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境界の双子〜二つの雷鳴が響くとき〜  作者: ユーディ
第九章:常闇の死海と、霧に沈む忘却の城塞船

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第九章3『暗闇の礼拝堂と、無力な光』

陰湿な『幻夢魔道』と疑心暗鬼の霧は、歴戦の極道たちの五感を奪い、肉体の「老い」という絶対的な綻びを突いて同士討ちの寸前まで彼らを追い詰めた。

身を挺したハクの防御と、自らの脳を紫電で焼くというシオンの荒業によって最悪の事態は免れたものの、視界を遮る濃霧は、反逆の泥舟が誇る『若き弟分と妹分』を彼らから容赦なく引き離していた。

頼れる背中を失い、和洋折衷の狂気の城塞船に取り残されたカイルとリオナ。

無敵の大人たちでさえ精神を削られるこの閉鎖空間で、未熟な二人に襲い掛かるのは「老いの恐怖」ではなく、彼ら自身の心の奥底に眠る「無力感」と「過去のトラウマ」であった。

光と治癒の魔法が届かない絶望の暗闇で、若者たちの凄惨な悪夢が始まる。

「シオンさん! 龍崎さん!! ハクさん!!!」


分厚く湿った濃霧に向かって、カイルは何度目かわからない叫び声を上げた。

しかし、その声は数メートル先の白い闇に吸い込まれ、こだますることすらなく不気味な静寂へと溶けていく。つい先ほどまで聞こえていた龍崎の豪快な足音も、シオンの凛とした声も、今は完全に途絶えていた。


「どうしよう、カイル……。シオンさんたちの気配が、完全に消えちゃった……」

カイルの背中をギュッと掴み、リオナが震える声で呟く。

彼女の尖った耳は、精霊の末裔として微細な音や魔力の流れを感知できるはずだった。だが、この空間を満たしている『幻夢魔道』の呪いが、彼女の優れた感覚をノイズで塗りつぶし、方向感覚すらも狂わせていた。


「大丈夫だよ、リオナ。僕が必ず君を守るから。……『聖光・霊樹のともしび』!」

カイルは不安を悟られまいと自分に言い聞かせながら、杖の先に魔力を込めた。

だが、杖の先端から生まれたはずの神聖な光は、まるで水に落とした墨汁のように、シュゥゥと音を立てて周囲の黒い霧に食い散らかされていく。普段なら広大な空間を照らし出すはずの光量が、今は足元の数歩先をぼんやりと青白く照らすのが限界だった。


「……嘘だろ。僕の魔力が、霧に分解されてる……?」

カイルは自身の杖を見つめ、ゴクリと唾を飲み込んだ。

大人組――シオン、龍崎、ハクがそばにいる時は、無意識のうちに彼らの放つ圧倒的な「気迫」が盾となり、この城塞船の狂気から二人を守ってくれていたのだと、カイルは今更ながら痛感していた。

彼らがいなくなった途端、肌を刺すような悪寒と、四方八方から見られているような得体の知れない視線が、カイルとリオナの精神を直接撫で回してくる。


チャプ……、チャプ……。


どこからともなく、水音が響いた。

足元の腐った畳を踏みしめながら、二人は警戒を解かずにゆっくりと回廊を進む。

やがて、霧の向こうに巨大な「両開きの扉」が浮かび上がった。西洋の大聖堂にあるような荘厳なアーチ状の扉だが、その表面には、無数の「お札」がびっしりと狂気的なほどに貼り付けられている。


「……進むしかないよね。ここにずっと留まっていても、霧に飲まれるだけだ」

カイルが杖を構え、意を決して扉に手をかける。

ギィィィィィィン……と、錆びた蝶番が耳障りな悲鳴を上げ、扉が重々しく開かれた。


その先に広がっていたのは、異様な空間だった。

構造自体は、高い天井とステンドグラスを備えた「キリスト教の礼拝堂」のようだ。しかし、本来なら長椅子が並んでいるはずの床には、泥水が足首の高さまで溜まっており、そこかしこに「卒塔婆そとば」が墓標のように乱立している。

そして、祭壇の奥。十字架が掲げられているはずの場所には、巨大な「仏像」――ただし、その顔面は半分が溶け落ち、無数の目玉が蠢く醜悪な怪物へと変貌した像が鎮座していた。


「なんなの、ここ……。気持ち悪い……ッ」

リオナが吐き気を催し、口元を押さえる。


バタンッ!!!


