第6話「晶守さまを押し返した女」
晶守家の当主を手で押し返すと、周囲の人間は青ざめるらしい。
そのことを知ったのは、わたしが実際に押し返したあとだった。
その日は、水守家で小さな集まりが開かれていた。
集まりといっても、親戚が集まって食事をするような気楽なものではない。晶守家に連なる家々から何人かが訪れ、白水の審律との今後の連携について確認するための、半分仕事のような場だった。
当然、15歳のわたしに中心的な役割はない。
ただ、水守家の娘として最初の挨拶だけはするよう言われていた。
学校から帰宅すると、家の中には普段より多くの人がいた。玄関には見慣れない靴が並び、廊下では使用人たちが忙しそうに行き来している。
わたしは制服のまま自室へ戻り、鞄を置いた。
着替えるべきか少し迷ったけれど、今日は母から「制服でいい」と言われている。
鏡の前で乱れた髪だけ直して、一階へ下りた。
応接間の手前まで行ったところで、中からよく通る低い声が聞こえた。
夜也だ。
声だけでわかるようになってきたのが、少し嫌だった。
別に嫌いという意味ではない。
ただ、この数日で聞く回数が増えすぎている。
最初に水守家でまともに話した翌日から、夜也はほぼ毎日のように何か送ってくる。
朝に一通。
昼に数通。
夜になると、思いついたことをそのまま送ってきたようなメッセージが増える。
内容も一貫していない。
仕事先で見かけた猫。
昼食。
晶烏の一羽が勝手に書類の上へ乗ったという話。
急に思いついたらしい質問。
わたしの学校生活について。
そしてときどき、
『今日なんか面白いことあった?』
という、答えに困るものまで来る。
こちらが「ありません」と返しても、
『ほんとに?』
と続く。
何を求められているのか、まだよくわからない。
でも、嫌なら言えと言われているので、忙しいときには普通に「今は無理です」と返すようになった。
すると本当に、その日は少し静かになる。
その代わり翌朝、
『今日は大丈夫?』
と来る。
意外と律儀だった。
「なぎさま」
使用人に呼ばれて顔を上げる。
「みなさまがお待ちです」
「はい」
応接間へ入る。
何人かの視線がこちらへ集まった。
知らない顔もある。
元のなぎの記憶にある人もいた。
父の隣には、水守家と長く付き合いのある親族。
向かい側には晶守家側の人間が数人。
そして、その中央に夜也がいた。
今日は濃紺の着物に袴だった。
洋装でも大きい人は、和装でも大きい。
座っている状態でも周囲より頭一つ抜けて見える。
夜也はこちらへ気づくと、すぐに笑った。
「なぎ。おかえり」
なぜこの家の人間のように言うのだろう。
「……ただいま戻りました」
そう答えてから、一応頭を下げる。
「本日はお越しいただき、ありがとうございます」
「学校帰り?」
「見ればわかるでしょう」
口から出たあと、周囲が少し静かになった。
しまったと思う。
最近、夜也と二人で話すときの調子が普通になりすぎていた。
ここには他の人もいる。
夜也だけは楽しそうに笑っていた。
「うん、制服だもんね」
「夜也さま」
父が軽く咳払いをする。
「なぎも学校帰りで疲れておりますので」
「わかってるって。ちょっと話しただけ」
完全にこちらを庇われた。
少し居心地が悪い。
わたしは用意された席へ座った。
その後しばらくは、大人たちの話が続いた。
わたしにはわからない内容ばかりというわけではない。
白水の審律。
水守家。
晶守家。
それぞれがどういう関係にあるのかは知識として理解している。
ただ、具体的な契約や人員配置の話になると、さすがに関係がない。
それでも退出を命じられない以上、黙って座っている。
夜也は真面目な話をしているとき、普段より声が低くなる。
言葉も少し遅い。
わたしへメッセージを送ってくるときの軽さはほとんどない。
相手の話を途中で遮ることもせず、必要な箇所だけ確認し、判断が必要な部分では迷いなく答える。
晶守家当主。
そう呼ばれている理由が、少しだけわかる気がした。
「現在の白さまの状態を考えれば、こちらとしては現状維持が妥当かと」
年配の男性が言った。
「刺激となる要素を不用意に増やすべきではありません」
「刺激って?」
夜也が聞く。
「外部との接触です。特に若い者との接触は、白さまのお心を乱す可能性もございますので」
白さま。
その言葉に少し意識が向く。
「本人は何て言ってるの」
夜也が聞いた。
男性が一瞬黙る。
「白さまご自身の判断を仰ぐようなことではございません」
夜也の指が、膝の上で一度だけ動いた。
「へえ」
それ以上は何も言わなかった。
ただ、その短い返事が少し冷たく聞こえた。
