第八章11『極限の個と、研ぎ澄まされた絶望』
シオンの全エネルギーを込めた右拳が漆黒の結晶体の胸部を撃ち抜き、決着がついたかに見えた深淵の闘技場。
しかし、アウストラ大陸の『泥の時代』が生み出した狂気は、その程度の理不尽で底をつくはずがなかった。砕け散った結晶の残骸は、周囲の高濃度な瘴気を爆発的に喰らい、より鋭利で、より純粋な殺戮の化身「第二形態」へと変異を遂げようとしている。
極限まで圧縮されたシオンの『極彩色の鎧』と、深淵が到達した究極の殺意。互いの魂と肉体を削り合う、次元の違う死闘の第二幕が今、切って落とされる。
ピキ……、パキィィィィィィンッ!!
空間という名のガラスが砕け散るような、耳障りな高音がすり鉢状の闘技場に響き渡った。
胸に巨大な風穴を開けられ、岩壁に縫い付けられていた漆黒の結晶体。その残骸を中心に発生した紫色の瘴気の渦が晴れた時、そこに立っていたのは、先ほどまでの人型すらも逸脱した「異形」であった。
無駄な質量は完全に削ぎ落とされ、全身が刃のように鋭利な漆黒の流線型へと変化している。両腕は肩から指先までが一体化した長大な「黒曜の凶刃」となり、背中からは瘴気を推進力として噴射する四つの光輪が赤黒く明滅していた。
だが、最も異質なのはその「気配」だった。
「……息が、できねェ……ッ!」
後衛で光の結界を展開していたカイルが、片膝を突いて激しく咳き込んだ。
「カイル! しっかりしてっ! ……でも、なんだろうこの重圧。結界は破られてないのに、心臓を直接握り潰されてるみたい……っ!」
リオナもまた、杖を持つ手をガタガタと震わせていた。
それは物理的な重力異常ではない。
第二形態へと進化した結晶体から垂れ流される「純粋な殺意」の波長が、生物の生存本能を直接バグらせて強制的に死の恐怖を植え付ける、極大のプレッシャー(威圧)だった。
「チッ……! 立ってるだけで精一杯たァ、どういう理不尽だ! 冗談じゃねェぞ!」
龍崎が丸太棍棒を杖代わりに地面に突き立て、全身の筋肉を軋ませながら辛うじて立位を保つ。
隣のハクも、冷や汗で顔をびっしょりと濡らしながら、両手の短剣を構えることすらできずにいた。
「龍崎、ハク! カイルたちと一緒に下がってなさい。今のあいつの射程圏内に入れば、あんたたちでも『一瞬で』挽肉にされるわ」
圧倒的な死の重圧が吹き荒れる闘技場の中心で、ただ一人。
極彩色の装甲を纏ったシオンだけが、涼しい顔で――否、極上の快楽を前にした捕食者のような獰猛な笑みを浮かべて立っていた。
「……素晴らしいわ。質量も、数も、一切の小細工も捨てて、ただひたすらに『斬り殺す』という目的のためだけに最適化された進化。……泥の時代の頂点に立つに相応しい、美しい刃よ」
シオンの紫の瞳が、背中の光輪を明滅させる結晶体と真っ直ぐに交錯する。
キィィィィン……ッ!
結晶体が両腕の凶刃を軽く交差させた、次の瞬間。
――音が、消えた。
「なッ……!? どこに……!?」
龍崎が目を剥く。闘技場の端にいたはずの結晶体が、文字通り「コマ送り」のように視界から完全に消失したのだ。
「遅いわよ」
シオンの声が響く。
直後、シオンの目の前――わずか数十センチのゼロ距離に結晶体が「出現」し、長大な黒曜の凶刃が彼女の首を刎ね飛ばそうと横一文字に振り抜かれていた。
背中の光輪による異常な推進力と、空気抵抗すら切り裂く流線型の肉体が生み出した、神速の斬撃。
ガキィィィィィィィィィィンッ!!!!
