第九章1『這い寄る静寂と、和洋折衷の怪異』
アウストラ大陸の地下深くに巣食っていた原初の絶望を、『極彩・黎の超新星』によって完全に消し飛ばしたシオンたち。
数万年ぶりに青空を取り戻した未開の大地を後にし、『反逆の泥舟』はさらなる未知の海域へと帆を進めた。しかし、極道たちの過酷な航海に安息の時間は長くは続かない。
圧倒的な暴力と質量の死闘を乗り越えた一行を次に待ち受けていたのは、腕力や魔力のゴリ押しが一切通用しない、冷たく湿った「精神的な死地」であった。
視界を奪う濃霧、そして西洋の城塞と東洋の怪異が入り混じる狂気の閉鎖空間で、無敵を誇った極道たちの「心」と「肉体」が静かに削られ始める。
チャプ……、チャプ……。
波の音すらかき消すほどの、分厚く、白濁した濃霧。
アウストラ大陸を出航してから数日、『反逆の泥舟』は一切の風が吹かない、不気味なほどに凪いだ海域――『常闇の死海』へと迷い込んでいた。
空の色はおろか、数メートル先の海面すら見えない。ただ、ねっとりとした冷たい湿気だけが、乗組員たちの肌にじっとりとまとわりついてくる。
「……チッ。なんだってんだ、この気味の悪い海はよ」
甲板で腕組みをしていた龍崎が、忌々しそうに舌打ちをした。
彼はふと右肩を回し、顔をしかめる。アウストラ大陸での死闘から数日が経過しているというのに、筋肉の奥底にこびりついたような鉛色の疲労感が、一向に抜ける気配がないのだ。
(……おかしいな。昔なら、一晩肉を食って寝りゃあ、どんな怪我でもケロリと治ってたはずなんだが……)
「龍崎、ぼーっと突っ立ってないで周囲を警戒しなさい。……嫌な気配がするわ」
船首に立つシオンが、鋭い声で注意を促した。
しかし、その彼女自身もまた、マントの下で微かに膝の関節に走る「鈍い軋み」を悟られないよう、静かに重心を調整していた。
限界を超えた『内燃式』の乱用。その代償は、カイルたちの治癒魔法をもってしても完全に拭い去ることはできず、歴戦の極道たちの肉体に「老い」という名の不可逆の影を、確実に落とし始めていたのである。
「姉御、マジで何も見えねェぞ。俺の目でも、この霧の先は……ッ!?」
マストの上で見張りをしていたハクが、不意に声を上ずらせた。
ハクの超人的な動体視力と空間把握能力が、突如としてバグを起こしたかのように視界を歪ませたのだ。
「どうしたの、ハク!」
リオナが心配そうに見上げる。
「前方に……何か巨大な影がある! 島か……いや、動いてるぞ! 船だ!!」
ハクの叫びと同時に、泥舟の周囲を覆っていた濃霧が、まるで巨大なカーテンが引き剥がされるようにモワァッと割れた。
そして、シオンたちの見上げる先に、それ(・・)は音もなく姿を現した。
「……冗談でしょ。何よ、あの悪趣味なツギハギは」
シオンが紫の瞳を細め、思わず呟く。
それは、船と呼ぶにはあまりにも巨大すぎた。一個の島ほどの質量を持つその異形は、土台こそ中世ヨーロッパのゴシック様式を思わせる、尖塔やガーゴイルの石像が並ぶ『灰色の古城』であった。
しかし、その西洋の石造りの城壁にへばりつくように、朱色が剥げ落ちた巨大な「鳥居」や、苔生した「瓦屋根」、そしてボロボロに破れた障子のある「平安時代の御所」のような木造建築が、無数に増築され、融合していたのだ。
冷たい石の洋城と、湿った木造の和建築。
全く異なる二つの様式が、まるで癌細胞のように無秩序に絡み合った、和洋折衷の超巨大な城塞船。
西洋のステンドグラスの窓からは、東洋の行灯のような青白い火が揺らめき、城壁の随所には、おぞましい量の注連縄と御札がびっしりと貼り付けられている。
