第九章2『疑心暗鬼の回廊と、歪む足音』
底なしの怨念を孕んだ霧が立ち込めるその閉鎖空間で、歴戦の極道であるシオンと龍崎を襲ったのは、敵の強大な攻撃ではなく、己の肉体がほんのコンマ数秒「脳の命令に遅れる」という、抗いようのない『老い』と『疲労』の兆候であった。
物理的な破壊力が意味を成さない精神的な死地。顔のない不気味な少女・エメに導かれ、一行はさらに船の奥深くへと足を踏み入れていく。
無敵を誇った彼らが初めて直面する「己自身の限界」。強固だったはずのファミリーの絆を蝕む、終わりのない疑心暗鬼の迷宮探索が幕を開ける。
腐った畳と冷たい石畳が交互に敷かれた歪な回廊に、顔のない少女・エメの履くぽっくり下駄の音だけが、やけに大きく、そして不規則に反響していた。
壁に備え付けられた西洋の燭台には、青白い東洋の人魂のような炎が揺らめき、シオンたちの影を奇怪な形に引き伸ばしている。
「……なぁ、カイル。この廊下、さっきから下り坂になってねェか?」
周囲を警戒しながら歩いていたハクが、不意に足を止めて後ろを振り返った。
「えっ? いや、僕の感覚だとずっと真っ直ぐな平坦な道を進んでるはずだけど……」
最後尾を歩くカイルが、困惑したように杖の光を足元へ向ける。
確かに目視する限りでは、廊下は水平だ。しかし、ハクの研ぎ澄まされた平衡感覚は「重力の向きが徐々に斜めになっている」と警鐘を鳴らし続けていた。
「ハクの言う通りだ。どうも足の裏から伝わる重心がおかしい」
龍崎が丸太棍棒を肩に担ぎ直し、忌々しそうに首を鳴らした。
「それになんだってんだ、このジメジメした空気は。歩いてるだけで、関節の隙間に鉛でも流し込まれてるみてェに体が重くだるくなってきやがる……」
龍崎の言葉に、シオンはマントの下でギュッと右拳を握りしめた。
(……私だけじゃない。龍崎の体にも、確実に『ガタ』が来てる)
アウストラ大陸での連戦、限界を超えたオーバードライブの反動、そして何より、数え切れないほどの死線を越えてきた肉体の酷使。
極道としての強靭な意志で無理やり蓋をしていた「老い」の兆候が、この城塞船に蔓延る『幻夢魔道』の呪いと濃霧によって、強制的に表面化させられているのだ。
「あんたたち、文句言ってないで気を引き締めなさい。……ここは、極道の感覚そのものを食い物にしようとしてるわ」
シオンは努めて普段通りの、鋭くドスの効いた声で仲間たちを鼓舞しようとした。
――だが。
『……ォ……マエ、ノ、セ、イ、ダ……』
シオンの耳に、あり得ない「ノイズ」が混じった。
ハクや龍崎にかけたはずの自らの声が、一瞬だけ、かつて泥の時代で切り捨てた者たちの「怨嗟の呻き声」にすり替わって聞こえたのだ。
「ッ……!?」
シオンは思わず足を止め、紫の瞳を見開いた。
「姉御? どうかしたのか?」
前を歩く龍崎が振り返る。その顔は心配そうにシオンを見つめているはずだった。
しかし、濃霧越しに見えた龍崎の顔面が、ほんの一瞬、半分ドロドロに溶け落ちた「死体の顔」に歪んで見えた。
「龍崎、あんたの顔――」
シオンが咄嗟に身構え、右腕に炎を練り上げようとしたその瞬間。
ズキンッ、と膝の裏に鋭い痛みが走り、魔力の生成がまたしてもコンマ数秒遅れた。
「姉御? 俺の顔がなんだって?」
龍崎が訝しげに眉をひそめながら、一歩近づいてくる。
瞬きをした直後、龍崎の顔はいつもの傷だらけの厳つい面構えに戻っていた。
「……なんでもないわ。霧が濃くて、見間違えただけよ」
