間違いありませんカイルの旦那! この鉱石の硬度は、我々がかつて箱庭で使っていた鉄鋼の数十倍! これを炉で完全に溶かし、旦那の白銀の魔力と、シオン様の紫雷を触媒にして打ち上げれば……伝説に語られるような【神代の武具】すら再現できるやもしれませぬ!」
鍛冶長の興奮しきった言葉に、広場に集まっていた戦士たちの目が一斉にギラリと飢えた獣のように輝いた。
より強く、より鋭い武器。それは、この過酷な新世界の生態系を生き抜くための絶対的な渇望である。
「よし! なら今夜は宴会で腹ごしらえをして、明日から徹夜で武具の強化合宿だ! カイル、あんたも炉の魔力供給を頼むわよ!」
シオンが力強い号令をかけると、鍛冶師たちと龍崎ギルドの男たちが「おおぉぉぉっ!!」と地鳴りのような歓声を上げ、広場の熱気は最高潮に達した。
その狂騒とも言える喧騒から少し離れた、広場の暗がりで。
黒いパーカーのフードを目深に被ったハクは、うるさすぎる宴の準備から逃れるように、そっと城壁の外へと続く裏門へ向かって歩き出していた。
「……チッ。どいつもこいつも馬鹿騒ぎしやがって。俺は少し静かなところで、さっきの熊の特上肉でも一人でゆっくり味わわせてもらうぜ」
ハクは、解体所からくすねてきた、自分の顔よりも巨大な骨付き生肉を片手に、夕闇が完全に沈み始めた『大湧泉の森』の奥深くへと足を踏み入れた。
始源の石碑の影響で、この森のマナは異常なほどに濃密だ。見上げるほど巨大に成長した木々は青白く発光し、宙には未知の精霊の粒子が蛍のようにフワフワと舞っている。幻想的でありながら、一歩間違えれば命を落とす危険な領域。
ハクが森の奥深く、水面が鏡のように星空を反射する泉のほとりでドカッと腰を下ろし、生肉に牙を立てようとした、その時。
ガサッ……ガサガサッ……。
背後の深い茂みから、複数の低い唸り声が聞こえてきた。落ち葉を踏み砕く重い足音と、獲物を狙う獣特有の濃密な殺気が、ハクを半円状に包み込もうとしている。
「……あァ? まだ俺に喧嘩を売ろうって命知らずの魔獣がいるのか?」
ハクは一切の焦りを見せず、紫の瞳を鋭く細めると、手にした肉を置き、背中から漆黒の影の爪を巨大な刃のように展開してゆっくりと振り返った。
茂みを掻き分けて姿を現したのは、銀色に輝く美しい毛並みを持った、五頭の巨大な『幻狼』の群れだった。
一頭一頭が馬ほどの体躯を持ち、その額にはマナが凝縮した一本の鋭い角が生えている。明らかに新世界の環境で急速進化した、森の上位捕食者たちだ。
彼らは低く唸り声を上げ、ハクに飛びかかろうと後ろ足に力を込めた。
だが、ハクが面倒くさそうに首を鳴らし、その身に宿る『上位の精霊獣としての圧倒的な魔力』をドス黒い影と共に周囲へ解き放った瞬間――。
ピタッ。
幻狼たちの動きが、完全に凍りついた。
彼らの本能が、目の前にいる小柄なパーカー姿の青年が、自分たちなど足元にも及ばない桁外れの「強者の魂」を持っていることを一瞬で察知したのだ。
「なんだ、やるのか? 束になってかかってきてもいいぜ。ちょうど食後の運動がしたかったところだ」
ハクが影の爪を鳴らし、凶悪な笑みを浮かべて一歩前に出る。
すると、群れのリーダー格と思しき一番大きな幻狼が、突然キャンッ! と短い悲鳴を上げ、ハクの足元に腹を見せてコロンと転がった。
それに続くように、残りの四頭もハクを取り囲むようにして地面に這いつくばり、クゥーン、クゥーンと高い声で鳴きながら、ハクの靴やパーカーの裾に顔を擦り付け始めたのである。
「……はぁっ!?」
ハクは、展開していた影の爪を引っ込め、ポカンと口を開けた。
「お、おい! お前ら、さっきまでの殺気はどうしたんだよ! なんで犬っころみたいに尻尾振ってんだ!」
ハクが困惑して足を引こうとするが、幻狼たちは「クゥン!」と甘えた声を出しながら、ハクが地面に置いていた骨付き肉をジッと見つめている。
「……もしかして、これが欲しいのか?」