「……魔力反応、最悪です。あの船全体から、僕たちの魔力を吸い取って泥水に変えるような、陰湿な呪いが垂れ流されてます……ッ」
カイルが杖を握る手を震わせた。彼が灯した光の魔法が、周囲の霧に食べられるように、シュゥゥと音を立てて縮んでいく。
ギギギギギギギギギ…………ッ。
泥舟がその異形の城塞船の真横に並んだ瞬間、城壁の一部に設けられていた巨大な木製の門が、内側から重々しい音を立てて開いた。
まるで、「反逆の泥舟」が来るのをずっと待っていたかのように。
「……どうやら、招待されてるみたいね」
シオンは右腕に極彩色の炎を灯そうとした。
しかし、いつもなら瞬時に爆発するはずの闘争の炎が、湿った薪に火をつけるように、ほんの一瞬だけ「遅れて」発火した。
(……チッ。どうも体の調子が狂うわね。この霧のせいかしら)
シオンは僅かな思考の遅れを強引に振り払い、不敵な笑みを浮かべて仲間たちを振り返る。
「行くわよ、あんたたち。どんな悪趣味な幽霊屋敷だろうと、極道の行く手を阻むなら、その土台ごと焼き払うまでよ」
決して腕力では解決できない、陰湿で残酷な精神の迷宮。
歴戦の極道たちが、自らの「肉体の衰え」と「心の闇」に直面することになる
ギィィィィィィィィン…………。
シオンたちが開かれた巨大な木門をくぐり、城塞船の内部へと足を踏み入れた瞬間。
背後の門が、まるで見えない巨人に押し潰されたかのような凄まじい轟音を立てて完全に閉ざされた。
「……出迎えのつもりかしら。陰気くさいことこの上ないわね」
シオンは紫の瞳を暗闇に慣らしながら、周囲の様子を窺う。
「カイル、明かりを頼むぜ」
「はい……『霊樹の灯』!」
カイルが杖の先に光の球を灯す。しかし、その光は普段の十分の一ほどの範囲しか照らし出さない。この城塞船に満ちている『濃霧』そのものが、魔力を分解し、光を食い殺しているのだ。
薄暗い光の中に浮かび上がったのは、正気を疑うような狂気の美術だった。
基本構造は、ゴシック様式の石造りの巨大な回廊だ。しかし、冷たい石畳の上には、血のようにどす黒い染みがついた「腐った畳」がどこまでも敷き詰められている。
壁面には、本来ならステンドグラスがあるべきアーチ状の窓枠に、破れた「障子」が嵌め込まれており、その向こう側で、青白い人魂のような行灯の火が不規則に揺らめいている。
さらに、等間隔に並べられた中世ヨーロッパの銀の甲冑――その顔の部分にはすべて、真っ白で無機質な東洋の「能面(小面)」が、不気味な角度で括り付けられていた。
「……なんなのよ、ここは。趣味が悪いにも程があるわ」
リオナが自身の両腕をさすりながら、カイルの背中に身を寄せる。
「それだけじゃねェ。……音だ」
龍崎が丸太棍棒を構えながら、油汗を流して唸った。
「俺の足音が、まったく反響しねェ。まるで足元の畳が、音も気配も全部吸い取っちまってるみたいだ」
「姉御、気をつけてくれ。俺の目でも、この空間の『距離感』がうまく掴めねェ……!」
空間把握の天才であるはずのハクが、目を細めてしきりに瞬きを繰り返している。
「廊下の先が真っ直ぐなのか、曲がってるのか……いや、壁が生き物みたいに歪んで見えやがる。感覚が狂うぞ」
五感を狂わせる陰湿な呪いと、和洋が入り混じった異質な空間。
これまでの「力のぶつかり合い」とは全く異なる、真綿で首を絞められるような圧迫感に、歴戦の極道たちの精神がじわじわと削られていく。
カタ……カタカタカタカタッ……!