火山の噴火のような激突音が遅れて弾け飛び、シオンの足元の大地がドーム状に深く陥没した。
シオンは左腕の極彩色の装甲で、その神速の凶刃をギリギリのところで受け止めていた。装甲と凶刃が凄まじい勢いで擦れ合い、周囲に何万度という極炎の火花が嵐のように撒き散らされる。
「ククッ……! 重さはなくなったけど、その分、速度と切れ味は桁違いってわけね! 楽しいじゃないッ!!」
シオンは受け止めた左腕を弾き返し、同時に右拳を結晶体の顔面(と思われる滑らかな装甲)に向かって叩き込む。
しかし、結晶体は推進器を逆噴射させて空中で不可解な軌道を描き、シオンの拳を紙一重で躱すと、そのまま背後に回り込んで二撃目、三撃目の凶刃を放った。
ズバァンッ! ガガガガガッ!!
「ハハハハハッ!! いいわ、もっと速く! もっと鋭く来なさいッ!!」
シオンもまた、自身の極彩色の装甲から極炎の爆発を推進力として放ち、空中で凄まじい方向転換を繰り返しながら結晶体の連撃をすべて拳で迎撃していく。
光輪を放つ漆黒の流星と、極彩色の爆炎の軌跡。
二つの極限に圧縮された殺意が、闘技場の上空で縦横無尽に交差する。
もはやハクや龍崎の目にも、激突の瞬間に弾け飛ぶ火花と、遅れて届く衝撃波しか認識できない。闘技場全体が、二人の死闘の余波だけでミキサーにかけられたように粉々に砕け散り始めていた。
ギャリリリリリリリリィィィィィンッ!!!
赤黒い空を切り裂きながら、漆黒の流星と極彩色の爆炎が幾度となく激突し、そのたびに凄まじい衝撃波が闘技場のすり鉢状の壁を粉砕していく。
「……ハハッ! いいわ、最高にイカれた速度ねッ!!」
シオンは空中で強引に姿勢を捻り、背後から迫った結晶体の凶刃を右肘の装甲で弾き飛ばす。
しかし、弾かれたはずの結晶体は、背中の四つの光輪を不規則に明滅させ、物理法則を完全に無視した鋭角の軌道で即座に反転。シオンの死角へともぐり込み、両腕の黒曜の刃をハサミのように交差させて襲いかかる。
ズバァァァァンッ!!
「チッ……!」
シオンは間一髪で後方へ跳躍したが、交差した斬撃の余波が極彩色の鎧を薄く削り取り、彼女の頬に一筋の赤い線を描いた。
流れた血は、シオン自身が放つ超高熱によって一瞬で蒸発し、紫色の煙となって消える。
「姉御に……傷をつけただと!?」
地上で限界まで結界を維持しているカイルが、信じられないものを見たように目を剥いた。
「あの野郎、さっきからさらに速度を上げてやがる……! 姉御のカウンターを学習して、空中の軌道を最適化してやがるんだ!」
ハクがギリッと奥歯を噛み鳴らす。
結晶体には感情も、痛みへの恐怖もない。あるのは「目の前の障害をいかに効率よく殺すか」という、純粋すぎる闘争の演算機能だけだ。
シオンとの超高速の打ち合いの中で、結晶体は自らの機動力をさらに研ぎ澄まし、斬撃の軌道から一切の「無駄」を完全に削ぎ落としていた。
シュンッ、シュンッ、シュンッ……!!
