第九章6『崩壊する虚無と、帰還の海』
陰湿な『幻夢魔道』が渦巻く城塞船の最下層。
過去のトラウマを乗り越え、確かな「盾」と「浄化の光」に成長した若きカイルとリオナの援護を受け、肉体の限界を意地でねじ伏せた大人たちは、ついに怨念の集合体であった巨大なパイプオルガンを粉砕した。
和洋折衷の悪趣味な閉鎖空間を支えていた中枢が消滅したことで、島ほどの質量を持っていた超巨大幽霊船は、ついにその形を保てなくなり、断末魔の崩壊を始める。
休む間もなく脱出を迫られる満身創痍の極道たち。しかし、そこにはこれまでとは違う、次世代との確かな「支え合い」の姿があった。
異形のエメと白骨のパイプオルガンが極彩色の炎に焼き尽くされ、灰となって消え去った直後。
城塞船の最下層――巨大な胃袋のような空間全体に、鼓膜を劈くような破滅の地鳴りが響き渡った。
「……ッ、中枢を潰したせいで、この空間自体が崩れ始めたわね!」
シオンが頭上から降ってくる石畳の破片をマントで払い除けながら、鋭く声を上げた。
見上げれば、バルコニー席のようにそびえ立っていた西洋の城壁や、東洋の能舞台の残骸が、まるで水に溶ける泥のようにドロドロと崩れ落ち、虚無の暗闇の中へと次々に吸い込まれていく。
幻夢魔道という陰湿な呪いによって強引に繋ぎ合わされていた「和洋折衷の巨大な怪異」が、その呪いの主を失い、海のもくずへと還ろうとしているのだ。
「脱出するわよ! 完全に崩落する前に、泥舟まで走り抜けるわ!」
「応ッ!!」
シオンの号令にハクが即座に反応し、崩れゆく石段の方向へと駆け出そうとする。
しかし、その横で立ち上がろうとした龍崎の巨体が、ガクンと力なく傾いた。
「龍崎さん!」
カイルが咄嗟に駆け寄り、龍崎の太い腕を肩に担ぎ上げる。
「……すまねェ、カイル。情けねェ話だが、さっきの一撃で膝のクッションが完全に逝っちまったみてェだ。足に力が……」
常に豪快に笑い飛ばしてきた筋肉の化け物が、滝のような冷や汗を流しながら苦悶の表情を浮かべる。
先の能舞台で、床を粉砕して亡霊の手から逃れた無茶な力業。そして、鳥居の絶対防御を腕力だけで叩き割った代償。長年の酷使で蓄積された『老い』という不可逆のダメージが、極限の死闘を終えた安堵と共に、龍崎の肉体を完全に支配し始めていたのだ。
「喋らないでください! リオナ!」
「わかってる! 『霊樹の浮風』ッ!!」
リオナが両手を翳すと、龍崎の巨体の下から柔らかな風のクッションが巻き起こり、彼の体重をフワリと軽くした。
「カイル、ハクさん! 今なら龍崎さんを担いで走れるはずよ!」
「助かるぜ、妹分! ほら、筋肉ダルマ、気合い入れろ!」
ハクとカイルが左右から龍崎の体を支え、リオナの風のサポートを受けながら、崩れゆく石段を一気に駆け上がり始める。
「シオンさん、こっちです!」
先導するリオナが振り返り、シオンへ手を伸ばす。
「ええ……ッ!」
シオンもまた、炎を放った右腕の痙攣と、軋む関節の痛みを気合いでねじ伏せながら、若者たちの後を追った。
(……驚いたわね。本当に、成長したじゃない)
走りながら、シオンは前を往く若き背中を見つめ、微かに目を細めた。
少し前までなら、足を引っ張るまいと必死に大人たちの後ろを付いてくるだけだったカイルとリオナ。それが今や、的確な状況判断で重傷の龍崎を支え、崩落する迷宮の脱出ルートを自ら切り開いている。
『血縁や弟子』として技を受け継ぐ者たちとは違うかもしれない。しかし、極道としての『意志』と『絆』は、間違いなくこの若い魂たちに根付き始めている。
ガラガラガラッ!! ズドォォォォォンッ!!
一行がかつての回廊へ飛び込んだ瞬間、背後で最下層の空間が完全に崩落し、漆黒の虚無へと呑み込まれた。
「止まるな! 出口はもうすぐだぜ!!」
ハクの叫びが、崩壊の轟音を切り裂く。
腐った畳や障子、西洋の甲冑たちが、形を失って黒い霧へと還元されていく廊下。
幻覚を見せる力を完全に失った狂気の城塞船の中を、極道たちはただひたすらに走り抜けていった。
ガラガラガラッ……!!
