第8話「白さまは白玉を食べる」
白水の審律で行われる儀式は、思っていたより静かだった。
もっと大仰なものを想像していたわけではない。
元の水守なぎの記憶には、何度か似た儀式へ参列した経験が残っている。
だから、何が行われるのかもだいたい知っていた。
水路から引かれた清水。
白い布。
決められた順番で並ぶ人々。
低い声で唱えられる祝詞。
そして、その中心にいる白。
日水九十九。
知っている。
知っているはずなのに。
今のわたしとして見ると、以前とは少し違って見えた。
九十九は白い装束を身につけていた。
普段よりさらに人間らしさが薄く見える。
長い白髪は丁寧に整えられ、装飾の少ない衣が足元まで落ちている。白い睫毛の奥にある瞳も、周囲の水を映しているように淡い。
静かに立っているだけなのに、周りの空気が少し違うような気がする。
人々は九十九を見上げる。
頭を下げる。
声を潜める。
誰も彼女へ気軽に話しかけない。
そこにいるのは、日水九十九という21歳の女性ではなく、「白さま」だった。
水の降命者。
この土地の中心。
守られ、祀られ、恐れられているもの。
わたしも母の隣で座りながら、その姿を見ていた。
綺麗だと思う。
それは否定できない。
むしろ、普段の九十九を知ったあとでも、儀式の中に立つ彼女には思わず見入ってしまう。
水が動く。
誰も触れていないのに、九十九の周囲を流れる水だけがゆっくりと持ち上がる。
細い帯のようになって、白い衣の周りを巡る。
光を受けて揺れる水面が、壁や床へ反射していた。
人の手ではできない。
遺能とも違う。
原動。
降命者だけが扱う力。
九十九がわずかに指を動かすと、水がいくつもの小さな粒へ分かれた。
それらが宙へ広がる。
霧のように細かくなり。
やがて、白い蛾の形を取る。
一匹。
二匹。
十匹。
もっと。
水で形作られた白い蚕蛾が、九十九の周囲を静かに舞う。
声を上げる者はいない。
ただ、何人もの人がさらに深く頭を下げた。
元のなぎも、こういう光景を見るたびに胸が震えた。
白さまは人とは違う。
そう思っていた。
今のわたしも、人ではないという事実そのものを否定するつもりはない。
実際、目の前のものは人間にはできない。
それでも。
数日前、白玉に似た団子を食べながら「いっぱいある」と言った九十九の姿が、どうしても頭に浮かんでしまう。
神聖な光景の真ん中にいるのと。
甘いものを食べているのが。
同じ人だ。
少し変な感じがした。
儀式は1時間ほどで終わった。
最後に九十九が両手を重ねる。
宙を舞っていた水蚕蛾が一斉に形を崩し、細かな水滴になって落ちる。
水路へ戻っていくもの。
地面へ吸い込まれるもの。
空気の中へ消えるもの。
それが完全に見えなくなると、人々がゆっくり頭を上げた。
「本日の御役目、誠にお疲れさまでございました」
側にいた女性が九十九へ声をかける。
九十九は少し遅れて頷いた。
「うん」
声が小さい。
さっきまでの光景と比べると、急に普通だった。
「お疲れではございませんか」
「眠い」
「お部屋へお戻りになりますか」
「……その前に」
九十九が何かを言った。
小さくて聞こえない。
女性が少し屈んで聞き直す。
九十九はもう一度何か言った。
すると女性が、ほんの少し困ったような顔をした。
何を言ったのか気になる。
けれど、そこまで近くにはいない。
「なぎ」
母に呼ばれる。
「行きましょう」
「もう帰るんですか」
「挨拶だけしてからね。白さまもお疲れでしょうから」
「はい」
立ち上がる。
儀式のあいだ座り続けていたせいで、少し足が痺れている。
歩きながら九十九のほうを見ると、すでに何人かに囲まれていた。
体調を確認する人。
衣装を整える人。
次の予定を相談している人。
その中心で、九十九本人だけが眠そうにしている。
数日前と同じだ。
本人についての話を、周囲の人が本人より多くしている。
「なぎ」
「はい」
「見すぎよ」
「すみません」
視線を戻す。
母と一緒に廊下へ出る。
そのまま帰るのかと思ったが、今日は水守家側にも確認事項があるらしく、少し待つことになった。
「30分ほどで終わると思うわ」
「わかりました」
「ここで待てる?」
「大丈夫です」
小さな客間へ通される。
