第7話「白さまとの再会」
白水の審律へ向かう車の中で、わたしは何度も昔の記憶を思い出していた。
正確には、わたしの昔ではない。
元の水守なぎの記憶だ。
幼い頃、初めて白さまへ拝謁した日のこと。
母に髪を整えてもらい、普段より少し窮屈な服を着て、何度も礼の仕方を確認された。
白さまの御前では声を上げないこと。
許可なく近づかないこと。
白さまから言葉を賜ったときには、必ず礼をすること。
そして何より、失礼のないように。
当時のなぎは緊張していた。
怖かったわけではない。
むしろ、会えることを楽しみにしていた。
水守家は代々、水の白を守る家だ。
その役割について、幼いなぎは疑問を持っていなかった。
白さまは尊い。
白さまは特別だ。
白さまを守ることは、水守に生まれた者の誉れである。
そう教えられて、そのまま信じていた。
だから初めて日水九十九を見たとき、元のなぎは心から美しいと思った。
白い髪。
白い肌。
白い瞳。
人間とは明らかに違う姿。
水の降命者。
その姿を見ただけで、息をするのを忘れそうになった記憶がある。
今のわたしも、日水九十九が美しいということ自体は否定しない。
ただ。
その記憶を思い返すたびに、少しだけ引っかかる。
幼いなぎは、白さまを見た。
日水九十九という人を見たのかは、わからない。
「なぎ」
隣に座る母に呼ばれ、窓から視線を戻した。
「はい」
「今日は久しぶりでしょう?」
「そうですね」
「緊張してる?」
「少し」
嘘ではない。
元のなぎとしてなら、何度も会っている。
今のわたしとしては、ほとんど初対面に近い。
しかも、数日前に水守家で聞いた話が頭に残っている。
白さまへの外部接触。
刺激を避ける。
本人へ判断を仰ぐものではない。
あの会話。
「白さま、お元気ですか」
何気なく聞く。
母は少し考えてから答えた。
「お変わりないと伺っているわ」
「お変わりない」
「ええ」
「それって、元気という意味ですか」
母がこちらを見る。
「どうしたの、急に」
「別に」
窓の外へ目を戻す。
山へ近づくにつれ、街の建物が少なくなっていく。
白水の審律は、完全に外界から隔絶された場所ではない。
けれど、日常的に誰でも出入りできる場所でもなかった。
水の白を中心とした宗教共同体。
生活の場であり。
祈りの場であり。
白を守るための場所でもある。
車が門を通る。
外から見れば、古い寺社と現代的な施設が混ざったような場所だった。
石造りの道の向こうに白い建物があり、そのさらに奥には水路が続いている。
水の音がする。
元のなぎの記憶にもある音だった。
車を降りる。
少し冷たい風が吹いている。
白水の審律には、いつ来ても水気が多い。
人工的に引かれた細い水路が建物の間を走り、ところどころに浅い池がある。
水の白がいるからそうなったのか。
それとも、この土地そのものが先に水と結びついていたのか。
そのあたりの歴史も、記憶としては知っている。
でも今はどうでもよかった。
「水守さま」
迎えに来た女性が頭を下げる。
白を基調とした服を着ている。
「お待ちしておりました」
母が挨拶を返し、わたしも頭を下げた。
「本日は白さまもお目覚めでございます」
その言い方が少し気になった。
「お目覚め」
「はい」
女性は笑顔のまま答える。
「本日は朝からお加減もよろしゅうございますので」
加減がいい。
でも、「元気」とは言わない。
「なぎ」
母に小さく呼ばれる。
聞きすぎたらしい。
「すみません」
「いいえ」
女性は気にした様子もなく、こちらを案内していく。
建物へ入る。
廊下は静かだった。
人がいないわけではない。
ただ、話し声が少ない。
白さまがお休みになる場所だから、大きな音を出さないようにしているのだと、昔教えられた記憶がある。
歩きながら、何人かとすれ違う。
全員が母とわたしへ丁寧に頭を下げる。
そのたび、少し居心地が悪い。
わたしが水守だからだ。
ここでは、水守という姓だけで特別な意味を持つ。
白を守る家。
白の身辺へ近づくことを許された家。
その役割を、今のわたしはまだ自分のものとして受け入れられていない。
「こちらで少々お待ちください」
通された部屋で、母と並んで座る。
しばらくすると、お茶が運ばれてきた。
さらに数分待つ。
静かだ。
水の音だけが、どこか遠くから聞こえる。
やがて、襖の向こうで人の気配がした。
「白さまがお見えです」
反射的に姿勢を正す。
元のなぎの身体が覚えている動きなのかもしれない。
襖が開く。
最初に白い髪が見えた。
長く、柔らかく波打っている。
その髪を背へ流した女性が、ゆっくりと部屋へ入ってきた。