不意に、結晶体が空中で分身したかのように、シオンの周囲に無数の「漆黒の残像」が展開された。
いや、残像ではない。あまりにも速すぎる移動の軌跡に、濃密な瘴気が焼き付いて空中に留まっているのだ。それはまるで、シオンを捕らえるために編み込まれた巨大な「黒い鳥籠」のようだった。
「……なるほど。点と点の激突じゃ私を殺しきれないと踏んで、面で制圧しに来たってわけね」
シオンは空中で静止し、周囲を完全に包囲した黒い鳥籠をぐるりと見渡した。
「ギィィィィィィィィィィン……ッ!!」
空間全体を震わせるような、金属的な共鳴音が響く。
それが合図だった。
シオンを囲む無数の残像が一斉に実体化し、全方位から一切の逃げ場を封じる「神速の刺突」となって、中心にいるシオンへと殺到した。
「姉御ォォォォォッ!!」
龍崎の悲痛な叫びが闘技場に谺する。
常人であれば、恐怖で目を閉じることすら許されない絶対の死地。
しかし、全方位からの殺意を浴びる中心で、シオンはマントの残骸を揺らしながら、狂気すら孕んだ獰猛な笑みを深く刻んでいた。
「その純粋な殺意、極道が真っ向から受け止めてやるわ!!」
シオンは防御を捨てた。
自身の身体の表面を覆っていた『極彩色の鎧』――極炎と紫電の莫大なエネルギーを、あろうことか一瞬で解除し、自身の「体内」へと完全に吸い込んだのだ。
ドクンッ!!
シオンの心臓が、大砲のような尋常ではない鼓動を鳴らす。
極限まで圧縮されたエネルギーを血流に乗せ、自身の筋肉、神経、そして細胞の一つ一つに直接「内燃」させる、自壊スレスレの禁じ手。
「『内燃式・黎の神速』……ッ!!」
シオンの全身の血管が紫色に発光し、彼女の紫の瞳が極炎のような真紅へと染まり上がる。
全方位から迫る結晶体の黒曜の凶刃が、シオンの肉体を貫こうとした――まさにその刹那。
ドバァァァァァァァァァァァァァンッ!!!!
闘技場の上空で、太陽が爆発したかのような極彩色の閃光が弾け飛んだ。
それは、結晶体の攻撃が直撃した爆発ではない。
リミッターを完全に外し、体内エネルギーを爆発させたシオンが、結晶体の「神速の包囲網」の内側から、それをさらに上回る『超神速の連撃』を叩き込んだ音だった。
ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガッ!!!!!
網膜を焼き尽くすほどの閃光の中、闘技場の中心で千の雷が一斉に落ちたような爆音が連続して弾け飛んだ。
全方位から殺到する結晶体の「神速の刺突」。そのすべてを、リミッターを外したシオンの拳と蹴りが、寸分の狂いもなく真正面から迎撃し、粉砕していく。
「あ、ありえねェ……! あの全方位攻撃を、全部『個人の動体視力と反射速度』だけで捌き切ってやがるのか!?」
強風に吹き飛ばされまいと地面にしがみつくハクが、絶望的な光景の中で唯一の希望を見るように叫ぶ。
シオンの全身からは、限界を超えた内燃エネルギーが紫色の蒸気となって凄まじい勢いで噴き出していた。
極炎と紫電を直接血管に流し込む自壊スレスレのオーバードライブ。筋肉の繊維が悲鳴を上げ、毛細血管が焼き切れるたびに、彼女の内に宿る『黎の魂』がそれを強制的に修復し、さらなる闘争の熱を注ぎ込む。
「ハハハハハッ!! 素晴らしいわ! でも、少し単調になってきたんじゃない!?」
無数の残像が織りなす黒い鳥籠の中で、シオンの紫の瞳が、一際濃い殺意を放つ「本体」の気配を正確に射抜いた。
「そこよッ!!」
シオンは迎撃の拳を止め、あえて無防備な胸元を晒して前傾姿勢をとった。
結晶体の演算機能が、それを「致命的な隙」と判断する。
四つの光輪を最大出力で明滅させ、音置き去りにした最速の凶刃が、シオンの心臓を一直線に貫こうと迫る。
シュガァァァァァァァンッ!!