シオンは痛む膝を庇うように立ち方を変え、冷や汗を飲み込んだ。
(……幻覚、そして幻聴。五感への直接干渉……これが『幻夢魔道』の力。物理的な盾じゃ防げないわね)
『……ドウシマシタカ? アナタタチノ、足音ガ、揃ッテイマセンヨ』
先頭を歩いていたエメが、カランと音を立てて立ち止まり、首を180度真後ろに捻ってシオンたちを見つめた。
のっぺらぼうの顔の表面に、今度はシオン自身の「怯えた顔」がチカチカとノイズのように浮かび上がっては消える。
『ミナサン、オ疲レノヨウデス。……無理ハイケマセン。体ガ動カナイノナラ、心ノ中ダケデモ、争イヲヤメテシマエバ、楽ニナレマスヨ……?』
少女の形をした呪いの集合体が、極道たちの最も脆くなりつつある「肉体の限界」と「心の隙」を、甘く、そして陰湿に撫で回してくる。
「……ふざけた真似を。誰に口を利いてるか、その空っぽな顔に刻み込んでやるわッ!」
シオンの堪忍袋の緒が切れ、ついに右腕から『極彩色の炎』が――これまでにないほど不安定に揺らめきながら――立ち昇った。
しかし、シオンがエメに向かって踏み込もうとした、まさにその時。
「キャアアアアアアアアアッ!!!!」
背後から、リオナの悲鳴にも似た絶叫が回廊に響き渡った。
「リオナ!?」
シオンと龍崎が弾かれたように振り返る。
しかし、濃密な白霧がいつの間にか彼らの背後を完全に遮断しており、つい数メートル後ろを歩いていたはずのカイルとリオナの姿は、跡形もなく消え失せていた。
「リオナ! カイル!!」
シオンは痛む膝の軋みを無視して床を蹴り、濃密な白霧の中へ飛び込んだ。
数メートル後方を歩いていたはずの二人の姿は、まるで初めから存在しなかったかのように掻き消えている。残されているのは、生温かく湿った空気と、カビの臭いだけだった。
「クソッ、どこに行きやがった! おい、カイル! 姉御の弟分!!」
龍崎も丸太棍棒を握りしめ、霧の壁に向かって怒鳴り声を上げる。
だが、どんなに大声を上げても、声は分厚い霧と腐った畳に吸い込まれ、全く反響しない。それどころか、先ほどまで一定のリズムで響いていたエメの下駄の音すらも、いつの間にか完全に途絶えていた。
『……アラ。ハグレテハ、イケナイ、ト言ッタノニ』
不意に、四方八方の虚空から、エメのひび割れた声が囁きかけてきた。
右耳から聞こえたかと思えば、次は左耳から、さらには頭蓋骨の内側から直接響いてくるような錯覚。
「ふざけるな……ッ! あの二人をどこへやった!!」
シオンが右腕に極彩色の炎を灯し、周囲の霧を焼き払おうとする。
しかし、やはり着火がコンマ数秒遅い。さらには、本来なら周囲の空間ごと圧倒的な熱量で制圧するはずの極炎が、酸素を奪われたようにシュゥゥと音を立てて萎縮し、シオンの手元でボヤボヤと燻る程度にまで威力を落としていた。
(……魔力が、練れない。いや、脳の命令に対して、体が完全に同調していないんだわ……っ)
これまでの過酷な連戦で蓄積された『老い』という名の絶対的な疲労。それが、この城塞船の『幻夢魔道』による精神的重圧と合わさることで、シオンの最強の武器である「闘争本能の爆発」に致命的なブレーキをかけていた。
「チィィィッ! 小細工ばかりしやがって! なら、このフザケた迷路ごとぶっ壊してやるよォッ!!」
苛立ちを極限まで募らせた龍崎が、渾身の力で壁の石積みに丸太棍棒を叩き込んだ。
ズドォォォォォォンッ!!!