わたしは黙っていた。
白さま本人がどう思っているのか。
やはり誰も聞かないのだろうか。
元のなぎなら、この会話を聞いても疑問を持たなかった。
白さまは守られる存在だから。
周囲が安全を考えて決める。
それが当然だった。
でも今のわたしには、どうしても引っかかる。
その話は結論が出ないまま別の議題へ移った。
しばらくして休憩が入る。
使用人が茶を用意し、人の配置が少し崩れた。
わたしも席を立ち、窓際へ移動する。
長時間座っていたので、少し疲れた。
「なぎ」
背後から声がした。
振り返る。
近い。
まただった。
いつの間に移動したのか、夜也がすぐ後ろに立っている。
「……夜也さん」
「なに?」
「いつからいました?」
「今来た」
「もう少し音を出して来てください」
「ぼく、そんな忍者みたいだった?」
「大きいのに気配がないのでびっくりします」
夜也が笑う。
「大きいの関係ある?」
「あります」
「初めて聞いた」
夜也はそのまま、わたしの顔を見る。
最近わかってきた。
この人は、人の顔を近くで見る癖がある。
会話するときもそうだし、何か気づいたときほど距離が縮まる。
「なに考えてた?」
「何がですか」
「さっきの話」
夜也が少し腰を屈める。
186cmの人が153cmの人間と目線を合わせようとすると、自然にそうなる。
けれど、近い。
「白の話してたとき、ずっと変な顔してた」
「変な顔はしてません」
「してたよ」
さらに少し覗き込まれる。
夜也の瑠璃色の目が近づく。
「何が気になった?」
「……近いです」
「うん?」
「近いです」
言っても、夜也は少し首を傾けただけだった。
聞こえなかったわけではない。
たぶん、どの程度までが「近い」なのか見ている。
そう思った瞬間、少し面倒になった。
わたしは夜也の胸元へ片手を当てた。
着物の布越しに硬い感触がある。
そのまま、ぐっと押す。
「だから、近いです」
夜也の上半身が後ろへ戻った。
当然、本気で抵抗されたらわたしの力で動かせる相手ではない。
夜也が素直に押されたから下がっただけだ。
それでも。
周囲が、静まり返った。
茶器を持っていた使用人が止まっている。
少し離れた場所にいた親族の女性が、明らかに目を見開いていた。
晶守家側の若い男性に至っては、こちらを見ながら顔色を失っている。
わたしは夜也の胸元から手を離した。
「……何ですか」
誰も答えない。
夜也だけが、自分の胸元を見下ろした。
それから、わたしを見る。
一秒。
二秒。
やってしまったかもしれない。
元のなぎの記憶が、遅れて警告してくる。
相手は晶守家当主。
しかも人前だ。
身体へ勝手に触れたうえ、押した。
どう考えても行儀がいい行為ではない。
「すみ――」
「あはははは!」
謝る前に、夜也が笑い出した。
かなり大きな声だった。
周囲の空気と全く合っていない。
夜也は腹を押さえるほどではないものの、肩を揺らして本気で笑っている。
「……何で笑うんですか」
「いや、だって」
笑いながら、夜也がこちらを指す。
「ほんとに押すんだ」
「近いって言ったでしょう」
「言ってたね」
「二回言いました」
「うん。聞いてた」
「なら下がってください」
「あはは、そうだね。ごめん」
一応謝った。
でも笑っている。
わたしは少し腹が立って眉を寄せた。
すると、さらに笑われた。
「夜也さま」
さっきから青ざめていた晶守家側の男性が、恐る恐る声をかける。
「よろしいのでしょうか」
「何が?」
「その……」
男性の視線がわたしへ向く。
「水守家のお嬢さまが、今……」
「ぼく押されたね」
「はい」
「だから?」
夜也が本気でわからないという顔をする。
男性のほうが困ってしまった。
「その、晶守さまに対して」
「ああ」
ようやく意味が分かったらしい。
夜也は軽く肩を竦めた。
「別にいいよ。ぼくが近づきすぎたんだから」
「しかし」
「嫌だって二回言われてるのに下がらなかったぼくが悪いでしょ」
声は軽い。
でも、言っていることははっきりしていた。
男性はそれ以上何も言えなくなった。
わたしは夜也を見る。
「……怒らないんですか」
「なんで?」
「押したので」
「ぼくが?」
「はい」
夜也がまた少し笑う。
「これくらいで怒ってたら、当主なんかやってられないよ」
「そういう問題ですか」
「それに」
夜也は今度こそ距離を取ったまま、こちらを見る。
「ぼく、きみに嫌なこと嫌って言ってほしいし」
その言い方に、少しだけ黙る。
前に電話をしたときにも言われた。
嫌なら言っていい。
どうやら本気だったらしい。
「でも、押すとは思わなかった」
「言っても下がらなかったので」
