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第9話「白さまの本棚」

 白玉を持って白水の審律へ行くことになるとは、少し前まで考えたこともなかった。


 しかも今日は、水守家から何かを届けるためでも、儀式へ参列するためでもない。


 日水九十九が食べたいと言ったから持っていく。


 それだけだった。


「本当にこれでいいんですよね」


 車の後部座席で、膝の上に置いた小さな保冷袋を見る。


 向かいに座っていた使用人が頷いた。


「先方にも確認しております。白さまのお食事に差し支えないものを、と」


「差し支えない白玉」


「はい」


 白玉一つにも確認が必要らしい。


 持っていく店も、材料も、量も、先方へ伝えられている。


 九十九が薬を飲んでいることを考えれば、食べ物に気を遣うこと自体はわからなくもない。


 それでも、自分が甘いものを食べるだけでこれだけ多くの人を経由する生活は、わたしには想像しづらかった。


 もっとも、水守家のわたしも人のことは言えない。


 今日だって自分で電車に乗って買いに行ったわけではなく、店には車で寄ってもらったし、会計のあとも袋は使用人が持とうとした。


 それだけは自分で持つと言った。


 理由は特にない。


 九十九に渡すものくらい、自分で持っていたかった。


 白水の審律へ着く。


 前回と同じように水の音がしていた。


 建物の間を流れる細い水路へ春の日差しが反射している。


 案内に来た女性へ頭を下げると、彼女はわたしの手元へ視線を落とした。


「そちらが」


「白玉です」


「ありがとうございます。お預かりいたします」


「あ」


 差し出される手を見る。


 少し迷った。


「自分で渡してもいいですか」


 女性が瞬きをする。


「もちろんでございます。ただ、白さまは現在、書庫にいらっしゃいますので」


「書庫?」


「はい。お読み物を」


 少し意外だった。


 前にも九十九本人から、本を読むとは聞いている。


 それなのに、わたしの中ではまだ、九十九が一人で本棚の前に座っている姿がうまく想像できなかった。


「お邪魔じゃなければ、そこへ行っても?」


「確認いたします」


「お願いします」


 先に使いの人が向かい、しばらくして戻ってくる。


「どうぞ、とのことです」


 案内されたのは、これまで九十九と会った部屋とは少し離れた場所だった。


 廊下を何度か曲がる。


 建物自体は古いが、中には後から改修されたらしい場所もある。その一角に、木製の大きな扉があった。


「こちらです」


 中へ入る。


 思っていたより広い。


 壁のほとんどが本棚になっていて、天井近くまで本が並んでいた。新しいものもあれば、背表紙が擦れて題名を読み取れないほど古いものもある。


 水や降命者についての資料。


 白水の審律そのものの記録。


 宗教関係。


 歴史。


 医学。


 外国語らしい本もある。


 そして、その奥。


 窓の近くに置かれた長椅子に、九十九がいた。


 今日は儀式用の服ではない。


 白に近い薄灰色のゆったりしたワンピースを着て、長い髪を簡単に後ろへ流している。


 片脚を長椅子へ少し上げ、膝に本を置いていた。


 こちらへ気づく。


「なぎ」


「こんにちは」


「きた」


「来ました」


 九十九が本を閉じる。


 視線がすぐにわたしの手元へ落ちた。


「白玉?」


「はい」


「ほんとに持ってきた」


「持ってきてって言ったじゃないですか」


「うん」


 少し嬉しそうだった。


 前回よりわかりやすい。


 わたしは近くの机へ保冷袋を置いた。


「食べるのはあとですか?」


「あと」


「今じゃないんですね」


「今、本読んでたから」


 九十九が閉じた本を軽く持ち上げる。


「何を読んでるんですか」


 近づいて、表紙を見る。


 知らない題名だった。


 かなり古い翻訳小説らしい。


 宗教書でもない。


 水に関係する学術書でもない。


 異能力についてでもない。


「小説?」


「うん」


「前に小説も読むって言ってましたね」


「言った」


「どういう話ですか」


 九十九は表紙を見下ろした。


「女の人が、いろんな町に行く話」


「旅行もの?」


「それだけじゃない」