不意に、廊下の両脇に並んでいた能面付きの甲冑たちが、一斉に不気味な音を立てて震え始めた。
そして、そのうちの一体が、錆びついた大剣を引きずりながら、シオンたちに向かって「ズルリ」と歩み出たのである。
「チッ、からくり人形か亡霊か知らねェが、邪魔するならぶっ壊すまでだァッ!!」
龍崎が咆哮と共に踏み込み、大上段から渾身の丸太棍棒を振り下ろす。
しかし。
「――っ!?」
ドンッ!! という鈍い音と共に、龍崎の棍棒は、甲冑の頭部ではなく「半歩手前の虚空」を叩いていた。
(……バカな!? 俺が距離感を読み違えただと……!?)
龍崎の顔に驚愕が走る。
空間の歪みによる錯覚か、それとも長年の蓄積による肉体の「衰え」が、彼の完璧だった反射神経にコンマ数秒のズレを生じさせたのか。
「ギギギギギギギ……ッ」
龍崎の攻撃が外れたその一瞬の隙を突き、能面を被った甲冑が大剣を無造作に振り上げる。
「龍崎ッ!」
シオンが即座にカバーに入り、右腕に『極彩色の炎』を纏わせて甲冑の胴体を横から殴り飛ばした。
ガシャアァァァァァァンッ!!
銀の甲冑が砕け散り、不気味な能面が畳の上をカラカラと転がっていく。
しかし、シオンの顔に安堵はない。
(……今、炎を纏うまでに、ほんのわずかに『遅れ』があった。私の体、本当にどうなってるの……?)
「姉御、龍崎! 油断するな! 中身が……!!」
ハクの切羽詰まった声に、シオンと龍崎が砕けた甲冑へと視線を戻す。
物理的に破壊したはずの甲冑の残骸。
その空洞の中から溢れ出してきたのは、血でも肉でもなく――底なしの怨念を孕んだ「漆黒の女の髪の毛」と、周囲の視界をさらに奪うような「ドス黒い霧」であった。
ゾワァァァァァァァッ……!!
黒い霧が、シオンたちの足元へ蛇のように這い寄ってくる。
『……迷子ニ、ナッタノ……?』
直後。
視界を完全に奪う濃霧の奥から、カタコトと不自然なアクセントの、幼い少女の声が響いた。
カラン、コロン……と、硬い靴の音とも、下駄の音ともつかない不気味な足音が、静寂の回廊の奥からゆっくりと近づいてくる。
カラン……、コロン……。
石畳の上に敷かれた腐った畳を踏みしめる、硬質な足音。
視界を黒く塗りつぶそうとする怨念の霧の奥から姿を現したのは、一人の小柄な少女だった。
「……子供、だと?」
油汗を拭いながら、龍崎が目を細める。
その少女の姿は、この狂った城塞船をそのまま体現したかのように異様であった。
身に纏っているのは、色褪せた中世ヨーロッパ風の豪奢なフリルドレス。しかし、その腰には不釣り合いな金糸の「丸帯」が固く締められており、足元には洋靴ではなく、朱塗りの「ぽっくり下駄」を履いている。
『ヨウコソ。……ドコカデ、道ニ迷イマシタカ?』
抑揚のない、すりガラスを爪で引っ掻くような不快な声。
少女がコテン、と小首を傾げた瞬間。彼女の顔を直視したハクが、弾かれたように息を呑み、後ずさった。
「ッ!? 姉御、見ちゃダメだ!! そいつの顔……!!」
ハクの警告と同時に、シオンの紫の瞳が少女の「顔」を捉える。
――無いのだ。
目も、鼻も、口も。少女の首の上には、ただ卵の殻のようにツルリとした、無機質で真っ白な「のっぺらぼう」の肌があるだけだった。
いや、それだけではない。無のはずの顔の表面に、時折ノイズのように、泥の時代でシオンが殺してきた者たちの「死に顔」や、龍崎の知る死んだ兄弟分たちの「歪んだ笑顔」が、チカチカと瞬いては消えていく。
「……趣味の悪い幻覚ね。新手のスタンドプレーかしら」
シオンは吐き気を催すような悪寒を強引に呑み込み、少女に向かって一歩踏み出した。
『ワタシハ、エメ。コノ霧ノ中ヲ案内スル、名モナキ者デス』
顔のない少女――エメは、シオンの放つ明確な殺気を意に介する様子もなく、ドレスの裾をつまんで古風なカーテシー(西洋の挨拶)をして見せた。
彼女が優雅にお辞儀をすると、周囲を這い回っていた漆黒の髪の毛と黒い霧が、まるで主人の命令に従う犬のように、シュルシュルと音を立てて暗がりへと退いていく。
「案内人? 極道をこんなカビ臭い幽霊船に引きずり込んでおいて、ずいぶんと舐めた口を利くじゃない。……そのふざけた顔ごと、消し炭にしてあげるわ」
シオンは右腕を掲げ、『極彩色の炎』で少女を吹き飛ばそうとした。
――だが。
(……え?)
