第九章4『絞首台の能舞台と、歴戦の枷』
己の無力感とトラウマを容赦なく抉り出す『幻夢魔道』の悪夢。しかし、若き光と治癒の魔法使いは、絶望の泥水に沈むことなく、自らの意志と絆でその精神的な死地を打ち破ってみせた。
次世代の輝かしい成長という反撃の狼煙が上がった一方で、彼らとはぐれてしまった大人たちは、未だ深い濃霧と狂気の回廊を彷徨っていた。
若者たちが「心の壁」を乗り越えて強くなるのとは対照的に、どれほど強靭な精神力を持っていようとも、シオンたちが直面している『老い』という肉体の限界は、気合いで乗り越えられるものではない。
頼れる若者たちを欠いたまま、満身創痍の極道たちは、和洋折衷の悪趣味な迷宮のさらに深く、底知れぬ狂気の中枢へと足を踏み入れていく。
「……ハァッ……、ハァッ……」
薄暗い回廊に、龍崎のひどく荒い息遣いが響いていた。
アウストラ大陸での死闘を終えてからというもの、彼の呼吸は少し長く歩くだけで信じられないほど浅くなる。先ほどの幻覚による同士討ち未遂で体力を大きく消耗したこともあり、彼が肩に担ぐ自慢の丸太棍棒が、今は恐ろしく重い鉄の塊のように感じられていた。
「龍崎。息が上がってるわよ。少し休む?」
前を歩いていたシオンが、足を止めて振り返る。
その声に気遣いの色はあったが、彼女自身の顔色も決して良くはない。紫の瞳の奥には疲労の色が濃く、マントの下の肩は微かに上下に揺れていた。
「……冗談キツいぜ、姉御。こんなカビ臭ェ幽霊屋敷で腰を下ろせるかってんだ」
龍崎は強がって白い歯を見せたが、その頬には止めどない油汗が伝い落ちていた。
「強がるなよ、筋肉ダルマ。お前の足音がさっきから半テンポ遅れてるせいで、こっちまで調子が狂うんだぜ」
最後尾で周囲を警戒するハクが、憎まれ口を叩きながら龍崎の背中を軽く小突いた。しかし、ハク自身もまた、狂った空間認識と濃霧のせいで三半規管が悲鳴を上げており、時折こめかみを強く押さえていた。
(……マズいわね。若いの(カイルたち)の治癒魔法がない状態で、この疲労の蓄積は命取りになる)
シオンは奥歯を噛み締めた。
どんな強敵の攻撃も真正面からねじ伏せてきた極道たちにとって、「体力が回復しない」「息が整わない」という自身の肉体への不信感は、どんな呪いよりも重く、深く精神を削っていく。
ギギギギギギギギ…………ッ。
三人が進む先の回廊が、突如として不自然に湾曲し、行き止まりの壁が左右にスライドして開いた。
その奥から姿を現したのは、これまでの廊下とはスケールの違う、巨大で異様な「空間」だった。
「……また、趣味の悪い部屋に出やがったな」
ハクが両手の短剣を構え直す。
そこは、すり鉢状になった巨大な空洞だった。
壁面を埋め尽くしているのは、西洋のオペラ座にあるような豪奢なバルコニー席。しかし、そこから見下ろす中央の舞台は、立派な入母屋造の屋根を備えた「能舞台」であった。
さらに狂っているのは、その能舞台の四隅に、血に染まった巨大な「ギロチン(断頭台)」が設置されており、舞台の中央には、首を吊るすための太い麻縄が何本も垂れ下がっていることだ。
西洋の処刑場と、東洋の神聖な舞台の悪魔的な融合。
バルコニー席には誰もいないはずなのに、どこからともなく、拍手喝采と、ヒソヒソと嘲笑うような無数の囁き声が降り注いでくる。
『……アラ。ヨウヤク、到着シマシタカ』
能舞台の奥、松の木が描かれた鏡板の前に、カランと音を立てて「顔のない少女・エメ」が姿を現した。
『オ待チシテイマシタヨ、古ク、老イボレタ客人タチ。……ココハ、アナタタチノヨウナ、時代遅レノ反逆者ヲ裁ク為ノ、特別ナ舞台デス』