「何するんですか」


「仕事して、お金なくなって、また働いて」


「現実的ですね」


「たまに事件に巻き込まれる」


「急に物騒になりましたね」


 九十九が少しだけ笑った。


 その顔を見てから、わたしは周囲の本棚へ目を向ける。


「ここにある本、全部九十九さんのですか」


「違う」


「審律のもの?」


「うん。昔のもいっぱいある」


 たしかに、九十九が生まれるより前からここにありそうな本が多い。


「じゃあ、この本も?」


「これは、わたし」


「九十九さんの?」


「わたしが選んだ」


 その言葉で、もう一度本を見る。


 特別な装丁ではない。


 少し古びた文庫本だった。


 白のために用意された貴重な資料でもなければ、誰かが教育のために選んだ本でもない。


 九十九が自分で選んだ。


「どこで見つけたんですか」


「一覧」


「一覧?」


「欲しい本、選べる」


「ああ」


 外へ自由に買い物へ行くわけではないらしい。


 候補が渡され、その中から選ぶ。


 それでも、これは本人の選択だ。


「好きなんですね、その本」


「三回目」


「三回読んでるんですか」


「うん」


「かなり好きじゃないですか」


「たぶん」


「そこは“たぶん”なんですね」


 九十九は本を膝へ戻した。


「好きって、どれくらいなら好き?」


 急に聞かれる。


「……難しいですね」


「三回読んだら?」


「少なくとも嫌いではないと思います」


「じゃあ好き」


「それで決めるんですか」


「なぎが言ったから」


「責任重大ですね」


 少し笑う。


 九十九も静かにこちらを見ていた。


 以前より、この人の表情がわかるようになってきた気がする。


 大きく笑うわけではない。


 驚いても声を上げない。


 でも、好きなものの話をするときは少し反応が早い。


 白玉のときもそうだった。


 本の話もそう。


「他には何が好きなんですか」


 近くの本棚を見る。


「小説で」


「いろいろ」


「またそれ」


「いっぱいあるから」


 九十九が立ち上がった。


 少しゆっくり。


 眠気のせいなのか、一度だけ椅子の背へ手を添える。


 けれど付き添いの人はいない。


 書庫の入口には人がいるのだろうが、少なくともこの部屋の中では九十九一人だったらしい。


 九十九は本棚へ向かう。


 わたしも後ろについていった。


「ここ」


 指された棚には、小説ばかりが並んでいた。


 海外の作品。


 古典。


 現代小説。


 題名だけ知っているものもある。


「こんなに読むんですね」


「時間あるから」


 何気なく返された。


「学校も、仕事もないし」


 わたしは黙る。


 本人は皮肉を言ったつもりではないのかもしれない。


 実際、その通りなのだろう。


 九十九には学校へ通った経験も、一般的な意味で仕事へ行く生活もない。


 白としての儀礼や役割はある。


 でも、一日の多くはここで過ごす。


「退屈ですか」


 聞く。


 九十九は本棚を見たまま少し考えた。


「わからない」


「またわからない」


「ずっとこれだから」


 以前、眠いのが嫌なのか聞いたときにも同じことを言っていた。


 眠くない時間が少ないから、わからない。


 外へ出ないことが退屈かどうかも。


 別の生活をほとんど知らないから、比べられない。


「でも、本は好き?」


「うん」


 今度は早い。


 少し安心した。


「どういうところが」


 九十九は棚から一冊引き出す。


 表紙を眺めながら答えた。


「知らないものあるから」


「知らないもの?」


「町とか。仕事とか。学校とか」


 指先が本の角を撫でる。


「人が勝手にどこか行くのも」


「勝手に」


「朝になって、今日はこっち行こうって決める」


 わたしは少しだけ九十九を見る。


 九十九は普通に本を眺めている。


 深刻な顔はしていない。


 だからこちらも、余計な意味をつけないようにした。


「そういう話が好きなんですね」


「おもしろい」


「じゃあ、旅行ものが好き?」


「旅行だけじゃないよ」


「さっきも言われました」


「うん」


 棚から別の本を抜く。


「これも」


 今度は学校が舞台の小説らしい。


「学園もの?」