すさまじい轟音と共に壁が砕け散る。しかし、破壊された壁の向こうに広がっていたのは、次の部屋や通路ではなく、蠢く漆黒の髪の毛がびっしりと詰まった「底なしの虚無」だった。
「……ッ、グ、ォ……」
壁を砕いた直後、龍崎が顔を苦痛に歪め、右肩を押さえてうめき声を漏らした。
規格外の膂力で硬い石壁を粉砕した衝撃が、蓄積された疲労とともに関節を逆流し、彼自身の肉体に強烈な反動を与えてしまったのだ。
「やめなさい龍崎!! 闇雲に暴れても体力と魔力を消耗するだけよ! いったん冷静に――」
シオンが鋭く制止の声を飛ばした。
――しかし。その声は、濃霧というフィルターを通ることで、陰湿な『幻夢魔道』の呪いによって龍崎の耳元で残酷に歪められた。
『――役立たずの老いぼれが。足手まといになるなら、ここで死ね』
「……あ?」
右肩を押さえたまま、龍崎の動きがピタリと止まる。
「龍崎? どうしたの、肩の具合が――」
シオンが心配して一歩近づく。
だが、龍崎の血走った目に映ったのは、気遣うシオンの姿ではなかった。
濃霧の中で極彩色の炎を弱々しく燻らせるその姿は、龍崎がかつての極道抗争で殺し、今でも夢に見る「顔の潰れた怨霊」そのものに見えていたのだ。
「……誰が、老いぼれだと……?」
龍崎から、どす黒い殺気が膨れ上がる。
「昔の亡霊の分際で、ウチの大将の顔で俺をコケにする気か……ッ! 叩き潰してやるッ!!」
「ちょっ……龍崎!? あんた、何を……ッ!」
シオンの目に映る龍崎の顔面にも、不気味な「能面(小面)」が張り付いているかのような幻覚が明滅していた。
『幻夢魔道』と疑心暗鬼の霧。それは、単に視界と聴覚を奪うだけでなく、彼らの心底に眠る「老いへの恐怖」や「トラウマ」を容赦なく抉り出し、最も信頼する味方の姿を「敵」へとすり替える最悪の精神呪詛。
ブォォォォォォンッ!!
正気を失いかけた龍崎の丸太棍棒が、シオンの頭部を粉砕すべく、容赦ない速度で振り下ろされた。
(躱せない……ッ!!)
肉体の反応遅れにより、シオンの足が畳に縫い付けられたように動かない。
強固だったはずの反逆の泥舟の絆が、かつてない陰湿な狂気によって、今まさに同士討ちという最悪の形で引き裂かれようとしていた。
ブォォォォォォンッ!!
正気を失った龍崎の丸太棍棒が、空気を引き裂きながらシオンの頭上へと迫る。
肉体の遅延によって回避が間に合わない。シオンが咄嗟に左腕を盾にしようとした、その刹那だった。
ガガァァァァァァァァンッ!!!!
火花が散り、激しい金属音が鼓膜を劈く。
シオンと龍崎の間へ滑り込むように飛び出してきたのは、ハクだった。彼は両手の短剣を十字に交差させ、龍崎の絶死の一撃を間一髪で受け止めていた。
「グ、ガァァッ……! 目ェ覚ませ、この筋肉ダルマァッ!!」
ハクが血を吐きながら叫ぶ。
しかし、彼自身もまた『幻夢魔道』による空間認識のバグに苦しんでおり、完璧な防御姿勢をとれてはいなかった。圧倒的な膂力に押し負け、ハクの体は畳の上を数メートル後方へと無惨に弾き飛ばされた。
「ハクッ!!」
シオンが叫ぶ。だが、龍崎の目は依然としてドス黒い殺意に濁り、幻覚の怨霊へ向けて再び棍棒を振り上げようとしていた。
(……このままじゃ、本当に殺し合いになる)
シオンは痛む膝の軋みを気合いでねじ伏せ、前へと大きく踏み出した。
これ以上、肉体の反応遅れを言い訳にはしていられない。彼女は外へ放つはずだった『極彩色の炎』の熱量をすべて「自身の体内」へと逆流させた。
脳内を蝕もうとする『幻夢魔道』の陰湿な魔力回路を、己の闘争本能の熱で直接焼き切るという荒業である。
「ッ……ガ、ァァァッ!!」
脳味噌が煮え繰り返るような激痛に視界が白濁するが、それと同時に、龍崎の顔面に張り付いていた能面の幻覚が完全に焼け落ちた。
「極道の前で、つまらない幻に踊らされてんじゃないわよッ!!」
シオンは龍崎の懐へと神速で潜り込み、振り下ろされようとしていた彼のごつい右腕を、素手でガシィッと掴み取った。
「なっ……!?」
怨霊の幻覚が突然、圧倒的な熱量を持ったシオンの姿へと変わったことに、龍崎が驚愕の声を上げる。
バチバチバチィィィィィッ!!!