エメがドレスの裾をつまんで一礼すると、垂れ下がっていた麻縄が生き物のように蠢き、ギロチンの刃がギチギチと音を立てて引き上げられた。
「裁くだって? 笑わせるんじゃないわよ」
シオンは痛む膝を庇うことなく、堂々とした足取りで能舞台への橋掛かり(通路)へと足を踏み入れた。
「極道の生き様を裁けるのは、あたしたち自身だけよ。……あんたみたいな空っぽの案山子に、上から見下ろされる謂れはないわ」
シオンの右腕に、極彩色の炎が静かに、だが確かな殺意を持って灯る。
しかし、その着火はやはり、全盛期と比べるとコンマ数秒の「遅れ」を伴っていた。
『……フフッ。ソノ、燃エカスノヨウナ炎デ、マダ抗ウツモリデスカ?』
エメののっぺらぼうの顔面に、無数の「嘲笑う目」が浮かび上がる。
『アナタタチハ、モウ限界デス。体モ、心モ、ボロボロダ。……過去ノ栄光ニ縋ルノハヤメテ、コノ舞台デ大人シク「終幕」ヲ迎エナサイ』
少女が両手を広げると同時に、能舞台の床下から、黒い霧に包まれた異形の処刑人たちが這い出してきた。
西洋の黒装束を着込んでいるが、その顔には般若の面が貼り付けられ、手には錆びた大斧や処刑用の鎖を握っている。
「チッ、また雑魚の群れかよ! なめやがって!」
龍崎が丸太棍棒を構え、一番槍を入れようと大きく踏み込んだ。
「待て、龍崎!!」
ハクの鋭い制止の声が響く。
だが、遅かった。
龍崎が踏み込んだ能舞台の床板が、突如としてスポンと抜け落ちたのだ。
「なっ……!?」
「龍崎ッ!!」
ただの落とし穴ではない。
床板が抜けた瞬間、そこから無数の「白い手」が伸びてきて、龍崎のごつい両足首に絡みついた。それは、これまで彼が圧倒的な力で粉砕してきた者たちの、重く冷たい亡霊の手だった。
「グォォォッ!? 離せ、この野郎ッ!!」
龍崎が腕力で引き剥がそうとするが、足場のない状態では力が上手く入らない。
『……見苦シイデスネ。力任セノ喧嘩シカ知ラナイ獣ガ、罠ニハマッテモガク姿ハ』
エメの嘲笑と共に、般若の面を被った処刑人の一人が、鎖の先端についた巨大な鉄球を、身動きの取れない龍崎の頭部へと容赦なく振り下ろした。
限界を迎えつつある歴戦の極道たちに、罠と怪異が入り混じる最悪の「処刑劇」が幕を開けようとしていた。
ブォンッ!!
鎖に繋がれた巨大な鉄球が、空気を叩き潰すような風切り音を立てて龍崎の頭部へと迫る。
足場を奪われ、亡霊の手に縫い付けられた今の彼に、それを回避する術はなかった。
「させねェよッ!!」
死の鉄球が龍崎の頭蓋を砕く直前、横から滑り込んできたハクの双剣が、斜め下からの強烈な斬り上げで鉄球の軌道を強引に弾き飛ばした。
ガガァァァァンッ!! という火花と重い金属音が能舞台に響き渡る。
「ハクッ!」
「……チィッ、重てェな、クソッ……!」
ハクは悪態をついたが、その顔面は苦痛に歪んでいた。
全盛期の彼であれば、鉄球の威力を殺して受け流すなど造作もないことだった。だが、『幻夢魔道』によって狂わされた空間認識と、蓄積された疲労が、彼の絶妙な体捌きにほんの僅かな「ズレ」を生じさせていたのだ。
弾き飛ばした鉄球の衝撃を殺しきれず、ハク自身の体が能舞台のヒノキの床板を削りながら数メートル後方へと無惨に弾き飛ばされる。
『アラ。無理ヲシテハイケマセンヨ。……ソノ細イ腕デ、イツマデ仲間ヲ庇イキレルカシラ?』
エメの嘲笑に呼応するように、般若の面を被った別の処刑人たちが、今度は床に倒れ込んだハクへ向かって錆びた大斧を振り下ろそうと群がる。
「うちの若いのに、気安く触れてんじゃないわよッ!!」
シオンが橋掛かりを蹴り、神速でハクのカバーに入る。
彼女は右腕に極彩色の炎を練り上げ、処刑人たちをまとめて消し炭にしようとした。
――だが。
(……また、遅いッ!)