「そこが最高」
「最高ではないです」
「ぼくは好きだよ」
また軽く言われる。
周囲の何人かが、別の意味でざわついた気がする。
わたしはすぐに言った。
「言い方が紛らわしいです」
「え?」
「人前なので」
一瞬、夜也がきょとんとした。
それから周囲を見回す。
ようやく自分の発言がどう聞こえたのか気づいたらしい。
「ああ。そういう意味じゃないよ」
「わかってます」
「なぎのそういうところが好きって話」
「それもあまり変わってません」
「あはは。細かいなあ」
また笑う。
周囲だけが振り回されている。
少し離れたところから父がこちらへ来た。
顔には笑みがあるけれど、目元が少し引きつっていた。
「なぎ」
「はい」
「夜也さまへ、もう少し言い方というものがあるだろう」
「近いので下がってください、ならよかったですか」
「そういうことではない」
「じゃあ何て言えば」
「いいっていいって」
夜也が父の言葉を遮る。
「ぼく、本当に気にしてないから」
「しかし夜也さま」
「むしろ面白かった」
「それが一番困るんですが」
父が小さく息を吐く。
珍しく、かなり疲れて見えた。
わたしは少し申し訳なくなる。
「……次からは押す前に、もう一度言います」
「三回目?」
夜也が聞く。
「はい」
「三回言ってもぼくが退かなかったら?」
「押します」
答える。
夜也がまた笑った。
父は目を閉じた。
休憩が終わったあと、わたしは早めに席を外すことになった。
怒られたわけではない。
もともと最後まで参加する必要がなかっただけだ。
自室へ戻る途中、廊下でさっきの使用人とすれ違った。
彼女はわたしを見る。
何か言いたそうだった。
「……何ですか」
「いえ」
「さっきのことですか」
「はい」
正直だった。
「まずかったですか」
聞くと、彼女はかなり答えに困った。
「晶守さまへあのようになさる方を、初めて拝見いたしましたので」
「そうなんですね」
「みなさま、少々驚かれたかと」
「怒られませんでしたけど」
「夜也さまでございましたから」
そこだけ妙に強く言われた。
他の当主なら違ったのかもしれない。
「今後は気をつけます」
「……そうなさるのがよろしいかと」
一礼して去っていく。
自室へ戻り、ベッドへ腰掛ける。
制服のポケットからスマートフォンを出した。
すでに通知が来ている。
まさかと思って開く。
『晶守さまを押し返した女』
夜也だった。
思わず眉を寄せる。
『誰のことですか』
既読。
『なぎ』
『やめてください』
『だって今日のあれ面白すぎた』
『周りの人が困ってました』
『みんな顔真っ青だったね』
『夜也さんのせいでもあります』
『ぼく?』
『近づくからです』
『ごめんって』
そのあと、少し間が空いた。
『でもさ』
『うん?』
まだこちらは何も送っていない。
勝手に続いている。
『なぎ、ぼく以外にもちゃんと言いなよ』
指が止まる。
『何をですか』
『近いとか嫌だとか、それは嫌とか』
しばらく画面を見る。
『言えるなら言います』
『言えないときもある?』
すぐには答えなかった。
あると思う。
この家では、まだわからない。
服くらいなら言えた。
夜也にも言えた。
でも、もっと大きなことになったら。
水守家のこと。
白さまのこと。
自分の将来。
結婚。
家の役割。
そういうものまで「嫌」と言えるのかは、わからない。
『たぶん』
それだけ返した。
夜也から来た返信は、いつもより短かった。
『そっか』
少しして、もう一通。
『じゃあ言えるようになったら言えばいいよ』
意外だった。
夜也なら「言えばいいじゃん」と簡単に返すかと思った。
わたしはしばらく画面を見た。
そして、
『はい』
とだけ返した。
これで会話は終わるかと思った。
終わらなかった。
『ところで明日学校何時に終わる?』
「……なんで」
声に出た。
『どうしてですか』
『近く行くから』
『何しにですか』
『仕事』
『なら仕事してください』
『終わったら迎え行こうか?』
さらに意味がわからない。
『運転手がいます』
『知ってる』
『じゃあ必要ないです』
『でもぼくの車のほうがかっこいいよ』
そういう問題ではない。
『遠慮します』
『えー』
『仕事してください』
『はいはい』
これで終わった。
翌日。
授業を終えて校舎を出ると、校門近くに妙に目立つ黒い車が停まっていた。
一瞬、嫌な予感がした。
いつもの水守家の車ではない。
車体にも見覚えがある。
後部座席の窓が下がる。
「なぎー」
聞き覚えのある低い声がした。
わたしは立ち止まった。
夜也がいた。
「……何してるんですか」
「仕事終わったから来た」