ハクがため息をつきながら肉の骨を差し出すと、幻狼たちは歓喜に満ちた声を上げ、順番に肉をかじり始めた。そして、満足そうにハクの膝に巨大な顎を乗せ、目を細める。
まさか自分が、この新世界で誕生した強力な幻獣の群れに『群れのボス(アルファ)』として認識されてしまうとは、ハク自身も思ってもみなかっただろう。
だが、かつて夜国で孤独な精霊獣として忌み嫌われ、シオンというたった一人の主の影としてのみ存在していた彼が、いかにしてこの新世界で超進化した幻狼の群れを束ね、森の絶対的な『お頭』として君臨し、やがて来る防衛戦で恐るべき獣の軍団を指揮することになるのか――。
(※これはまた別の話である)
ハクが森の奥で思わぬ新しい家族(手下)に振り回されている頃。
城壁の内部、煌々と炎が燃え盛る大篝火の近くでは、もう一つの、平和だが騒がしい日常の光景が繰り広げられていた。
煌々と天を焦がす大篝火の傍らで、純白のドレスの上にフリルのついたエプロンを身につけたリオナが、籠いっぱいに採集されてきた新世界の奇妙な果実を前に、うんうんと細い腕を組んで悩んでいた。
「うーん……この赤い果実、切り口から魔力が溢れ出しすぎてて、生でかじったらピリピリして舌が痺れちゃったし……こっちの青い果実は、なんだか甘ったるすぎる匂いがするのよね……」
『……成分解析、完了。その赤色果実の果肉には、微量の麻痺毒と高純度のマナが混在しています。しかし、炎の熱を加えることで毒素の分子構造が分解され、極めて高い栄養価を持つ糖質へと変化します。……生存のためのエネルギー源として、非常に効率的です』
悩むリオナの背後から、一切の抑揚を持たない無機質な声が降ってきた。
ダボダボの黒いパーカーを着た銀髪の少女・アノンが、いつの間にかリオナの背中にピタリと張り付き、ガラス玉のような緑色の瞳で果実の山をジッと見つめている。
「あ、アノンちゃん! また音もなく後ろに立って! もう、カイルの背中での急速充電(?)が終わったら、ちゃんと声をかけてから来るんだからね」
リオナは、心臓を押さえて少し呆れたように笑いながらも、アノンの冷たい銀髪を優しく撫でた。
『……特異点ベータ(リオナ)。貴女の魔力波長は、カイルのような一定の安定した出力(Wi-Fi)ではありませんが、常に小刻みに変動する「ゆらぎ」があり、私の感情シミュレーション・センサーのテスト稼働に最適な環境を提供してくれます』
「ゆらぎって……それ、私がいつもカイルのことで照れたり、みんなのことで一喜一憂して、感情がブレまくってるからじゃないの?」
リオナは苦笑いしながらも、アノンが「安全だ」と分析した赤い果実をナイフで手際よく切り分け、焚き火の端に置いた鉄板の上に並べてジュージューと焼き始めた。
炎の熱が通るにつれ、果実の果肉から溢れていた微弱な麻痺毒の魔力が揮発し、代わりにキャラメルのような、とろけるほど甘く芳醇な香りが広場一帯に漂い始める。
リオナは程よく焼き上がった赤色の果肉を小さな木のスプーンですくい、フーフーと息を吹きかけて熱を冷ましてから、背中に張り付いているアノンの口元へとそっと差し出した。
「はい、アノンちゃん。あーんして」
『……未知の有機物摂取。以前のスープのデータ記録に基づき、これが「オイシイ」という事象に繋がる可能性を演算中……』
アノンは、無表情のまま小さく桜色の唇を開け、差し出された果肉をパクリと口に含んだ。
直後。彼女の緑色の瞳の奥で、淡く発光していたデジタルリングがピタッと回転を止め、そして、これまでにないほどの激しい速度で明滅を始めた。
『……糖度、前回摂取したスープの数値を大幅に超過。……脳内処理領域における報酬系ネットワークの異常活性化を確認。味覚センサーの限界値に到達……。これは……オイシイ、です』
アノンの小さな両手が、リオナのエプロンの裾を無意識のうちにギュッと、力強く握りしめた。その無表情な顔の奥底に、間違いなく「歓び」という感情の産声が上がった瞬間だった。