二人が足を踏み入れた瞬間、背後の扉がすさまじい勢いで閉ざされ、錠前が掛かるような重い音が響いた。


『……アラ。ヨウコソ、迷子ノ小鳥サンタチ』


泥水が満ちた礼拝堂の静寂を破り、あの顔のない少女・エメのひび割れた声が、空間全体から響き渡った。


「姿を見せろ! シオンさんたちをどこへやった!!」

カイルが祭壇の異形の仏像に向かって杖を突きつける。


『アノ野蛮ナ大人タチハ、今頃、自分ノ老イボレタ体ト心ニ絶望シテ、仲間同士デ殺シ合ッテイルコロデス。……デモ、安心シテクダサイ。未熟ナアナタタチニハ、モット相応シイ「終ワリ」ヲ用意シマシタ』


チャプ……。

祭壇の裏から、何かが泥水を掻き分けて這い出してくる音が聞こえた。


『アナタタチガ一番恐レテイルモノ。……アナタタチノ、足リナイモノデス』


姿を現したのは、ドロドロの汚泥で形作られた数体の「人型」だった。

しかし、その顔を見た瞬間、カイルとリオナは雷に打たれたように硬直した。


「……ウ、ソ……だろ……?」

カイルが震える声で呟く。


泥人形たちの顔。それは、これまでの過酷な旅の中で、カイルの治癒魔法が間に合わず、救うことができなかったかつての仲間たちや、無惨に殺されていった街の人々の「死に顔」そのものだったのだ。


『カイル……ドウシテ、タスケテ、クレナカッタノ……』

『イタイ……クルシイヨォ……』


泥人形たちが、生前と同じ声で、恨みがましくカイルに手を伸ばしてくる。


「違う……僕は……ッ!」

過去のトラウマを容赦なく抉り出す『幻夢魔道』の悪夢が、未熟な若き魔法使いの心を、容赦なく絶望のどん底へと引きずり込もうとしていた。


『イタイ……。カイル、ドウシテ私ヲ見捨テタノ……?』

『オ前ノ治癒魔法ナンテ、何ノ役ニモ立タナカッタジャナイカ……』


泥水を引きずりながら迫り来る、かつての仲間や無辜の民の顔をした泥人形たち。

彼らのうつろな瞳と、呪詛のように吐き出される言葉が、カイルの心臓を冷たい氷の刃で何度も何度も突き刺した。


「違う……見捨てたわけじゃない! 僕は、あの時も必死に……ッ!」


カイルは震える両手で杖を構え、迎撃の魔法を紡ごうとした。

だが、杖の先端に集まった光の魔力は、泥人形たちの「死に顔」を直視した瞬間に生じた強烈な罪悪感と自己否定によって、チカチカと明滅し、パチンと音を立てて霧散してしまった。


『幻夢魔道』は物理的な脅威ではない。術者の精神的な「揺らぎ」を魔力の乱れへと直結させ、無力化する。自分の魔法では彼らを救えなかったという、カイルの魂の根底にあるトラウマを餌にして、この狂気の礼拝堂は彼の魔力を完全に封じ込めたのだ。


『……ホラ、ヤッパリ。アナタノ光ハ、誰モ救エナイ』

堂内に響くエメのひび割れた声が、カイルの絶望を甘く撫でる。


「カイル! しっかりして!! あれは幻よ、本物じゃないわ!!」

リオナが叫びながらカイルの前に飛び出し、両手を広げて風の魔力を練り上げる。

「『霊樹の旋風シルフィード』ッ!!」


突風が堂内を吹き荒れ、迫り来る泥人形たちを吹き飛ばす――はずだった。

しかし、リオナの放った風の魔法は、泥人形たちを数歩後退させる程度の威力しか生み出さなかった。この礼拝堂に充満する濃霧と重い湿気が、精霊の力を著しく減衰させているのだ。