「遠慮するって言いましたよね」
「うん。だから乗らなくてもいいよ」
夜也は窓枠へ頬杖をついた。
「顔見に来ただけ」
「暇なんですか」
「忙しいよ」
「帰ってください」
「冷たいなあ」
そう言いながら、楽しそうに笑っている。
周囲では、下校中の生徒たちが明らかにこちらを見ていた。
夜也は公に顔が知られている。
気づいた人もいるのだろう。
小さなざわめきが起きている。
「目立ってます」
「そう?」
「そうです」
「じゃあ早く乗ったほうがいいんじゃない?」
「なんでそうなるんですか」
「あはは」
また笑われた。
結局、その日はいつもの水守家の車で帰った。
夜也は本当に追ってこなかった。
ただし、家へ着いた頃には、
『ちゃんと帰った?』
とメッセージが来ていた。
翌々日には、学校帰りに近くの店で買ったという菓子が水守家へ届いた。
その次の日には、夜也が使っているという文房具を「高校生なら使うでしょ」という理由で渡された。
さらに数日後には、晶烏が一羽、水守家の庭へ現れた。
黒く透き通った結晶の鳥が、わたしの部屋の窓辺へ降りる。
嘴には小さな紙が挟まれていた。
開く。
『見つけた』
その4文字だけだった。
「……何をしてるんですか、本当に」
窓の外へ向かって言う。
晶烏は首を傾げる。
もちろん返事はない。
その日の夜、夜也へ連絡した。
『晶烏を遊びに使っていいんですか』
返事は早かった。
『遊びじゃないよ』
『何ですか』
『なぎがどういう反応するかの確認』
『遊びじゃないですか』
『ばれた』
わたしはスマートフォンを伏せた。
あの日。
顔を近づけられて。
近いと言って。
それでも下がらなかったから、押した。
それだけだった。
わたしとしては、それだけのことだった。
けれど夜也にとっては、どうやら違ったらしい。
それ以来、明らかに構われる頻度が増えた。
メッセージが来る。
電話が来る。
水守家へ来れば必ず声をかけられる。
近くへ仕事に来れば、わざわざ顔を見せに来る。
晶烏まで飛んでくる。
水守家の人たちも、最初は戸惑っていた。
けれど一週間もすると、夜也から何か届いても、
「また晶守さまからですか」
と聞かれるだけになった。
慣れるのが早い。
わたしも人のことは言えなかった。
夜也から何も届かない日があると、夕方になって一度くらいスマートフォンを確認するようになっていた。
連絡が欲しいわけではない。
ただ、普段来るものが来ないと少し気になるだけだ。
そう思っている。
夜になって、机へ向かっているとスマートフォンが震えた。
画面を見る。
慈 夜也。
『今日忙しかった』
続けて。
『疲れた』
その次。
『なぎは今日どうだった?』
わたしは少し考える。
『体育がありました。疲れました』
送る。
すぐに返信が来た。
『何やったの?』
『体力測定です』
『結果は?』
『普通です』
『見たい』
『何をですか』
『記録』
『嫌です』
『なんで』
『嫌なので』
少し間が空く。
そのあと。
『了解』
それだけだった。
押しつけてはこない。
また別の話が始まる。
今日食べたもの。
仕事先で会った人。
晶烏が一羽、窓ガラスへぶつかったこと。
どうでもいい話ばかりだった。
でも、気づけば20分ほどやり取りをしていた。
最後に、
『じゃ、寝る前にちゃんと風呂入ってね』
と来た。
『入ります』
『おやすみ、なぎ』
『おやすみなさい』
画面を閉じる。
静かになった部屋で、一人になる。
机の端には、数日前に夜也からもらったペンが置いてある。
使いやすかったので、そのまま使っていた。
窓辺には、晶烏が置いていった紙もある。
捨ててもよかったけれど、なんとなく残っている。
慈夜也という人は、たぶん距離が近い。
物理的にも。
人間関係としても。
気になったものへ、自分からどんどん近づいていく。
でも、不思議なことに。
近いと言えば下がる。
嫌だと言えばやめる。
それがわかっているから、以前ほど警戒しなくなっている自分もいた。
ただし、油断するとすぐ近づいてくる。
そこは変わらない。
わたしは机に頬杖をつきながら、今日のメッセージをもう一度だけ開いた。
『きみ、前より面白いね』
何日か前に送られてきた言葉が残っている。
あの人にとって、わたしはまだ「面白いもの」なのだろう。
それでいいと思う。
今のところは。
少なくとも、元の水守なぎと違うことを理由に遠ざけられるよりは、そのほうがずっと楽だった。
そして後になって知ることになる。
この日、水守家と晶守家の一部では、わたしに妙な呼び名がついていた。
晶守さまを押し返した女。
本人であるわたしだけが、それをしばらく知らなかった。




