第九章5『深淵のパイプオルガンと、極道の合流』
トラウマという名の泥水に沈みかけた若者たちは、己の「怒り」と「覚悟」を光に変えて精神の壁を打ち破った。
一方、老いと疲労による肉体の限界を突きつけられた大人たちは、決して折れない「極道の意地」と「ベテランの経験値」で死地をねじ伏せた。
陰湿な『幻夢魔道』が仕掛けた最悪のハンデを、それぞれのやり方で乗り越えた『反逆の泥舟』のクルーたち。狂気の城塞船が誇っていた疑心暗鬼の濃霧は、彼らの魂の輝きを前にしてすでにその効力を失いつつあった。
次なる時代へと託されるべき「強さ」の輪郭が少しずつ見え始める中、分断されていた極道たちは、ついにすべての怨念が渦巻く城塞船の最深部へと足を踏み入れる。
若き光と歴戦の炎が再び交差し、和洋折衷の悪夢の核心がその醜悪な正体を現す。
能舞台の奥に隠されていた、果てしなく続くような暗い石段。
カビと血の匂いが混じった重い空気を切り裂きながら、シオン、龍崎、ハクの三人は、満身創痍の体を引きずってついに最下層へと辿り着いた。
「……こいつはまた、とんでもなく悪趣味な終点だな」
ハクが双剣を油断なく構えながら、目の前に広がる光景に顔をしかめる。
そこは、この超巨大な城塞船の船底――あるいは、島ほどの大きさを持つこの怪異の「胃袋」とも呼べる空間だった。
足元には、光を一切反射しない墨汁のような黒い水が波打ち、その広大な水面の奥には、西洋の大聖堂を思わせる巨大な『パイプオルガン』がそびえ立っている。
しかし、そのオルガンのパイプ部分は、人間の大腿骨や肋骨を無数につなぎ合わせたようなおぞましい白骨で形成されており、鍵盤の周囲には、日本の神社に見られる「朱塗りの巨大な鳥居」が、檻のように何重にも取り囲んでいた。
「魔力の濃度が今までと桁違いだ。……この骨のオルガンが、幻夢魔道を船全体に垂れ流してる中枢ってわけね」
シオンが紫の瞳を細め、極彩色の炎を右腕に静かに灯す。
息は上がり、膝は笑い出しそうになっているが、その闘志だけは一切揺らいでいない。
その時だった。
「――シオンさん!! 龍崎さん!! ハクさん!!」
黒い水面の向こう側、シオンたちが降りてきたのとは反対側にある回廊の入り口から、切羽詰まった、しかし力強い声が響き渡った。
「カイル! リオナ!!」
龍崎が丸太棍棒を下げ、バッと声の方向へ顔を向ける。
暗闇の中から姿を現したのは、泥だらけになりながらも、決して折れない確かな足取りで駆けてくる若き二人の姿だった。
カイルの掲げる杖からは、これまで霧に食い潰されていた弱々しい光ではなく、周囲の陰湿な闇をパチンパチンと弾き飛ばすような、高純度で真っ直ぐな『聖光』が放たれている。リオナの周囲にも、怨念を寄せ付けない神聖な『霊樹の旋風』が力強く渦巻いていた。
「お前ら……ッ、無事だったか!!」
ハクが安堵の声を上げ、カイルたちの元へ駆け寄る。
「はい! ご心配おかけしました。……でも、もう大丈夫です」
カイルは息を切らしながらも、シオンたちを見据えてハッキリと頷いた。
その瞳には、今まで大人たちに守られていた時に見せていた「甘え」や「怯え」の色は微塵もなく、過去のトラウマを自らの意志で乗り越えた者だけが持つ、澄み切った強さが宿っていた。
「……いい顔になったじゃない。つまらない幻覚の相手は、もう済んだみたいね」
シオンは痛む体を悟られないよう、いつものように不敵な笑みを浮かべてカイルとリオナを迎えた。
「ええ。もう私たち、過去の亡霊になんて騙されません」
リオナが翠緑の瞳を真っ直ぐに向けて答える。
その言葉を聞いて、龍崎が豪快に笑おうとし――咳き込んで胸を押さえた。
「ゲホッ……ハハッ、違いねェ。ウチの若いのが、あんな顔ナシの三流芝居に引っかかるわけがねェって、俺はずっと信じてたぜ」
「嘘ばっかり。さっき能舞台で、龍崎さん一番焦ってたじゃないですか」
ハクの軽口に、極道たちの間に一瞬だけ、この狂気の空間には似つかわしくない温かな笑いがこぼれた。
しかし、その再会の温もりを、世界そのものが許さなかった。
ズゥゥゥゥゥゥゥゥン…………ッ!!!