和洋折衷の狂気を孕んでいた閉鎖空間が、次々と形を失い、どす黒い霧となって崩れ落ちていく。
腐った畳の敷かれた回廊も、不気味なステンドグラスも、足場を失って漆黒の虚無へと飲み込まれていった。
「右だ! 次の角を曲がれば、船首側の広い空間に出るはずだぜ!」
ハクが本来の卓越した空間把握能力を駆使し、崩壊する迷路の最短ルートを叫ぶ。
龍崎を担ぐカイルとハクの足取りは、リオナの風のサポート(『霊樹の浮風』)のおかげで、重傷の巨漢を抱えているとは思えないほど軽快だった。
「ハクさん、頭上から瓦礫が!」
「任せな! 『霊樹の旋風』ッ!」
リオナが走りながら両手を振るい、頭上から降り注ぐ石塊や太い梁を風圧で次々と弾き飛ばしていく。
「へっ……大したもんだ。これなら俺の出る幕はねェな」
肩を貸されている龍崎が、苦痛を堪えながらもどこか嬉しそうにこぼした。
一方、最後尾を走るシオンは、奥歯を強く噛み締めていた。
(……っ、足が、前に出ない……!)
先ほどのパイプオルガンへの一撃――『極彩・黎の連華』。カイルたちの光のサポートがあったとはいえ、老いと疲労が限界まで蓄積した肉体で放つ最大火力のオーバードライブは、シオンの身体に容赦ない反動を強いていた。
肺が焼け付くように熱く、膝の関節はまるで錆びた歯車のように悲鳴を上げている。
ズドドドドォォォォンッ!!
不意に、シオンの真横にあった大理石の巨大な柱が――それに絡みついていた木造の回廊ごと大きくバランスを崩し、彼女の頭上へと倒れ込んできた。
「姉御ッ!」
前を走るハクが叫ぶ。
シオンは咄嗟に右腕を掲げ、極彩色の炎で瓦礫ごと吹き飛ばそうとした。
だが、極度の魔力枯渇と肉体の限界により、脳が命じたはずの炎はボヤッと小さな火の粉を散らすだけで、着火しない。
(……しまった、間に合わない!)
肉体の遅延を呪いながら、シオンが覚悟を決めて防御姿勢をとろうとした、その刹那。
「させませんッ!! 『聖光・破邪の矢』!!」
「吹き飛べッ!!」
バツンッ!!! という凄まじい破裂音と共に、純白の光の矢と鋭い風の刃が同時に直撃し、シオンを押し潰そうとしていた巨大な柱を空中で粉々に粉砕した。
「……!」
シオンが目を見開いて前を見ると、カイルとリオナが足を止め、こちらに向かって杖と両手を突き出していた。
「シオンさん、無事ですか!」
「馬鹿野郎、止まるな! 走れ!」
シオンは怒鳴りながらも、崩れ落ちる瓦礫の雨を潜り抜け、二人の元へと追いつく。
「私たちはもう、守られるだけの子供じゃありません! シオンさんの背中くらい、私たちが守ります!」
リオナが翠緑の瞳に強い意志を宿して言い放つ。カイルも真っ直ぐな瞳で力強く頷いた。
「……生意気言うようになったじゃない。でも、助かったわ」
シオンは息を切らしながらも、ふっと口角を上げ、極道としての不敵な笑みを浮かべた。
(……本当に、頼もしくなったものね)
かつて、アウストラ大陸での泥の時代を圧倒的な力で蹂躙していた頃の自分たちなら、こんな瓦礫の雨など意にも介さなかっただろう。
だが、今は違う。衰えゆく肉体の隙間を、次世代の若者たちがその確かな成長でしっかりと埋め、支えてくれている。
『継承』という言葉が、ただの理想ではなく、明確な実感を伴ってシオンの胸に熱く響いていた。
「見えたぜ! 出口だ!!」
先頭を走るハクの弾んだ声が響く。
崩壊し、薄れゆく濃霧の奥。彼らをこの狂気の空間へと引きずり込んだ、巨大な木製の門が、外界の眩しい光を放ちながら迫ってきていた。
「見えたぜ! 出口だ!!」
ハクの叫びの先、崩れゆく回廊の果てに、外界の眩しい光が差し込む巨大な木門が迫っていた。
しかし、城塞船の崩壊速度は彼らの予想を上回っていた。出口の門の周囲の石壁がメキメキと音を立てて崩落し、大量の瓦礫が脱出ルートを完全に塞ごうとしている。
「このままじゃ押し潰される! カイル、合わせるわよ!!」
「はいッ! 『聖光・払暁の閃』!!」
「『霊樹の烈風』!!」
走りながら、若き二人が持てる魔力のすべてを前方へ解き放つ。
極大の光の矢が風の螺旋を纏いながら一直線に飛び出し、塞がりかけていた門の瓦礫ごと、分厚い木門を完全に吹き飛ばした。
「今よ! 飛べェッ!!」
シオンの号令と共に、五人の極道たちは瓦礫の雨を掻き分け、吹き飛ばされた門の隙間から、外界の虚空へと一斉に身を投じた。
「うおおおおッ! 高ェなオイ!!」
龍崎を担いでいたハクが、空中で目を丸くする。
彼らが飛び出したのは、海面から数十メートルはある城壁の中腹だった。そして、眼下の海には、彼らの帰るべき場所――『反逆の泥舟』が、出航時と変わらぬ姿で静かに揺蕩っている。
「任せてください! 『霊樹の浮風』、最大出力ッ!!」
リオナが宙で両手を広げ、全員の落下速度を風のクッションで劇的に緩和する。
「着地の衝撃は僕が! 『聖光・絶対城壁』!」
カイルが泥舟の甲板に光の結界を展開し、トランポリンのように柔らかな着地点を作り出した。
ドサァァァァァァンッ!!