シオンは掴んだ腕から、圧縮した「紫電」を龍崎の経絡へと直接流し込んだ。
破壊するための雷ではない。彼の肉体と精神を狂わせている疑心暗鬼の霧を、内側から強制的に「再起動」させるためのショック療法だ。
「ガ、アァァァァァァァァァッ!?」
強烈な紫電のショックに龍崎が白目を剥き、丸太棍棒を取り落としてその場にドスンと膝をついた。
「……ハァッ……、ハァッ……」
シオンもまた、極限の集中と無理な魔力操作の反動で大きく肩を揺らし、滝のような汗を流していた。
「あ、姉御……? 俺は、一体……」
紫電によって幻覚から解放された龍崎が、荒い息を吐きながら己の両手と、弾き飛ばされて壁に寄りかかっているハクを見て、一瞬にして血の気を引かせた。
「俺……仲間を……あんたを、この手で……」
「……気にするな。あんたのせいじゃないわ」
シオンは龍崎の頭を乱暴に撫で、彼を立たせた。
「ここは、極道の一番見たくないものを抉り出してくる。……これまでの力任せの喧嘩と同じだと思ったら、本当に足元をすくわれるわよ」
「……面目、ねェ。たるんでたのは俺の心の方だったってことか」
龍崎がギリッと奥歯を噛み締め、己の拳を壁に叩きつけて後悔を滲ませる。ハクも痛む胸を押さえながら、なんとか立ち上がって二人の元へ合流した。
『……アラ。ツマラナイ。モウ少シデ、綺麗ナ赤色ガ、畳ニ広ガルトコロダッタノニ』
その時。
濃霧の奥から、再びエメの歪な声が響き渡った。
『デモ、安心シテクダサイ。迷子ニナッタ若イ二人ニハ、トッテオキノ「悪夢」ヲ用意見シテアリマス。……アア、ホラ。イイ悲鳴ダコト』
「……ッ! リオナ!! カイル!!」
エメの声に呼応するように、遥か回廊の奥深くから、リオナの絶望に満ちた叫び声と、何かが砕け散るようなすさまじい破壊音が微かに響いてきた。
「チッ……! ハク、動けるわね!? 龍崎、あんたも気合い入れ直しなさい!!」
シオンが紫の瞳に決死の覚悟を宿し、霧の奥を睨みつける。
「応ッ! 今度こそ、あのお面野郎を木端微塵にしてやるぜ!」
「当然だ。あの顔ナシ、絶対にタダじゃおかねェ……!」
老いと疲労による肉体の遅延。そして、心への直接干渉。
己の限界という最大の弱点を突きつけられながらも、泥だらけの極道たちは決して立ち止まらない。
行方不明となった若き弟分と妹分を救い出すため、シオンたちは怨念が渦巻く和洋折衷の回廊のさらに深淵へと、満身創痍の体で飛び込んでいくのであった。
『幻夢魔道』による疑心暗鬼の霧は、シオンたちの五感を奪うだけでなく、心の奥底にあるトラウマや焦りを増幅させ、最も恐ろしい「同士討ち」の事態を引き起こしました。
これまでの圧倒的な暴力では解決できないサイコホラーの領域。さらに「老い」による肉体の反応の遅れが、歴戦の極道たちをかつてないほど苦しめています。シオンが自身の脳を直接炎で焼いて正気を保つという荒業に出たのも、今の彼女の肉体が限界に近い状態にあることを示しています。
ハクの身を挺した防御とシオンの起点により、間一髪で最悪の事態を免れた大人組。しかし、はぐれてしまったカイルとリオナは、顔のない少女エメによって別の「悪夢」へと突き落とされてしまったようです。
次なる第三部では、分断された若き二人の視点へと移り、彼らを襲う幻夢魔道の真の恐ろしさが描かれます。
光の魔法使いと治癒の精霊の末裔は、この底なしの精神的死地をどう生き延びるのか。次回の更新もどうぞお見逃しなく。