日水九十九。
21歳。
水の降命者。
白。
記憶の中で何度も見た人。
けれど、今のわたしが真正面から見るのは初めてだった。
本当に白い。
髪も。
睫毛も。
瞳も。
肌まで、わずかに青みを帯びるほど白い。
人間離れした美しさという言葉が、そのまま当てはまる。
でも、最初に思ったのは別のことだった。
眠そう。
九十九は、ひどく眠そうに見えた。
瞼が重い。
動作も遅い。
部屋へ入ってから用意された場所へ座るまでにも、ほんの少し時間がかかっている。
付き添っている女性が、さりげなく肘へ手を添えていた。
「白さま」
母が深く頭を下げる。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
わたしも続く。
「……久しぶり」
声がした。
顔を上げる。
九十九がわたしを見ていた。
白い目。
水面のような、不思議な色だった。
「はい。ご無沙汰しております」
元のなぎがよく使っていた言葉が自然に出る。
九十九はしばらくこちらを見た。
反応が遅い。
けれど、こちらを見ていないわけではない。
「大きく、なったね」
「……そうですか?」
「うん」
九十九の視線が少し下へ落ちる。
「でも、小さい」
思わず言葉に詰まる。
母が少し驚いたように九十九を見る。
付き添いの女性も、一瞬だけ目を丸くした。
白さまが冗談を言った扱いなのだろうか。
「153cmです」
わたしが答えると、九十九はゆっくり瞬きをした。
「そう」
「九十九さんは、168cmですよね」
言った瞬間。
空気が止まった。
母がこちらを見る。
付き添いの女性も。
部屋の端に控えていた人まで、わずかに顔を上げた。
九十九だけが、しばらく何も言わなかった。
「なぎ」
母の声が低くなる。
何がまずかったのかはわかる。
ここでは白さまだ。
日水九十九という名前を知らないわけではない。
でも、通常はそう呼ばない。
「……すみません」
謝ろうとした。
その前に。
「もう一回」
九十九が言った。
わたしは彼女を見る。
「何をですか」
「さっきの」
少し考える。
「168cm?」
「その前」
「……九十九さん?」
白い瞳が、わずかに細くなった。
「うん」
それだけだった。
怒ってはいないらしい。
むしろ、どこか納得したように見える。
付き添いの女性が困った様子で口を開く。
「白さま。そのお呼び方は――」
「いいよ」
九十九が言う。
静かな声だった。
大きくもない。
強くもない。
でも、付き添いの女性はそれ以上何も言わなかった。
わたしは少し迷う。
「九十九さんと呼んでも?」
「うん」
「わかりました」
母は何とも言えない顔をしている。
帰ったら何か言われるかもしれない。
でも、本人がいいと言っているなら、それでいいと思った。
九十九は、またわたしを見る。
「服、変わった」
今日は黒いパンツに白いシャツを着ている。
最近、自分で選んだものだ。
「はい」
「前は、もっと」
言葉が途中で止まる。
九十九は少し考えている。
「ひらひら」
「……ひらひら」
「してた」
少し笑いそうになった。
「ワンピースとかですね」
「たぶん」
「最近はこっちが好きです」
「自分で選んだ?」
夜也にも同じことを聞かれた。
なぜ皆、そこに気づくのだろう。
「はい」
「そう」
九十九はそれ以上何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ口元が緩んだ気がした。
母と付き添いの女性が話を始める。
今後の予定。
水守家から届けるもの。
白の健康状態について。
そのあたりは、大人同士の話だ。
わたしは九十九を見る。
九十九も、ときどきこちらを見る。
でも会話にはほとんど入らない。
「最近は安定しておられます」
付き添いの女性が言う。
「お薬もよく効いておりまして、夜間も十分お休みいただけております」
九十九本人ではなく、隣の人が答える。
「食事はいかがですか」
母が聞く。
「問題ございません。量は少なめですが、必要な分は召し上がっておられます」
また隣の人が答える。
「白さまも、お変わりありませんね」
「はい。大きな不調はございません」
九十九は黙っている。
自分の体調の話なのに。
わたしは少しだけ眉を寄せた。
すると、九十九と目が合った。
見られていた。
「なに」
九十九が聞く。
「いえ」
「変な顔してる」
また言われた。
最近、夜也にも同じことを言われた気がする。
「そんなに顔に出ます?」
「少し」
「……そうですか」
隣で母がこちらを見る。
「なぎ」
「大丈夫です」
「何か聞きたいの?」