「たぶん」


「たぶんって、読んだんですよね」


「学校がどこまで学校っぽいのか、わたしわからないから」


「ああ」


 それはそうかもしれない。


「じゃあ今度、学校の話します?」


 口にしてから、九十九がこちらを見る。


「いいの?」


「別に隠すようなことないので」


「授業とか」


「はい」


「教室」


「はい」


「休み時間も?」


「そんなに気になります?」


「気になる」


 今日は即答が多い。


「わかりました」


「制服も」


「制服はもう見たでしょう」


「もっと」


「もっと?」


「ポケットとか」


「そこですか」


 九十九が少し笑った。


 そういえば、服にポケットがあることを気に入るという設定が妙に似合いそうだと思う。


 わたしは自分のパンツのポケットへ手を入れる。


「こういうの?」


「うん」


「九十九さんの服にはないんですか」


 視線を落とす。


 今日着ているワンピースには見当たらない。


 九十九も自分の脇へ手を当てる。


「ない」


「不便じゃないですか」


「持つものない」


 それもそうなのかもしれない。


 スマートフォン。


 財布。


 鍵。


 交通系のカード。


 普通ならポケットへ入れそうなものを、九十九は日常的に持ち歩く必要がない。


「でも、あったら何入れます?」


「……白玉」


「つぶれますよ」


 思わず笑った。


「だめ?」


「おすすめしません」


「じゃあ本」


「大きすぎます」


「なにも入らない」


「小さいものにしてください」


 そんな話をしながら本棚を見る。


 不思議だった。


 前回までは、九十九に何か質問するたび、周囲が少し緊張していた。


 白さまにそんなことを聞いていいのか。


 そんな空気があった。


 今日は二人だけだから、それがない。


 聞けば、九十九が答える。


 時間はかかる。


 「わからない」と言うことも多い。


 でも、その返事を誰かに代わられることはない。


「なぎ」


「はい」


 九十九が最初に読んでいた本を持ち上げた。


「読む?」


「これ?」


「うん」


「貸してくれるんですか」


「読むなら」


「読みたいです」


 手を出す。


 九十九も本を差し出す。


 けれど。


 本が手のひらへ触れたところで、止まった。


 九十九の指がまだ離れない。


「……九十九さん?」


「うん」


「貸してくれないんですか」


「貸す」


「じゃあ離してください」


 言うと、九十九は本とわたしを交互に見た。


 何か考えている。


「返す?」


「借りたものなので」


「どうやって」


「どうやって?」


「返すの」


「次に来たときとか」


 言った瞬間。


 九十九の指が少しだけ緩んだ。


「来る?」


 静かな声だった。


「来ますよ」


「いつ」


「読み終わったら」


「どれくらい?」


 本を見る。


 それほど厚くない。


「一週間くらいあれば」


「一週間」


「たぶん」


「じゃあ、一週間?」


「きっちり一週間じゃなくても」


 九十九が黙る。


 なんとなく不満そうに見える。


「……来てほしいんですか」


 聞いてみる。


 白い目がこちらへ向く。


 少し長い沈黙。


 そして。


「本、返してほしい」


「それはわかってます」


「だから、来る」


「郵送でも返せますけど」


 言ってから、少し意地悪だったと思う。


 九十九が止まった。


 明らかに考えている。


「……それは嫌」


 小さく言った。


「どうして?」


「なぎが来ないから」


 答えたあと、九十九自身が少し不思議そうな顔をした。


 今、自分が何を言ったのか考えているように見える。


 わたしも、すぐには返さなかった。


 これまでの九十九なら。


 どちらでもいい。


 わからない。


 そう答えていたことが多い。


 今は「嫌」と言った。


 理由まで。


「じゃあ、持ってきます」


 そう答える。


「わたしが」


「うん」


 ようやく九十九の指が本から離れた。


 受け取る。


 紙の表紙が少し柔らかくなっている。


 三回読んだというのだから、九十九の手に何度も触れた本なのだろう。