母は父の代理として別室へ行った。
一人になる。
窓の外には細い水路が見える。
儀式のあとだからなのか、さっきより人の往来が多い。
何もすることがないので、スマートフォンを見る。
夜也からメッセージが来ていた。
『今日白のとこでしょ?』
どうして知っているのだろう。
家同士で予定が共有されているのかもしれない。
『そうです』
すぐ既読になる。
『どうだった?』
『儀式を見ました』
『白きれいだった?』
『綺麗でした』
『でしょ』
なぜ夜也が得意げなのかわからない。
『夜也さんのことではないですよ』
『わかってるよ』
『ぼくも見たかったな』
『仕事は?』
『してる』
そう言いながら返信が早すぎる。
この人は本当に仕事をしているのだろうか。
そんなことを考えていると、廊下の向こうから声が聞こえた。
「白さま、こちらでお待ちください」
顔を上げる。
近い。
続いて、九十九の小さな声。
「うん」
わたしは少し迷ったあと、立ち上がった。
別に探しに行く必要はない。
でも、少し気になる。
扉を開けて廊下へ出る。
曲がり角の向こうに、さっき九十九についていた女性がいた。
「あら、水守さま」
「すみません。声が聞こえたので」
「白さまも、こちらで少々お休みになられます」
そう言って、女性が隣の部屋を見る。
襖が半分だけ開いていた。
「会ってもいいですか」
「白さまがお疲れでなければ」
「聞いてきます」
「あ」
女性が何か言う前に、わたしは襖のそばまで行った。
勝手に入るつもりはない。
「九十九さん」
呼ぶ。
中から返事がない。
眠っているのかもしれない。
もう一度呼ぼうか迷っていると、
「なぎ?」
小さな声がした。
「はい」
「入っていいよ」
言われて、襖を開ける。
そして。
少し止まった。
九十九がいた。
さっきまでの白い儀礼装束ではない。
もっと簡単な白い着物に着替えている。
長い髪も完全には整えられておらず、肩から前へ少し落ちていた。
そこまではいい。
問題は。
九十九が、小さな器を両手で持っていたことだった。
器の中には。
白玉。
白い丸いものが、いくつも入っている。
黒蜜もきなこもない。
透明に近い蜜だけが少しかかっている。
九十九は箸で一つ持ち上げて、普通に食べていた。
「……」
「なに」
九十九が聞く。
「いえ」
「見る?」
「見えてます」
「そう」
九十九はまた一つ白玉を食べる。
もぐもぐ。
神聖さがない。
いや、あるのかもしれない。
見た目だけなら十分綺麗だ。
白い髪の女性が、白い服を着て、白い器で白玉を食べている。
絵としてはかなり整っている。
でも。
白玉を食べている。
「……好きなんですね」
「うん」
「白玉」
「好き」
即答だった。
今まで九十九が何かを聞かれて、こんなに早く答えたことがあっただろうか。
「かなり?」
「かなり」
それも早い。
思わず口元が緩む。
「何で笑うの」
「すみません」
「変?」
「変ではないです」
「じゃあ、なに」
「さっきまで」
少し言葉を選ぶ。
「すごく神聖な感じだったので」
「今は?」
九十九が白玉を一つ持ったまま聞く。
「……白玉食べてます」
「うん」
「普通に」
「白玉だから」
答えになっているような、なっていないような。
わたしは少しだけ笑った。
九十九は不思議そうにこちらを見る。
「そんなにおかしい?」
「おかしいというか」
部屋の端に座る。
「白さまも白玉食べるんだなと思って」
言ってから、何か変な文章だと思った。
九十九も少し考える。
「白も、白玉食べる」
「はい」
「白いから?」
「何がですか」
「わたしが白玉好きなの」
「それは関係あるんですか」
「ない」
また即答だった。
笑ってしまう。
今度は、九十九も少し口元を緩めた。
「やっぱり笑ってる」
「九十九さんが面白いので」
「わたし?」
「はい」
夜也に言われている言葉を、そのまま別の人へ使う日が来るとは思わなかった。
九十九は自分が面白いと言われたことが珍しいのか、少しだけ首を傾けた。
「面白くないよ」
「自分ではそう思うんですね」
「うん」
白玉をもう一つ食べる。
ゆっくり噛んでいる。
意外と大事に食べる。
「一気に食べないんですね」
「なくなるから」
それはそうだ。