「ウソ……私の魔法が、全然効かない……っ」

「グジュル……、ガバァッ……」


後退した泥人形たちが再び態勢を立て直し、今度はリオナに向かって泥に塗れた腕を伸ばしてくる。

その時、リオナの鋭い耳に、カイルとは違う「別の声」が囁きかけてきた。


『リオナ……。私タチノ森ハ、焼カレテシマッタノニ……』

『アナタダケ、極道トカ言ウ野蛮ナ人間タチト、ヘラヘラ笑ッテ……ズルイ……ズルイ……!』


「――ッ!?」

リオナの視界が歪む。

目の前に迫る泥人形の顔が、今度はかつて故郷の森で焼け死んでいった同胞の精霊たちや、彼女を逃がすために犠牲になった家族の顔へとすり替わった。


「ち、がう……私は、森のみんなを忘れたことなんて……!」

『ウソツキ。大人タチニ守ラレテ、自分ダケ安全ナ場所デ息ヲシテイルダケジャナイ』


ドサッ。

精神の最も柔らかい部分を抉られたリオナの膝から力が抜け、泥水の中へと座り込んでしまった。


「リオナッ!!」

カイルが悲痛な声を上げるが、彼の足元にもすでに複数の泥人形が這い寄り、その冷たい泥の手でカイルの足首をガッチリと掴んでいた。


『ヒキズリ込メ……。俺タチト同ジ、冷タイ泥ノ底ヘ……』


ズズズズズッ……!!

足首を掴まれたカイルが、泥水の中へと引きずり倒される。

浅いはずの堂内の泥水が、まるで底なし沼のようにカイルの体を飲み込もうとしていた。口や鼻に、カビと腐臭に満ちた泥水が流れ込んでくる。


(……息が、できない……っ)

もがき苦しむカイルの視界の端で、リオナもまた、同胞の顔をした泥人形たちに取り囲まれ、虚ろな目で泥水に沈もうとしているのが見えた。


『アラ、モウ終ワリ? ヤッパリ、大人タチノ庇護ガナケレバ、アナタタチハタダノ無力ナ子供。……コノ狂ッタ海ヲ渡ル資格ナンテ、最初カラ無カッタノデス』


エメの嘲笑が、泥水の中にまで響いてくる。

シオンの背中に隠れ、龍崎やハクの力に頼り切っていた自分たちの「弱さ」。

それを容赦なく突きつけられ、光と治癒の魔法使いは、底なしのトラウマという絶望の暗闇の中へと、ゆっくりと沈んでいった。


(……冷たい。苦しい……っ)


泥水の中へ引きずり込まれたカイルの肺から、ゴボリと最後の空気が抜けていく。

鼓膜を打つのは、己が救えなかった者たちの怨嗟の声。彼らの言う通りだ。自分は無力で、いつだってシオンや龍崎たちに背中を守られて、安全な場所から杖を振っているだけの子供に過ぎない。ここで泥に沈むのが、自分に相応しい末路なのかもしれない。


『……ホラ、抗ウノヲヤメレバ、楽ニナリマスヨ』


水面の上から聞こえるエメの甘い囁きに、カイルの意識が白く遠のきかけた、その時だった。


――『極道あたしたちの喧嘩に、冷や水をぶっかけてんじゃないわよッ!!』――


脳裏にフラッシュバックしたのは、アウストラ大陸の深淵で、絶対的な『虚無』の絶望を前にして一歩も引かず、極彩色の炎を燃やし尽くしたシオンの姿だった。


(……そうだ。シオンさんは、過去の亡霊トラウマになんて絶対に屈しなかった)


カイルの胸の奥で、小さな、しかし決して消えない熱が灯った。

僕は無力だ。過去に救えなかった命は、もう二度と戻らない。

でも、だからといって、彼らの死に顔を被った「紛い物」に、現在いま生きている自分たちの命まで差し出す理由にはならない。

そんな情けない真似をしたら、それこそあの不敵な大将シオンに、鼻で笑われて破門されてしまう。


「……ふざけ、るな……ッ!!」


泥水の中で、カイルは強く両目を開いた。

彼の右手に握られた杖が、これまでにないほど強烈な脈動を始める。

トラウマによる罪悪感を、底知れぬ「怒り」と「覚悟」で塗り潰す。己の命を諦めないという強烈なエゴが、泥に食い散らかされていた光の魔力を限界まで圧縮させていく。


「過去を言い訳にして、僕たちを舐めるなァッ!!」


バツンッ!!!!!