突如として、巨大なパイプオルガンと鳥居がけたたましく振動し、鼓膜を破るような不協和音が空間全体を揺るがした。
足元の黒い水面が沸騰したように激しく泡立ち、どす黒い怨念の霧が竜巻のようにオルガンの前に集束していく。
『……ドウシテ。ドウシテ、絶望シナイノデス……?』
集束した霧の中から現れたのは、顔のない少女・エメだった。
しかし、その姿はもはや「古風なドレスを着た少女」の形を保っていなかった。
真っ白だったのっぺらぼうの顔面は、怒りと憎悪でドロドロに溶け崩れ、そこから無数の「真っ黒な腕」や「血走った眼球」が、グチャグチャと音を立てて溢れ出している。
『老イボレタ体モ、過去ノトラウマモ、アナタタチノ心ヲ折ルニハ十分ナハズナノニッ!! ドウシテ、マダソンナニモ、目ガ死ンデトイナイノデスカァッ!!!』
「決まってるでしょ」
シオンがカイルとリオナの前に立ち、極彩色の炎を爆発的に燃え上がらせた。
肉体の遅延すらも凌駕する、彼女の魂の奥底で燃え続ける『黎の魂』が、かつてないほどの熱量を持って主の闘争心に呼応する。
「極道は、絶望なんていう安い酒じゃ酔えないのよ。……さぁ、お前もその醜い本性を現しなさい。ここからが、本番よッ!」
大人たちの歴戦の経験と、若者たちの成長した光。
強固な絆を完全に取り戻した『反逆の泥舟』のクルーたちは、和洋折衷の巨大な怪異の中枢へと、ついに最後にして最大の喧嘩を仕掛けようとしていた。
ボォォォォォォォォォン…………ッ!!!
エメの怒りに呼応するように、白骨で組み上げられた巨大なパイプオルガンが、地獄の底から響くような重低音を鳴らした。
その不協和音を合図に、エメの少女の姿を保っていた「殻」が完全に弾け飛ぶ。
ドバァァァァッ! と黒い水面が巨大な波となって巻き上がり、パイプオルガンと朱塗りの鳥居を丸ごと飲み込んだ。
そして、泥水と怨念が結合し、一つの巨大な「異形」として立ち上がる。
それは、西洋の修道女のヴェールを被りながらも、体は無数の和装の死体で構成され、何十本もの巨大な腕を生やした『怨念の集合体』であった。のっぺらぼうだった顔面には、真っ黒な虚無の穴がポッカリと開き、そこから絶叫のような呪詛が垂れ流されている。
『死ネ……ッ! 老イボレモ、子供モ、全テコノ暗闇ノ底デ、永遠ニ迷イ続ケロォォォォォッ!!』
巨大な異形が絶叫すると、足元の黒い水面から、無数の「泥の刃」と「亡霊の腕」が間欠泉のように噴き出し、シオンたち五人に向かって全方位から襲い掛かった。
「チッ、デカくなりゃ偉いってわけじゃねェぞ!」
龍崎が丸太棍棒を構え、迎撃に出ようと足を踏み込む。
だが、その瞬間。
「……ガ、ァッ!?」
ボロボロだった龍崎の右膝が、ついに限界を超えてガクンと崩れ落ちた。能舞台での無茶な力業と、蓄積された鉛のような疲労が、一番最悪のタイミングで彼の肉体を裏切ったのだ。
「龍崎ッ!」
ハクがカバーに入ろうとするが、彼もまた度重なる幻覚の影響で視界がブレており、全方位からの攻撃を捌ききれる状態ではない。
(……私が、まとめて焼き払うッ!)
シオンは倒れ込んだ龍崎の前に飛び出し、右腕に『極彩色の炎』を練り上げようとした。
しかし、やはりコンマ数秒の「遅れ」が生じる。泥の刃が、シオンの炎が爆発するよりも早く、彼女の眼前にまで迫っていた。
肉体の限界が、極道たちの命を刈り取ろうとした、まさにその刹那。
「――『聖光・絶対城壁』ッ!!」
パァァァァァァァァァンッ!!!!