脳が「放て」と命じてから、魔力回路が炎を爆発させるまでのコンマ数秒のラグ。
その致命的な隙を突き、処刑人の振るった大斧の刃が、シオンの放つ炎よりも一瞬早く彼女の首元へ迫った。
「ッ……!」
シオンは咄嗟に身を捻ったが、躱しきれず、凶刃が彼女の左頬を薄く切り裂き、鮮血が宙に舞った。
直後、遅れて着火した極彩色の爆炎が処刑人たちを吹き飛ばしたが、シオンは着地の際に関節の軋みを隠しきれず、大きく体勢を崩して膝をついた。
『フフッ……。アハハハハハッ!!』
エメの歪な笑い声が、すり鉢状のバルコニー席全体に響き渡る。
『ドウシマシタカ、無敵ノ極道サン? 今ノ攻撃、昔ノアナタナラ、欠伸ヲシナガラデモ躱セテイタハズデスヨ?』
顔のない少女の表面に、今度は「若かりし頃のシオン」の顔が浮かび上がり、現在の彼女を哀れむように見下ろしている。
『認メナサイ。アナタタチハモウ、時代遅レノ老イボレダ。肉体ノ衰エハ、ドンナニ強ガッテモ誤魔化セナイ……!』
「……黙れ、三流役者が」
ギリッ、と。
床の穴に捕らわれていた龍崎が、奥歯から血を流しながら吼えた。
「体が動かねェなら……無理矢理にでも、動かすまでだァッ!!」
龍崎は、亡霊の手を引き剥がすことを諦めた。その代わり、彼は残されたすべての膂力を両腕に込め、自身の愛器である丸太棍棒を、足元に群がる亡霊の腕ごと、能舞台の床板そのものへ向けて全力で叩きつけた。
メキォォォォォォォォッ!!!
強引極まりない力業。龍崎の足元を中心に、分厚いヒノキの床板が粉々に砕け散る。
足場そのものを破壊することで亡霊の束縛から抜け出した龍崎は、瓦礫と共に奈落へ落ちる寸前で床の縁を蹴り上げ、シオンとハクの元へと跳躍した。
「ハァッ……ハァッ……! 待たせたな、姉御、ハク」
全身血だらけで、肩で息をする龍崎。
「……無茶苦茶な脱出ね。膝の軟骨、すり減るわよ」
頬から血を流しながら、シオンが不敵に笑う。
「へっ……大将の炎だって、さっきから随分と燻ぶってるじゃねェか」
痛む両腕をだらりと下げながら、ハクが軽口を叩いて立ち上がる。
能舞台の中央。
背中合わせに円陣を組んだ満身創痍の三人の周囲を、黒霧から湧き出し続ける無数の処刑人たちが完全に包囲していた。
さらに頭上からは、生き物のように蠢く何本もの麻縄(首吊り縄)が、彼らの首を狙って蛇のように垂れ下がってくる。
肉体は重く、魔力の反応は遅い。
確実に蝕んでくる『老い』という抗えない現実と、心を抉る精神呪詛。
だが、その絶体絶命の包囲網の中心で、血と汗に塗れた極道たちの瞳に宿る闘志の炎だけは、決して衰えることなく、むしろ歴戦の凄みを持ってギラギラと輝きを増していた。
ギシギシギシッ……!!
頭上から無数の麻縄が蛇のようにうねり、一斉にシオンたちの首を狙って襲い掛かる。同時に、般若の面を被った処刑人たちが、錆びた大斧と鉄球を振りかざして円陣へと殺到した。
絶体絶命の死地。
しかし、背中合わせになった満身創痍の三人は、誰一人として絶望に顔を歪めてなどいなかった。
「ハク! 上は任せた! 龍崎は私の左(死角)を死守しなさい!」
「応ッ!!」
「了解だァッ!!」
シオンの鋭い号令が飛んだ瞬間、三人の極道は限界を迎えている肉体で、これまでの「力任せの蹂躙」とは全く異なる次元の動きを見せた。
「オラァッ!!」
龍崎は、もはや自ら踏み込んで攻撃するのをやめた。その代わり、ボロボロの膝をどっしりと落とし、自身を『動かざる巨大な壁』と化して、シオンの死角から迫る処刑人たちの得物を丸太棍棒で「受け止める」ことに全神経を集中させる。
「シィッ……!」
ハクは、狂った三半規管に頼るのをやめた。目を半開きにし、上空から迫る麻縄の風切り音と「殺気」だけを頼りに双剣を振るう。己の速度で躱すのではなく、最小限の動きで縄の軌道を逸らし、同士討ちを誘発させるベテランの体捌きだ。
そして、シオン。
(……体が遅れるなら、遅れる前提で喧嘩を振るえばいいだけよッ!)
彼女は、着火がコンマ数秒遅れる自らの魔力回路を、逆に「フェイント」として利用した。
右腕を突き出し、極彩色の炎を放つモーションを見せる。
本来の全盛期のシオンであれば即座に炎が爆発するため、正面の処刑人はそれに合わせて大きく横へ跳んで回避行動をとった。
――だが、炎はまだ出ない。
処刑人が回避先で無防備に着地した、その「コンマ数秒後」。
「遅れてごめんあそばせ。……消えなさいッ!」
ズバアァァァァァァァンッ!!!!