泥の底から、眼を焼くような純白の閃光が爆発した。

カイルの全身から放たれた『聖光』が、物理的な衝撃波となって泥水ごと泥人形たちを天井まで吹き飛ばす。


「プハァッ……! ハァッ、ハァッ……!」

泥水から勢いよく立ち上がったカイルは、一切の迷いがない鋭い眼差しで、周囲の泥人形たちを睨みつけた。


「僕は弱い! だからこそ、過去の悲しみを背負って、これからの命を救うんだ! お前らみたいな陰湿な幻覚ゴミに、足元をすくわれてる暇はないッ!!」


カイルは息つく暇もなく、泥水に顔を沈めて虚ろな目をしているリオナの元へ駆け寄った。

「リオナッ! 目を覚まして!!」

彼の手がリオナの頬を強く叩く。


「あっ……カイル……? 私、森のみんなが……」

「違う! よく見て、リオナ! 君の故郷の誇り高き精霊たちが、こんな陰気な泥人形になるわけがない! 奴らは君の悲しみを侮辱してるんだ!!」


カイルの真っ直ぐな言葉が、リオナの鼓膜を打ち、その瞳に光を取り戻させた。

「私の悲しみを……侮辱……」

リオナの尖った耳がピクリと動き、彼女を取り囲んでいた同胞の顔を持つ泥人形たちを睨み据える。


『ヒィ……ズルイ、リオナダケ、イキテ……』

「……黙りなさい」


リオナの翠緑の瞳に、静かな、しかし確かな怒りの炎が宿った。

「私を逃がしてくれたみんなの覚悟を、あんたたちみたいな紛い物が、泥で汚すんじゃないわよッ!!」


リオナが両手を強く合わせると、彼女の周囲の泥水が竜巻のように天へと逆巻いた。

「カイル、合わせるわよ!!」

「うんっ!!」


若き二人の魔力が、かつてない純度で共鳴する。

「『霊樹の浄風じょうふう』!!」

「『聖光・払暁のふつぎょうのせん』ッ!!」


リオナの巻き起こした神聖な旋風に、カイルの放つ極大の光の矢が乗る。

光と風の複合魔法は、礼拝堂を満たしていた疑心暗鬼の濃霧を一瞬にして吹き飛ばし、迫り来る泥人形たちを次々と光の粒子へと還元していった。


『ギ、ギァァァァァァァッ……!?』

断末魔を上げたのは泥人形たちだけではない。

祭壇の奥に鎮座していた、無数の目玉を持つ異形の仏像すらも、二人の放つ光の旋風に耐えきれず、メキメキと音を立てて崩壊し、跡形もなく消え去った。


光が収まり、静寂が戻った礼拝堂。

足首まで浸かっていた泥水は嘘のように干上がり、そこにはただ、冷たい石畳と朽ちた長椅子だけが残されていた。

濃霧も晴れ、祭壇の後ろには、さらに奥へと続く重厚な鉄の扉が現れている。


「……ハァ、ハァ……。やった、ね……リオナ」

「ええ……。私たちだけで、なんとか追い払ったわ」


カイルとリオナは、泥だらけになった互いの顔を見合わせ、安堵と達成感の混じった笑みを浮かべた。

大人たちに守られるだけの「子供」からの脱却。最も柔らかい精神の傷を抉られながらも、彼らは自らの意志でそれを乗り越え、この狂気の城塞船において初めて自分たちの力で活路を切り開いたのだ。


「行こう、リオナ。この奥に、きっとこの船の中枢があるはずだ。早くシオンさんたちと合流しないと」

「ええ。もう、足手まといなんて言わせないわ」


若き極道たちは、もはや迷うことなく真っ直ぐな瞳で、次なる鉄の扉へと歩みを進めた。

『反逆の泥舟』が誇る未来の光。彼らの成長という確かな反撃の狼煙が、この絶望の幽霊船に、静かに、しかし力強く上がったのである。

大人たちとはぐれ、自らのトラウマを抉り出す最悪の幻夢魔道に囚われてしまったカイルとリオナ。

自身の無力感と過去の罪悪感に押し潰され、一度は泥水の中へ沈みかけた彼らでしたが、シオンの生き様を思い出し、己の「怒り」と「覚悟」を燃料にして立ち上がりました。

カイルとリオナによる光と風の複合魔法は、見事にトラウマの泥人形と異形の仏像を吹き飛ばしました。これは単に敵を倒したというだけでなく、彼らが大人たちの庇護下から抜け出し、一人前の『反逆の泥舟』のクルーとして精神的な成長を遂げた非常に重要なシーンとなりました。


無敵を誇るがゆえに「老いと肉体の遅延」に苦しむシオンたち大人組と、未熟であるがゆえに「精神の壁」を乗り越えて強くなる若者組。

この残酷で美しいコントラストが、第九章から第十章へと続く『継承』のテーマをより一層引き立てていきます。


自力で活路を切り開いたカイルとリオナは、シオンたちと無事に合流できるのか。

次なる第四部では、再び大人組(シオン、龍崎、ハク)の視点へと戻り、彼らを待ち受けるさらなる悪夢の迷宮探索が描かれます。絶望の城塞船の核心へと迫る極道たちの歩みを、引き続きお楽しみください!

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