凶刃がシオンの胸元を捉える直前。
彼女の姿が、揺らぐ陽炎のように「フッ」と結晶体の視界からブレた。
「ギ……ッ!?」
結晶体の赤いコアが、初めて驚愕のような明滅を見せた。
シオンは攻撃を避けたのではない。自らの内燃エネルギーを推進力として爆発させ、結晶体の神速をさらに上回る『超神速』で、刃の内側――まさにゼロ距離の懐へと潜り込んだのだ。
「あんたの殺意、確かに受け取ったわ。……お返しよッ!!」
シオンは腰の捻りと共に、全身のエネルギーを右の拳に極限まで一点集中させる。
紫電が螺旋を描き、極炎が拳を包み込む。
「『極彩・黎の崩拳』ッ!!!!」
ドゴォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
シオンの右拳が、結晶体の胸部――修復された赤いコアの中心に、完璧なタイミングで叩き込まれた。
接触した瞬間、闘技場の空気が圧縮され、次いで真空状態を引き起こすほどの大爆発が巻き起こる。
「ギ、ギァァァァァァァァァァァァァッ!!」
感情を持たないはずの結晶体が、空間を切り裂くような金属的な悲鳴を上げた。
胸部の赤いコアを中心に、絶対の強度を誇っていた漆黒の流線型装甲に無数の亀裂が走り、背中の光輪がボロボロと崩れ落ちていく。
ズギュゥゥゥゥゥゥゥンッ!!
拳から放たれた極彩色の破壊エネルギーが結晶体の肉体を貫通し、そのまま背後のすり鉢状の闘技場の壁を、上空の暗雲ごと一直線に吹き飛ばした。
「ガハハハハッ!! やりやがった!! さすがは俺たちの姉御だぜェッ!!」
龍崎が丸太棍棒を掲げて歓喜の雄叫びを上げる。
エネルギーの奔流が収まると、闘技場の端で、半身を吹き飛ばされた結晶体が地面に力なく崩れ落ちた。
両腕の長大なブレードはへし折れ、胸のコアは明滅を繰り返し、今度こそ完全に沈黙したかに見えた。
「ハァッ……、ハァッ……、ハァッ……」
シオンは右腕をだらりと下げ、肩で激しく息をしていた。
紫色の蒸気を上げる彼女の全身には、高熱による火傷と、筋肉の断裂によるおびただしい出血が見られる。リミッターを外した『内燃式』の代償は、決して軽いものではない。
「姉御! すぐにカイルの治癒魔法を……!」
ハクが駆け寄ろうとした、その時だった。
ドクンッ…………。
闘技場の地面深くから、不気味な心音のような振動が伝わってきた。
「……待ちなさい、ハク」
シオンが制止の声を上げ、血塗れの顔をゆっくりと上げる。その視線の先では、半身を失ったはずの結晶体が、ゆっくりと、不気味なほど滑らかな動作で再び立ち上がろうとしていた。
ピキ……ピキピキピキッ……!!
結晶体の砕けたコアから、赤いマグマのような液体がとめどなく溢れ出し、周囲の大地――アウストラ大陸そのものと繋がり始める。
「……まだ、終わらせてくれないってわけね」
シオンは痛む右腕を無理やり持ち上げ、再び極彩色の炎を宿した。
大地とリンクし、究極の絶望へと変貌を遂げようとする狂気を前に、極道たちの死闘はいよいよ最後の大詰めへと向かっていく。
全身を刃と化し、一切の無駄を省いた結晶体の「神速の包囲網」。その回避不能の殺意に対し、シオンは魔力を鎧として纏うのではなく、自身の肉体内部に直接流し込む『内燃式・黎の神速』という危険な切り札を切りました。
極限まで研ぎ澄まされた個と個の激突、速度と速度の純粋な殺し合いは、シオンの放った渾身の『崩拳』によって決着がついたかに見えました。しかし、闘争の歴史が刻まれたアウストラ大陸の深淵は、その程度の理不尽では止まりません。
大地そのものとリンクし、未曾有の絶望へと変貌しようとする結晶体。限界を超えたシオンと、彼女を支えるハク、龍崎、そして魔法組のカイルとリオナは、この混沌の大陸が突きつける「最後の理不尽」をどうやって喰い破るのか。