「また作ってもらえばいいんじゃないですか」
「毎日は出ない」
「そうなんですか」
「甘いもの、多すぎるとよくないって」
「それは普通ですね」
「普通?」
「はい。食べすぎはよくないので」
九十九が少し考える。
「白でも?」
「白でもです」
「そう」
なんとなく納得したようだった。
この人は、どこまで「白として特別扱いされること」を普通だと思っているのだろう。
食事。
睡眠。
薬。
外出。
人と会うこと。
きっと全部、本人以外の誰かが決めることに慣れている。
でも白玉の量まで管理されているのは、少しだけおかしかった。
「今日の儀式、疲れました?」
聞く。
「少し」
「原動を使ったから?」
「それも」
「他にも?」
「人が多い」
「ああ」
わかる。
わたしも人が多い場所はあまり得意ではない。
「みんな見ますもんね」
「うん」
「九十九さんのこと」
「白だから」
あっさり言う。
「嫌ですか」
九十九は箸を止めた。
前にも似た質問をした。
眠いのが嫌か。
白と呼ばれるのが嫌か。
そのときは、わからないと答えた。
今回も長い沈黙が来る。
「……疲れる」
やがて言った。
「嫌とは違う?」
「わからない」
「そうですか」
それ以上は聞かない。
九十九は少しして白玉をまた一つ食べた。
器の中に残っているのは三つ。
視線が一度、わたしへ向く。
「食べる?」
「九十九さんの好きなやつでしょう」
「いっぱいある」
「三つしかないですよ」
九十九が器を見る。
しばらく考える。
「……二つあげる」
「半分以上じゃないですか」
「なぎ、食べる?」
「一つなら」
「うん」
九十九が器をこちらへ差し出す。
自分で取ろうとした。
すると九十九は箸で一つ摘んだまま、手を止めない。
少し待つ。
「……取りますよ?」
「これ」
「はい」
わたしのほうへ箸が来る。
どうやら渡そうとしているらしい。
手を出す。
九十九が少し眉を寄せる。
「口」
「え」
「落ちる」
「手で取れます」
「蜜つく」
「……そうですね」
仕方なく少し身体を寄せる。
九十九が差し出した白玉を口に入れる。
柔らかい。
ほんのり甘い。
「おいしいです」
「でしょ」
九十九が少し嬉しそうに言う。
その表情を見て、また妙な感じがした。
数十分前。
何十人もの人間が頭を下げていた。
九十九が水を動かすたび、全員が息を潜めて見守っていた。
水蚕蛾が舞ったときには、神話の一場面みたいだった。
今、その同じ人が。
白玉を一つ分けただけで、少し嬉しそうにしている。
「九十九さん」
「うん」
「白さまって呼ばれてるときと、今で、けっこう違いますね」
九十九が瞬きをする。
「そう?」
「はい」
「なにが」
「今のほうが普通です」
「普通」
ゆっくり繰り返す。
「嫌でした?」
「別に」
九十九は残った白玉へ視線を落とした。
「普通って、よくわからない」
「わたしもよくわかりません」
「なぎも?」
「はい」
少し笑う。
「水守家の普通と、学校の普通も違うので」
「そう」
「だから九十九さんが普通かどうかも、正確にはわからないです」
「じゃあ、さっきの嘘?」
「嘘ではないです」
少し考える。
「神さまみたいには見えない、という意味です」
言ってから、失礼だったかもしれないと思った。
でも九十九は怒らなかった。
むしろ、少しだけ目を細めた。
「神じゃないよ」
「白さまなのに?」
「白だけど」
ゆっくり白玉を一つ食べる。
「神じゃない」
「みんな、かなり神さまみたいに扱ってますよ」
「みんながそうする」
「九十九さんは?」
「わたしは」
少し長く考える。
「わたし」
その答えが妙に単純で、胸に残った。
わたしは、わたし。
それだけ。
「そうですね」
「うん」
器には最後の一つが残っている。
九十九が見つめる。
食べる。
名残惜しそうに噛む。
「終わった」
「悲しそうですね」
「終わったから」
「また次ですね」
「次いつ?」
「わたしに聞かれても」
「水守ならわかる?」
「白玉の予定まで管理してないです」
九十九が少し笑った。
声はほとんど出ない。
息が漏れるような笑い方だった。
でも、前よりはっきりわかる。
この人は笑う。
白玉が好きで。
なくなると少し残念そうにして。
人が多いと疲れて。