火が、点かない。
魔力が枯渇しているわけではない。『黎の魂』は間違いなく胸の奥で鼓動している。しかし、「炎を放つ」という脳からの命令に対して、自身の肉体がほんのコンマ数秒、ストライキを起こしたかのように反応しなかったのだ。
これまでの数万回の戦闘で、一度たりとも起きたことのない「肉体の遅延」。
『……オヤ? ドウシマシタカ、お客サマ。……オ疲レ、ノヨウデスネ』
エメの顔に口はない。だが、シオンには確かに、この顔のない少女が「歪んだ嘲笑」を浮かべたのがわかった。
「……ッ、このガキ……!」
シオンは舌打ちをし、力任せに右拳を握り直す。
だが、その背中越しに、龍崎が荒い息を吐きながら丸太棍棒を杖のようにして立っている姿が見えた。彼もまた、先ほどの空振りのショックと、己の肉体への拭いきれない違和感に、かつてない焦燥を抱いている。
(……ダメだ。ここじゃ、いつもの喧嘩は通用しない)
シオンは瞬時に状況を悟った。
ここは物理的な破壊力がものを言う世界ではない。自分たちの感覚を、記憶を、そして「老い」という抗えない肉体の綻びを容赦なく抉り出してくる、最悪の精神的死地だ。
『コチラデス。……出口ハ、コチラ。ハグレナイヨウニ、ツイテキテクダサイネ』
エメはカラン、コロンと下駄の音を響かせながら、霧の濃い回廊の奥へと歩き出す。
「……行くわよ、あんたたち。はぐれたら、それこそこの船の思う壺よ」
シオンは炎を収め、痛む膝をマントで隠しながら、顔のない少女の背中を追って歩みを進めた。
「姉御、本当にいいのか……?」
ハクが周囲を極度に警戒しながら囁く。
「ええ。どのみち、この悪夢のど真ん中を叩き潰さない限り、極道に安らぎはないわ」
濃霧が、背後から泥舟のクルーたちを完全に飲み込んでいく。
己の肉体が裏切る恐怖と、五感を狂わせる疑心暗鬼の霧。
『反逆の泥舟』に乗る極道たちは、過去最大の「見えない理不尽」に精神をすり減らしながら、和洋折衷の狂気の迷宮へと、その足を踏み入れていくのだった。
アウストラ大陸での超質量・超火力の激闘から一転。第九章の舞台は、音も光も奪われる『常闇の死海』と、そこを漂う狂気の城塞船。不気味なホラー要素が極道たちを襲います。
そして今回、最も恐ろしい変化として描かれたのが、シオンと龍崎に見られた「コンマ数秒の遅れ」です。
魔力や霧のせいだけではない、歴戦の肉体に蓄積された疲労と、誤魔化しきれなくなった「老いの兆候」。物理的な攻撃が通用せず、自分の体すらも思い通りに動かないという初めての恐怖が、彼らの精神をじわじわと追い詰めていきます。
案内人として現れた、顔のない少女エメ。彼女の正体とは何なのか。そして、疑心暗鬼の霧は、結束の固いファミリーの絆をどう歪めていくのか。
次なる第二部から、本格的なサイコホラー迷宮の探索が始まります。肉体と精神を削られる極道たちの、死の気配に満ちた新たな航海を、どうか息を潜めてお見守りください。