五人は光の結界にバウンドし、泥舟の甲板へともつれ込むように転がり落ちた。
「……ハァッ、ハァッ……。や、やった……」
カイルが大の字になって、荒い息を吐きながら天を仰ぐ。
彼らが振り返ると、海面にそびえ立っていた和洋折衷の超巨大な城塞船は、まるで蜃気楼のようにグニャリと形を歪ませ、断末魔の地鳴りと共に『常闇の死海』の奥底へと完全に沈んでいくところだった。
それと同時だった。
城塞船の消滅に呼応するように、彼らをずっと苦しめていた「常闇の死海」の不気味な濃霧が、朝日に照らされた朝露のようにスゥッと晴れていったのだ。
視界を遮るものがなくなった外界。
そこに広がっていたのは、アウストラ大陸を出航した時と同じ、透き通るような青く澄み渡った空と、太陽の光を反射してキラキラと輝く果てしない大海原だった。
「……へっ。やっと、あの陰気くさい空から解放されたぜ」
龍崎が甲板に寝そべったまま、眩しそうに青空を見上げてニヤリと笑う。
「まったく、とんだ寄り道だったな。筋肉ダルマが重すぎて、俺の肩までぶっ壊れるかと思ったぜ」
ハクも甲板に座り込み、痛む肩を回しながら悪態をついたが、その顔はこれまでにないほどの安堵に包まれていた。
「お疲れ様、あんたたち」
シオンは乱れた銀糸の髪をかき上げ、痛む膝を庇いながらゆっくりと立ち上がった。
吹き抜ける潮風が、歴戦の極道たちの火照った体と、傷だらけの肉体を優しく撫でていく。
「カイル、リオナ。あんたたちの成長っぷりには、本当に助けられたわ。……ありがとう」
シオンが素直に礼を述べると、若き二人は顔を見合わせ、照れくさそうに、しかし誇らしげに笑い返した。
「極道の背中は、もう私たちに任せてくださいね!」
「……ええ。生意気言うようになったけど、頼もしいわ」
シオンはマントを翻し、船首へと歩みを進める。
「さぁ、野郎共。少し休んだら、帆を張り直しなさい」
シオンは広大な青空と大海原を見据え、極道としての不敵な笑みを浮かべた。
「泥だらけの航海は、まだまだ終わらないわよ!」
強固な絆をさらに深めた『反逆の泥舟』は、確かな希望を乗せて、再び未知の海域へと進み始めるのだった。
崩壊する城塞船からの決死の脱出劇。
ここでは、もはや大人たちが子供たちを庇うのではなく、カイルとリオナがその魔法で大人たちの限界をカバーし、自ら道を切り開くという【真の共闘】を描きました。
老いていく肉体の限界(シオンの魔力不発や龍崎の膝の崩壊)を悲観するのではなく、それを補って余りある若者たちの成長を心から喜び、頼もしく思うシオンたちの姿に、世代交代というテーマの美しさを感じていただければ幸いです。
そして、ついに『常闇の死海』の呪われた濃霧が晴れ、美しい青空と海を取り戻した反逆の泥舟。
いよいよ全体のクライマックスに向けた終盤戦へと突入していきます。
成長した若者たちと共に、老いゆく極道たちは次なる海域で何と出会い、そしてどんな『喧嘩』を見せてくれるのか。
ここからさらに加速していく泥だらけの航海を、引き続きお楽しみください!