母に尋ねられる。
少し考える。
聞いていいのかわからない。
でも。
「九十九さん」
「うん」
「体調、どうですか」
付き添いの女性がすぐに答えようとする。
「先ほど申し上げました通り――」
「九十九さんに聞いてます」
言ってから、少し強かったかもしれないと思った。
女性が黙る。
母もこちらを見る。
九十九は、しばらく何も言わなかった。
返事をするまでに時間がかかる。
でも、急かさず待つ。
白い睫毛がゆっくり下がる。
「……眠い」
やがて九十九が言った。
「今も?」
「少し」
「いつもですか」
「だいたい」
付き添いの女性が補足する。
「お薬の影響もございますので」
「そうなんですね」
わたしは九十九を見る。
「眠いの、嫌ですか」
また空気が少し変わった。
母が小さく息を呑む。
付き添いの人も、明らかに困っている。
でも、質問した相手は九十九だ。
九十九は黙っている。
長い。
その沈黙を埋めるように、付き添いの女性が口を開きかける。
けれど九十九が先に言った。
「……わからない」
「わからない?」
「眠くない時間が、少ないから」
その答えに、何も言えなくなる。
「前は?」
「前」
九十九が少し首を傾ける。
「もっと、小さい頃」
言葉を探している。
「起きてた気がする」
「そうですか」
「うん」
それだけで会話は止まる。
母がやんわり話題を変えた。
わたしもそれ以上は聞かなかった。
九十九が薬を飲んでいる理由は知っている。
原動の抑制。
覚醒の防止。
異形化の危険。
本人だけの都合でやめられるものではない。
だから簡単に「嫌ならやめればいい」とは言えない。
でも。
嫌かどうかを聞くことまで、してはいけないのだろうか。
少しして、お茶と菓子が運ばれてきた。
白い小さな団子だった。
九十九がそれを見て、ほんの少し表情を変える。
「好きなんですか」
聞く。
「うん」
「白いものが好きなんですか」
九十九がこちらを見る。
「それ、白だから聞いた?」
「少し」
「違う」
「違うんですね」
「味が好き」
「そうですか」
九十九は一本を手に取る。
動作は相変わらずゆっくりしている。
一口食べて、静かに咀嚼する。
その姿は、神聖というより普通だった。
甘いものを食べている21歳の女性。
それだけだ。
「なぎも食べる?」
「いいんですか」
「いっぱいある」
たしかに皿にはいくつも並んでいる。
一つ取る。
柔らかい。
甘さは控えめだった。
「おいしいですね」
「うん」
九十九が少しだけ笑う。
今度は見間違いではない。
ごく小さな笑みだった。
元のなぎの記憶にある白さまは、いつも遠かった。
御簾の向こう。
儀礼の中。
大人に囲まれて。
会話をするときも、決められた言葉を使う。
その人が団子を食べながら「いっぱいある」と言うところなんて、記憶にない。
「九十九さん」
「うん」
「普段、何してるんですか」
付き添いの人がまたこちらを見る。
でも今度は、何も言わなかった。
九十九は考える。
「本読む」
「どんなの」
「いろいろ」
「それだとわからないです」
少し間。
「水の本」
「それは仕事っぽいですね」
「仕事じゃない」
「じゃあ好きなんですか」
「……たぶん」
「他には?」
「昔の本」
「歴史?」
「それも」
「小説は?」
「読む」
「何が好きですか」
そこで九十九が少し困った顔をした。
「質問、多い」
「あ」
言われて気づく。
「すみません」
「別に嫌じゃない」
九十九は団子をもう一口食べる。
「でも、眠い」
「じゃあやめます」
「うん」
素直に会話を切る。
沈黙が落ちる。
気まずくはない。
水の音が聞こえる。
九十九は団子を食べる。
わたしはお茶を飲む。
しばらくして、九十九が先に口を開いた。
「なぎ」
「はい」
「前と違う」
まただ。
最近、何度も言われる。
「そうですか」
「うん」
「どこが」
九十九は少し考える。
「前は、わたしに質問しなかった」
「そうでした?」
「うん」
記憶を探す。
たしかに。
元のなぎは、白さまに対して自分から質問をすることが少なかった。
話しかけられれば答える。
何かを賜れば礼を言う。
でも、白さまが何を好きなのか。
何を読んでいるのか。
眠いのが嫌なのか。
そんなことを聞いた記憶はない。
「失礼でしたか」
「今が?」
「はい」
「わからない」
「わからないんですか」
「でも」
九十九がこちらを見る。
「今のほうが、楽」
胸の奥が少しだけ動く。
「楽?」
「うん」
それ以上説明はない。
でも、なんとなくわかる気がした。
白さまとして扱われる会話と。
日水九十九として話す会話。