シオンの右腕から、ようやく限界まで圧縮された『極彩色の炎』が爆発した。
放たれた熱線は、回避先で隙を晒していた処刑人を真正面から捉え、悲鳴を上げる間もなくその巨体を消し炭に変える。
肉体の衰え。反射神経の遅延。それを悲観するのではなく、何万回という死線を潜り抜けてきた「極道の年季(経験)」で完全にカバーし、戦術に組み込んだのだ。
「おらおらァッ! 姉御の炎にビビって動きが単調になってるぜ、雑魚共が!!」
龍崎が丸太棍棒で処刑人の足を払い、体勢を崩したところをハクの双剣が的確に急所を切り裂いていく。
『……ッ、バカナ! 動ケナイハズ、疲弊シキッテイルハズナノニ……ッ!』
エメの歪な声に、初めて明確な「焦り」が混じった。
顔のない少女の表面に浮かび上がっていた嘲笑の目は、信じられないものを見るかのように見開かれている。
「教えてあげるわ、三流の案内人」
シオンは炎を纏ったまま、悠然とエメを見据えた。
「若さや腕力だけで生き残れるほど、極道の海は甘くないのよ。……体が錆びついてからが、本物の喧嘩よ!」
シオンは足元の能舞台を力強く蹴り上げ、一気に間合いを詰めた。
「『極彩・黎の連華』ッ!!」
炎を纏った回し蹴りが、舞台の四隅にそびえ立っていた不気味なギロチンを次々と粉砕していく。
物理的な破壊と同時に、炎に込められた『黎の魂』の強烈なエゴが、空間を満たしていた幻夢魔道の呪いを焼き払う。
『ギ、ィィィィィィィッ……!!』
断末魔の悲鳴を上げたのは処刑人たちだった。
シオンの炎と、龍崎・ハクの熟練の連携によって完全に制圧された彼らは、黒い霧となって霧散していく。頭上で蠢いていた麻縄も、力を失ってボトボトと床に落ちた。
「……ハァッ、ハァッ……」
完全に敵を一掃した能舞台の中央で、三人は肩で大きく息をしながら立ち尽くした。
全身は傷だらけで、足は鉛のように重い。しかし、その背中はどんな強敵を前にした時よりも大きく、揺るぎない意地を見せつけていた。
『……チッ』
鏡板の前に立っていたエメが、悔しそうに舌打ちをする。
『……老イボレノ分際デ、悪足掻キヲ。イイデショウ、コノ奥デ、本当ノ絶望ヲ見セテアゲマス。……アナタタチノ、可愛イ子供タチト一緒ニネ』
エメの姿が、蜃気楼のようにドロドロと溶け、濃霧の中へ消えていく。
同時に、能舞台の奥にあった松の木の鏡板が真っ二つに割れ、さらに深淵へと続く暗い階段が現れた。
「……可愛い子供たち、か」
シオンは頬の血をマントの袖で拭いながら、不敵に笑った。
「あの子たちが、あんな三流の幻覚なんかに負けるわけないわ」
「違いねェ。ウチの若いのは、俺たちよりずっとタフだからな」
龍崎も丸太棍棒を肩に担ぎ直し、ハクも痛む胸を擦りながら頷く。
強がりではない。彼らは心から、カイルとリオナの魂の強さを信じていた。
肉体の限界を『経験』と『意地』でねじ伏せた大人たちは、いまだ見えぬ若き弟分と妹分の無事を確信しながら、狂気の城塞船の最深部へと、重く、しかし力強い足取りで進んでいくのだった。
『老い』による肉体の遅れと、底なしの疲労。幻夢魔道の悪夢の中で最悪のハンデを背負わされたシオンたち大人組でしたが、彼らはその衰えを「ベテランの経験値と連携」で完全にカバーしてみせました。
自分の体が遅れるなら、それを逆手にとってフェイントにする。力任せに暴れるのではなく、互いの死角を完璧に補い合う。若い頃のような圧倒的なスピードやパワーのゴリ押しではない、泥臭くも洗練された「極道の意地」が光る泥臭い総力戦を描きました。
第三部で見せた「精神の壁を乗り越える若者たち」と、第四部で見せた「肉体の限界を意地でねじ伏せる大人たち」。
互いに離れ離れになりながらも、それぞれの戦いを乗り越えた『反逆の泥舟』のクルーたちは、ついに顔のない少女・エメが待つ城塞船の最深部へと迫ります。
次なる第五部では、いよいよ分断されていた二つのグループが合流し、この陰湿な幽霊船の核心である巨大な怨念と対峙することになります。
次世代の光と歴戦の炎が交差する熱い展開に、どうぞご期待ください!