「汚したらどうします?」


「別にいい」


「本好きなのに?」


「なぎが読むなら」


「それはよくわかりません」


「わたしも」


 本人もわからないらしい。


 机へ戻る。


 そろそろ白玉を食べようということになり、持ってきた袋を開けた。


 小さな器へ移してもらうため人を呼ぼうとしたら、九十九がそのままでいいと言った。


 結局、二人で保冷容器を覗き込む。


「前より多い」


「一人で全部食べる量じゃないので」


「なぎも食べる?」


「そのつもりです」


「よかった」


 九十九が一つ取る。


 今日は最初から二人分だった。


 前回のように、残り三つになってから分けてもらう必要はない。


「おいしい?」


 九十九が聞く。


「まだ食べてません」


「早く」


「急かさないでください」


 一つ食べる。


 前回のものとは少し違う。


 こちらも甘さは控えめだった。


「おいしいです」


「うん」


 九十九も満足そうに食べている。


 その横には、借りた小説が置かれている。


 白玉。


 本。


 学校の話。


 ポケット。


 一時間ほど前まで、どれも白水の審律へ来る目的になるとは思っていなかった。


 でも今は、こういうことでいいような気がしている。


 日水九十九という人を知るのに、原動や儀式の話ばかりする必要はない。


 むしろ、その人が何を読んで。


 何を食べて。


 何を面白いと思って。


 何を嫌だと言うのか。


 そちらのほうが、わたしには気になる。


 しばらくして、帰る時間になった。


 今日は母と一緒ではないので、迎えに来た使用人が入口で待っている。


「じゃあ、これ借ります」


 本を持ち上げる。


「うん」


「ちゃんと返します」


 九十九は頷く。


 それから、少し考えるように視線を落とした。


「なぎ」


「はい」


「返しに来る?」


 さっき確認したばかりだった。


 でも、もう一度聞く。


 たぶん本当に確認したいのは、本のことではない。


「来ます」


「自分で?」


「自分で持ってきます」


「うん」


 ようやく安心したように見えた。


「白玉は?」


「……またですか」


「だめ?」


「毎回持ってきてたら食べすぎになりますよ」


 九十九が少しだけ眉を下げる。


「先方に確認します」


「うん」


「許可が出たら」


「待ってる」


 その言葉が、本のことなのか白玉のことなのかはわからなかった。


 たぶん両方なのだろう。


 部屋を出る。


 廊下を歩きながら、借りた本の表紙を見る。


 古い。


 水守家にも本はたくさんあるけれど、他人から個人的に本を借りることは最近なかった。


 しかも相手は白さまだ。


 そう考えると少しおかしい。


 でも、「白さまから本を賜った」と考えるともっとおかしい。


 これはそんな大げさなものではない。


 日水九十九が好きな小説を、わたしに貸してくれた。


 読み終わったら返しに来てと言われた。


 それだけだ。


 車へ乗り込んでから、最初のページを開く。


 古い紙の匂いがした。


 端のほうに、小さな折り目がついている。


 誰かに丁寧に保管されるための本ではなく、本当に読まれてきた本なのだとわかる。


 数ページ読み進める。


 主人公の女性は、見知らぬ町へ着いたところだった。


 誰にも行き先を決められず、自分で宿を探している。


 わたしはそこで一度読むのを止めた。


 九十九がこの小説を三回読んだ理由を、勝手に決めるつもりはない。


 自由に旅をする人へ憧れているからだとか。


 自分にできないことが書いてあるからだとか。


 そういうふうに、本人に聞いてもいない理由をつけるのは違う気がする。


 九十九はただ、面白いと言った。


 今はそれでいい。


 また会ったときに聞けばいい。


 それも、本人に。


 わたしは本を閉じて、鞄へ丁寧にしまった。


 一週間後か。


 もっと早いか。


 まだわからない。


 でも読み終わったら、自分で返しに行こうと思う。


 白水の審律へ。


 白さまに会いに行くためではなく。


 本を貸してくれた九十九さんに、感想を伝えるために。

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