同じではない。
「じゃあ」
わたしは少し迷ってから言う。
「これからも九十九さんって呼びます」
「うん」
「嫌になったら言ってください」
九十九が瞬きをする。
「嫌になったら?」
「やめてほしくなったら」
「言えば、やめる?」
「はい」
「ほんとに?」
「本人が嫌なら」
九十九はしばらくこちらを見た。
その目が、少しだけはっきりしたような気がした。
薬のせいでぼんやりしているはずなのに、その瞬間だけ。
「変なの」
「そうですか」
「みんな、白って呼ぶ」
「そうですね」
「わたしが嫌か、聞かない」
声は淡々としている。
怒っているようには聞こえない。
ただ事実を言っている。
「嫌なんですか」
聞く。
九十九はまた考える。
「……わからない」
「じゃあ、わかったら教えてください」
「うん」
それでいいと思った。
今すぐ答えがなくても。
好きか嫌いか分からなくても。
自分で考える時間があるなら。
少しして、母たちの話が終わった。
そろそろ帰る時間らしい。
「なぎ」
母に呼ばれる。
「はい」
立ち上がる。
九十九もこちらを見る。
「本日はありがとうございました」
頭を下げる。
以前なら、「白さまにお目通りいただき光栄でした」とでも言ったのかもしれない。
今は、その言葉を使う気になれなかった。
「団子、おいしかったです」
代わりにそう言う。
九十九が少し笑う。
「またある」
「そうなんですか」
「うん」
「じゃあ次も食べます」
言ったところで、母が少し困ったように笑った。
「なぎ」
「すみません」
帰ろうとする。
「なぎ」
今度は九十九に呼ばれた。
振り返る。
白い髪の女性が、こちらを見ている。
眠たそうな目。
静かな顔。
でも、今までより少しだけ意識がこちらへ向いているように見えた。
「また来て」
短い言葉だった。
付き添いの人が一瞬だけ九十九を見る。
母も。
わたしも少し驚いた。
「……来てもいいんですか」
聞き返す。
九十九は頷く。
「うん」
「九十九さんがいいなら」
「わたしが、いい」
その言葉に、少しだけ笑う。
「わかりました」
今度こそ頭を下げる。
「また来ます」
部屋を出る。
廊下へ出て、襖が閉じる。
歩き始めてすぐ、母がこちらを見た。
「なぎ」
「はい」
「今日はずいぶん積極的だったわね」
「そうですか」
「白さまにあれだけ質問するなんて」
「嫌がられてなかったので」
「それはそうだけれど」
母は少し考える。
「それに、九十九さんって」
「本人がいいと言いました」
「ええ。聞いていたわ」
「なら、いいんじゃないですか」
「……あなた、本当に変わったわね」
最近、そればかり言われる。
「悪いですか」
「そういう意味じゃないのよ」
母は小さく笑った。
「ただ、白さまがあんなふうに人を引き止めるの、珍しいから」
「そうなんですか」
「ええ」
少しだけ歩調が遅くなる。
「昔から、来る人を拒む方ではなかったけれど、自分から『また来て』なんて」
わたしは後ろを振り返った。
もう部屋は見えない。
白水の審律の静かな廊下が続いているだけだ。
また来て。
それだけの言葉。
でも、なぜか少し重く感じる。
車へ戻る途中、小さな水路の横を通った。
透明な水が流れている。
その上を、白いものが一つ飛んだ。
蝶かと思った。
でも少し違う。
白い蚕蛾に似た、小さなもの。
水の気配をまとっている。
それはしばらくわたしの近くを飛び、やがて建物のほうへ戻っていった。
「今の」
足を止める。
母が振り返る。
「どうしたの?」
「白い蛾が」
「ああ」
母は特に驚かなかった。
「白さまのものでしょう」
「九十九さんの?」
「ええ。ときどき出るのよ」
遠くを見る。
もう見えない。
元のなぎの記憶にもある。
白の水蚕蛾。
儀礼や伝達。
位置を知らせるときなどに現れる、水の原動の現象。
でも今の一匹が何のために出たのかはわからない。
ただ、少しだけ。
見送られたような気がした。
車へ乗り込む。
窓の外へ白水の審律が遠ざかっていく。
今日見た日水九十九を思い出す。
白い髪。
白い目。
眠そうな顔。
好きな団子。
本を読む。
薬のせいでいつも眠い。
嫌かどうかは、まだわからない。
それでも、「また来て」と言った。
神さまではなかった。
少なくとも、わたしにはそう見えた。
特別な力を持った。
周囲から大切にされている。
でも、自分のことを自分以外の人に説明されるのが当たり前になっている、一人の女性だった。
白さま。
水の白。
日水九十九。
全部、同じ人を指している。
でも、わたしが次に会うときは。
たぶん最初から、九十九さんと呼ぶと思う。