シオンたちの目の前に、目も眩むような純白の光の壁が展開された。
カイルの杖から放たれた極めて純度の高い光の結界が、シオンの着火の遅れを完璧にカバーし、迫り来る泥の刃と亡霊の腕を「ジューッ!」と音を立てて浄化し、弾き飛ばしたのだ。
「カイル……!」
驚きに目を見張るシオン。
「シオンさんたちは、下がっていてください! 精神の防御と、この場の浄化は僕たちがやります!」
カイルが杖を高く掲げると、礼拝堂でトラウマを打ち破った時と同じ、揺るぎない聖光が空間全体を暖かく照らし出す。その光を浴びた瞬間、シオンや龍崎たちの体に纏わりついていた「幻夢魔道の陰湿な重圧」が、嘘のようにフッと軽くなった。
「カイルだけじゃないわ! 『霊樹の浄風』ッ!!」
リオナが両手を広げ、神聖な旋風を巻き起こす。
彼女の風は、足元の黒い水を吹き飛ばして石畳の足場を確保し、大人たちが戦いやすい「確かな地面」を作り出した。
「お前ら……」
膝をついていた龍崎が、信じられないものを見るように目を丸くする。
今まで、戦闘になれば常に自分たちの背中に隠れ、震えながら支援魔法をかけていた子供たち。その二人が今、満身創痍の大人たちの前に立ち、最も頼りになる『盾』として機能しているのだ。
「フッ……ハハハッ! こいつはすげェや!」
ハクが双剣をクルクルと回し、嬉しそうに笑声を上げた。
「聞いたか筋肉ダルマ! ウチの若いのが、俺たちを休ませてくれるってよ!」
「……ああ、全くだ。情けねェやら、頼もしいやらで、涙が出そうぜ」
龍崎は丸太棍棒を杖にして立ち上がり、ニヤリと凶悪な笑みを浮かべた。カイルの光によって呪詛が晴れたことで、肉体の疲労は残っているものの、脳からの命令に対する「遅延」は劇的に改善されていた。
「生意気言うようになったじゃない、二人とも」
シオンはマントを翻し、カイルとリオナの肩にポン、ポンと手を置いた。
「でも、極道はただ守られるだけのタマじゃないわよ。……あんたたちが作ってくれたこの最高の舞台(足場)で、あのデカブツを盛大にぶっ壊すわ」
『ギ、ギィィィィィィッ! 小癪ナァァァァァッ!!』
異形と化したエメが、何十本もの腕を振り上げ、パイプオルガンから致死量の呪詛を乗せた音波を放とうとする。
「カイル、リオナ! 呪いと小細工の防御は全部任せたわ!」
「はいッ!!」
「龍崎、ハク! 限界超えてる体だろうけど……あと一発、最高の喧嘩を打つわよ!!」
「応ッ!!」
若者たちが放つ絶対的な光と風の盾に守られながら、肉体の枷から解き放たれた大人たちが、ついに反撃の牙を剥く。
第一世代を担う極道たちの、過去最大にして最強の連携が、和洋折衷の巨大な怨念を粉砕すべく、一気に加速しようとしていた。
『オォォォォォォォォォォォォッ!!!』
異形と化したエメの顔面に開いた漆黒の穴から、鼓膜を破り、脳髄を直接揺らそうとする致死量の「呪詛の音波」が放たれた。同時に、白骨のパイプオルガンが不協和音を響かせ、何十本もの巨大な和装の腕が、シオンたちを押し潰すべく天から降り注ぐ。
「カイル!!」
「わかってますッ! 『聖光・絶対城壁』、最大出力ッ!!」
カイルが杖を水面(石畳)に突き立てると、純白の光の結界が半球状に展開され、空間を圧迫する呪詛の音波を「パァァァンッ!」という清浄な音と共に完全に相殺した。
さらに、リオナが『霊樹の旋風』を竜巻のように巻き起こし、降り注ぐ巨大な腕の軌道を風圧で強引に逸らして、大人たちの進行ルートを真っ直ぐにこじ開ける。
「道は開いたわ! 行って、シオンさん!!」
リオナの叫びに応えるように、三人の極道が同時に床を蹴った。
「ヒャハッ! 最高の気分だぜ! 身体中の鉛が取れたみてェだ!」
先陣を切ったハクが、神速の踏み込みで宙を舞う。狂った空間認識から解放された彼の双剣は、まさに水を得た魚。
「シィッ!!」
銀閃が幾重にも交差し、リオナの風を抜けて迫ってきた残りの腕を、まるで絹糸を切るように次々と細切れに解体していく。
『小賢シイッ! アノ鳥居ノ絶対防御ハ、貴様ラノ腕力デハ砕ケ――』
「誰にモノ言ってやがる!!」
エメの嘲笑を叩き割るように、ハクが切り開いた空間から龍崎が跳躍した。
呪詛が晴れ、カイルの光によって痛みが緩和された彼の両腕には、全盛期と何ら遜色のない――いや、若者たちに背中を押されたことで、限界を超えた圧倒的な膂力が漲っていた。
「ウチの若いのが作ってくれた花道だ……! 一本たりとも、残してまるかよォッ!!」
龍崎が渾身の力で振り下ろした丸太棍棒が、パイプオルガンを守るように幾重にも囲んでいた「朱塗りの鳥居の檻」へと激突する。
ズガァァァァァァァァァァァァンッ!!!!