質問が多いと「多い」と言う。
神聖な白さまという像が、少しずつ崩れていく。
それは悪い意味ではなかった。
むしろ、今まで見えなかったものが見えてきた感じに近い。
像が崩れたあとに。
人が残る。
「なぎ」
九十九に呼ばれる。
「はい」
「次、持ってきて」
「何をですか」
「白玉」
あまりにも当然の顔で言われる。
「持ってきていいんですか」
「だめ?」
「わたしじゃなくて、周りの人に聞かないと」
九十九が少しだけ不満そうな顔をした。
「わたしが食べるのに」
「それは、わたしもそう思います」
「じゃあ持ってきて」
「確認してからです」
「うん」
納得したのかしていないのかわからない。
でも、次に来る理由がまた一つ増えた。
そのあとすぐ、母が迎えに来た。
「なぎ。お待たせ」
「はい」
立ち上がる。
母が九十九へ深く頭を下げる。
「白さま、お休みのところ申し訳ございませんでした」
「大丈夫」
九十九が答える。
わたしも軽く頭を下げる。
「今日はありがとうございました」
「うん」
「白玉も」
「次」
九十九が言う。
母が不思議そうにする。
「次?」
「なぎが持ってくる」
母の視線がこちらへ向く。
「……何を?」
「白玉です」
答えると、母はしばらく黙った。
「白玉?」
「九十九さんが好きなので」
「それは存じているけれど」
「持ってきてほしいそうです」
母が九十九を見る。
九十九は普通に頷く。
「食べたい」
母は少し困った顔をしたあと、笑った。
「それでしたら、先方に確認してからにしましょうね」
「わかりました」
部屋を出る。
廊下を歩きながら、母が小さく笑っていた。
「何ですか」
「いえ」
「笑ってます」
「白さまと、ずいぶん普通に話すようになったと思って」
「そうですか」
「白玉を持ってきてほしいなんて、頼まれたの?」
「はい」
「珍しいわね」
「みんなに頼まないんですか」
「少なくとも、わたしは聞いたことがないわ」
少しだけ振り返る。
襖はもう閉じている。
「……白玉が好きなのに」
「白さまのお好みはみんな知っているわよ」
「じゃあ、いつも出せばいいのに」
「毎日好きなものだけ、というわけにはいかないでしょう」
「それはそうですけど」
少し考える。
「好きって言えばいいのに」
母は返事をしなかった。
車へ戻る。
今日の儀式を思い出す。
水。
白い蛾。
頭を下げる人々。
その中心にいた九十九。
そして、そのあと。
白玉がなくなって残念そうにしていた九十九。
どちらが本物なのだろう。
少し前のわたしなら、儀式の中にいるほうだと思ったかもしれない。
白さま。
尊い人。
人ならざるもの。
でも今は。
どちらも同じ人なのだと思う。
圧倒的な力を持っていることも。
神聖な象徴として扱われていることも。
白玉を食べて喜ぶことも。
全部、日水九十九の一部だ。
ただ、その中で。
周囲が最も大切にしている「白さま」と。
本人が何を好きで、何を嫌がるのか。
どちらが日水九十九にとって大切なのかは、まだわからない。
帰宅してから。
夜也へメッセージを返していなかったことを思い出した。
『白玉食べてました』
送る。
10秒ほどで既読になった。
『誰が?』
『九十九さんです』
『ああ』
少しして。
『白、白玉好きだよ』
知っているらしい。
『知ってたんですか』
『有名』
『そうなんですね』
『何その感想』
『儀式のあと普通に食べてたので、ちょっとびっくりしました』
『なぎ、白を何だと思ってたの』
指が止まる。
少し考えてから、入力する。
『白さまだと思ってました』
送る。
夜也から返事が来るまで、珍しく少し時間がかかった。
『そっか』
それだけ。
そして次。
『じゃあ今は?』
わたしは今日の九十九を思い出す。
白い装束。
水蚕蛾。
眠そうな顔。
白玉。
最後の一つがなくなったときの、少し残念そうな表情。
それから。
『九十九さんです』
送った。
夜也からは、
『それ、本人喜ぶと思うよ』
と返ってきた。
本当にそうなのかはわからない。
でも次に会ったら。
白さまではなく。
たぶんまた、九十九さんと呼ぶ。
そして、許可が出たら白玉を持っていく。
神聖な水の白へ供物を捧げるためではなく。
白玉が好きな日水九十九と、一緒に食べるために。