「ふふっ、よかった! アノンちゃん、最初は感情なんてないただのシステム端末だって言ってたけど、こうやって美味しいものを食べて、温かい火に当たってれば、きっと本当の『心』が分かってくるよ」
リオナは、アノンの冷たい頬を両手で優しく包み込んだ。
神のシステムが創り出した観測端末。本来なら、自分たちを数千年も幽閉し続けた憎むべき敵の一部であるはずの少女。だが、リオナとシオンは、この迷い子の少女に一切の敵意を向けず、ただの一人の新しい家族として、この温かい新世界の日常を教え込もうとしていた。
その微笑ましくも奇妙な姉妹のような光景を、少し離れた場所で見ていたゼッカが、漆黒のトレンチコートの襟を夜風から立てながら、シオンの元へと静かに歩み寄ってきた。
「……シオン女王陛下。平和な宴の最中に申し訳ありません。偵察に出していた泥ネズミの部隊が、東の境界線の果てから先ほど戻りました」
ゼッカの片目に嵌め込まれた義眼が、サングラスの奥で鋭く、そして険しい光を放つ。
「ご苦労様、ゼッカ。……それで、どうだった?」
シオンは、手にしていたハーブティーの木組みのカップを傍らの樽に置き、声音を低く落として、ただの少女から『王』の顔へと戻った。
「アノンが以前語っていた情報通りでした。この大湧泉から遥か東……かつて『東京』と呼ばれていた土地。その場所は、数千年の時と始源の石碑の波動によって完全にファンタジーの理に書き換わり、巨大なクリスタルと赤錆びた鋼鉄の残骸が融合した、恐るべき防衛迷宮へと変貌を遂げていました」
ゼッカは、懐から丸めた羊皮紙を取り出し、シオンの前に広げる。泥ネズミたちが命懸けで描いてきた、東の果ての地図だ。
「……その廃都の上空には、常に次元の裂け目のような赤黒い雷雲が渦巻き、我々の隠密結界すら容易く弾き飛ばすほどの【神域の防衛機構】が張り巡らされています。巨大なゴーレムのような神機兵が空を徘徊し、大地には意思を持った茨が蠢いている……あそこはもはや、人間の足を踏み入れるべき場所ではありません」
「【硝子の廃都トキオ】……。神の理の中枢へ繋がる、絶対のダンジョンね」
シオンの紫の瞳が、地図の東の果てに記された禍々しい髑髏の印を睨み据える。
数千年の時を経て、かつての巨大都市は、システムが自らを外敵から守るための難攻不落の要塞へと姿を変えていた。そこに何が眠り、どんな強大な神話の化身が待ち受けているのかは分からない。
現代兵器を失い、純粋な魔法と剣の力だけでその神域へと殴り込みをかけるには、彼らはあまりにも手駒が不足していた。
「……焦る必要はないわ。今はまだ、私たちの牙を極限まで研ぎ澄ませる時間よ」
シオンは地図を巻き取り、広場の中央で燃え盛る鍛冶工房の炎へと視線を向けた。
そこでは、カイルの放つ白銀の魔力と、鍛冶師たちの振るう大槌が、岩鎧の巨熊から剥ぎ取った魔力鉱石を見事な武具へと打ち直し続けている。
龍崎ギルドの男たちもまた、重い魔鋼の剣の素振りを行い、新たな闘争のスタイルを体に叩き込んでいた。
「あの鉱石で最高の剣と鎧を打ち上げ、この新世界の生態系で徹底的に実戦を積む。……私たちが、この数千年後の地球の真の支配者として神話に名を刻む準備が整うまで、あの泣き虫の神様には、廃都の奥で大人しく待っていてもらうわ」
シオンの決意に満ちた言葉に、ゼッカは深く、恭しく頭を下げた。
大篝火の炎がパチパチと爆ぜ、大湧泉の澄み切った夜空に、黄金色の火の粉が蛍のように舞い上がっていく。
龍崎たち武闘派ギルドの豪快な笑い声と、カイルたち光の騎士の穏やかな語らい、そして鍛冶場から絶え間なく響く重厚な槌の音が、新星都市の夜を温かく、そして力強く包み込んでいた。
かつて現代の機械や電子音が溢れていた名残はもはやどこにもなく、そこにあるのは純粋なマナの光と、自分たちの腕力と魔法で生き抜くファンタジー世界の住人たちの逞しい営みだけだ。
森の奥からは、ハクを新たなボスとして迎え入れた幻狼の群れの、長く美しい遠吠えが星空に向けて響き渡っている。