幻夢魔道によって強固に守られていたはずの鳥居が、木っ端微塵に粉砕され、赤い破片が宙を舞う。
絶対の防御を力任せにぶち破られたエメの顔面に、明らかな「驚愕」と「恐怖」が浮かび上がった。
そして、その粉砕された鳥居の破片を掻き分けるように、極彩色の炎を纏ったシオンが、ついに異形の真正面――最も無防備な懐へと潜り込んだ。
『ヒ、ィィィィッ!? クルナ、クルナァァァァッ!!』
「うるさいわね。あんたの三流芝居は、もう見飽きたのよ」
シオンの右腕に、これまでにないほど濃密で、圧倒的な熱量を持った極彩色の炎が圧縮されていく。
肉体の遅延はない。カイルとリオナの光が、シオンの『脳の命令』と『魔力回路』を完璧に繋ぎ合わせている。そして何より、彼女の胸の奥で燃える『黎の魂』が、「この若者たちの未来を切り開け」と、かつてないほどの激しい鼓動を打っていた。
「極道は確かに老いたわ。体もガタガタ、昔みたいに無茶はできない」
シオンは、燃え盛る右拳を真っ直ぐに引いた。
「でもね! 優秀な若い連中が背中を守ってくれる限り……極道の牙は、永遠に折れないのよッ!!」
「『極彩・黎の連華――【覇断】』ッ!!!!」
放たれたシオンの右拳が、異形の腹部――白骨のパイプオルガンの中枢に深々と突き刺さった。
ドォォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!!
圧縮された極彩色の爆炎が、パイプオルガンの内部からすさまじい勢いで膨張し、全方位に向かって吹き荒れた。
和洋折衷の怨念の集合体が、断末魔の悲鳴すら上げる間もなく、内側から完全に焼き尽くされていく。顔のない少女・エメの残滓も、光と炎の中でパラパラと灰になって消え去った。
炎が空間全体を舐め尽くし、やがて静かに収束していく。
「……ハァッ……、ハァッ……」
残されたのは、干上がった石畳と、崩壊して黒い灰となったパイプオルガンの残骸だけだった。
周囲を満たしていた陰湿な濃霧も、吐き気を催すようなカビの臭いも、すでに完全に消え去っている。
「……終わった、か」
龍崎が丸太棍棒をドスンと床に置き、その場に仰向けに大の字になって倒れ込んだ。
「あー、クソッ……流石に限界だ。体中の骨が悲鳴を上げてやがる……」
「お疲れ様、筋肉ダルマ。まぁ、今日はよくやった方じゃないか?」
ハクも膝に手をつき、荒い息を吐きながら笑う。
「シオンさん! 龍崎さん! ハクさん!」
カイルとリオナが、弾かれたように三人の元へ駆け寄ってきた。
「無事ですか!? すぐに治癒魔法を――」
「いいえ、カイル。あんたたちはもう、十分に魔力を使ったわ。これ以上は無茶よ」
シオンが優しくカイルの杖を制し、ドカッと石畳に腰を下ろした。
「でも、シオンさんの膝や、龍崎さんの身体が……」
心配そうに覗き込む二人に、シオンは微かに血の滲んだ頬を緩め、最高に不敵で、誇らしげな笑顔を見せた。
「こんなもん、名誉の負傷よ。……それに、あんたたちの背中がこんなに頼もしくなってるなら、あたしたちも安心して『老いぼれる』ことができるじゃない」
「姉御……」
「シオンさん……」
シオンの言葉に、カイルとリオナは目を瞬かせ、やがて少し照れくさそうに、しかし嬉しそうに笑った。
幻夢魔道という最悪の精神的死地は、こうして打ち破られた。
決して若返ったわけではない。肉体の衰えという現実は、これからもシオンたちを蝕み続けるだろう。
しかし、彼らにはもう、次なる時代を任せられる「確かな希望」が育っていた。
若き光と歴戦の炎。二つの世代が真の意味で肩を並べた時、霧に沈む忘却の城塞船は、その役目を終えたように、ゆっくりと崩壊の音を立て始めるのだった。
分断されていた大人組と若者組がついに合流し、和洋折衷の狂気の怪異・エメ(そして白骨のパイプオルガン)との完全決着を描きました。
これまで大人たちに守られるばかりだったカイルとリオナが、今度は絶対的な「盾」と「浄化の光」となってシオンたちをサポートする展開。若者たちの成長によって肉体の遅延や疲労といった『老い』のハンデから一時的に解放され、全盛期の力を叩き込む大人たちの猛攻は、書いていて非常に熱いカタルシスがありました。
自分の肉体が老いることを否定せず、むしろそれを受け入れた上で、若者たちの成長を誇るシオンの姿に、極道としての器の大きさを感じていただければ幸いです。
老いゆく極道たちはどのように「最後の背中」を見せ、そして『黎の魂』を繋いでいくのか。




