第10話「白の隣」
借りた本は、3日で読み終わった。
1週間くらいかかると思っていたけれど、読み始めると意外と早かった。
主人公の女性は、町から町へ移動する。
仕事をして、お金を貯めて、気が向けば次の場所へ行く。
途中で知り合った人としばらく暮らすこともあれば、何の説明もせず一人で旅立つこともある。
大きな目的があるわけではない。
世界を救うわけでもない。
特別な力があるわけでもない。
ただ、自分で次に行く場所を決める。
そういう話だった。
面白かった。
九十九が三回読んだ理由も、少しだけわかるような気がした。
でも、それを本人の気持ちだと決めつけるつもりはなかった。
本を読み終えた翌日。
わたしはそれを鞄へ入れた。
白水の審律へ行く予定は、2日後だった。
水守家から届けるものがあるらしく、それに合わせて九十九へ本を返すことになっている。
本だけなら郵送でも返せる。
でも、それは嫌だと本人が言った。
だから持っていく。
今回は白玉も用意してある。
毎回では食べすぎになると言ったものの、確認を取ったところ、今日は問題ないらしい。
随分大げさな確認を経た白玉だった。
白水の審律へ着くと、もう道順にも少し慣れてきた。
門。
水路。
白い建物。
静かな廊下。
初めて来たときにはどこを歩いているのかほとんどわからなかったのに、今では九十九がよくいる部屋までなら、案内がなくてもなんとなくわかる。
もちろん勝手に歩き回るわけにはいかない。
「本日は書庫ではなく、お部屋でお過ごしです」
案内の女性に言われる。
「寝てますか?」
「いいえ。先ほどお目覚めになられました」
「先ほど」
「はい」
昼を少し過ぎた時間だった。
薬の影響が強い日は、こういうことも珍しくないらしい。
「体調は?」
「問題ございません」
そう答えられてから、少しだけ考える。
「九十九さんもそう言ってます?」
女性が一瞬だけ止まった。
最近、こういう聞き方をするようになったせいか、向こうも少し慣れてきたらしい。
「白さまご自身も、特にお辛いところはないと」
「ならよかったです」
部屋の前まで案内される。
「白さま。水守なぎさまがお見えです」
中から少し遅れて声がした。
「……入って」
襖が開く。
九十九は窓際にいた。
低い椅子へ座り、外を見ている。
今日の服も白に近い。
ゆったりした長袖に、柔らかそうな長いスカート。
儀礼のときとは違い、髪も簡単に下ろされているだけだった。
わたしを見つけると、白い目が少しだけ開いた。
「なぎ」
「こんにちは」
「早かった」
「何がですか」
「本」
「ああ」
鞄から借りた小説を取り出す。
「読み終わりました」
「全部?」
「全部です」
「おもしろかった?」
「面白かったです」
九十九が手を出す。
本を渡す。
今度は、前回のように互いに離さない時間はなかった。
九十九は本を受け取ると、表紙を指で一度撫でた。
「どこ好きだった?」
「最後のほうです」
「最後?」
「主人公が、誘われた町に残らなかったところ」
九十九がこちらを見る。
「なんで」
「残ったほうが楽だったと思うんです」
「うん」
「仕事もあって、住むところもあって、一緒にいてほしいって言ってくれる人もいたので」
「うん」
「でも、自分はまだ行きたいからって出ていくでしょう」
九十九はしばらく黙っていた。
「そこが好き?」
「好きというか、印象に残りました」
「そう」
「九十九さんは?」
返ってくるまで少し時間がかかる。
「途中」
「どのあたりですか」
「雨の町」
思い出す。
「ああ。3週間くらい何もしないところ?」
「うん」
「そこなんですね」
「ずっと雨で」
「はい」
「宿にいて、本読んで、ごはん食べて、寝る」
「……九十九さんの生活にちょっと似てません?」
言うと、九十九が少し考えた。
「似てる?」
「少しだけ」
「でも、あの人は自分でいた」
短い言葉だった。
意味を考える。
雨の町へ留まったのも。
3週間ほとんど何もしなかったのも。
誰かから命じられたからではない。
主人公が自分でそうした。
「そこが好きなんですか」
九十九は、本へ視線を落とした。
「たぶん」
「なるほど」
それ以上は聞かなかった。
本人が「たぶん」と言うなら、それでいい。
「白玉もありますよ」
言うと、九十九がすぐこちらを見る。
反応がわかりやすい。
「ある?」
「あります」
「食べる」
「本より早いですね」
「なにが」
「反応」
九十九は少しだけ首を傾けた。
白玉については否定しなかった。
用意された小さな机へ、持ってきたものを置く。
今回は二人分が最初から別々の器へ分けられていた。
九十九が自分の分を見る。
「前より多い」
「今日はこの量ならいいそうです」
「誰が決めたの」
「……誰でしょう」
考えてみれば、わたしも正確には知らない。
「食事を管理してる人じゃないですか」
「そう」
九十九は少しだけ不満そうだった。
「少ないですか?」
「普通」
「ならいいじゃないですか」
「多くてもいい」
「それは食べすぎです」
「なぎ、そっち何個?」
「数えないでください」
「一個多い」
「同じですよ」
「ほんと?」
「ほんとです」
器を見せる。
九十九は確認して、納得したように白玉を一つ食べた。
この人は白玉のことになると、少し子どもっぽくなる。
儀式の中にいる姿しか知らなかった頃には、考えもしなかった。
「学校は?」
九十九が聞く。
「学校?」
「話すって言った」
「ああ」
前回、学校の話をすると約束していた。
「何が聞きたいですか」
「全部」
「全部は多いです」
「じゃあ、今日」
「今日は普通に授業でした」
「何の」
「国語と数学と英語と……」
時間割を思い出しながら話す。
九十九は意外と真面目に聞いている。
授業そのものより、細かいことを知りたがった。
席はどうやって決まるのか。
休み時間は何分なのか。
昼食を食べる場所は決まっているのか。
授業中に水を飲んでもいいのか。
トイレへ行きたくなったらどうするのか。
途中から、本当にそこが気になるのかと思うような質問まで出てくる。
「先生に言ってから行きます」
「行っちゃだめって言われたら?」
「たぶん余程じゃなければ言われません」
「余程って?」
「試験中とか」
「試験中は行けない?」
「行けますけど、いろいろ決まりがあると思います」
「めんどくさい」
「学校に行ったことない人から言われたくないです」
九十九が少し笑った。
「制服のポケットは?」
「まだ気にしてたんですか」
「うん」
「ありますよ」
今日は私服だったので、制服そのものは見せられない。
スマートフォンに写真が残っていないか探す。
入学式の日に母が撮ったものがあった。
「これ」
画面を見せる。
九十九が身を寄せる。
白い髪が肩から落ち、画面の端へかかりそうになる。
「これ、なぎ?」
「わたしですよ」
「髪、きれい」
「その日は一応ちゃんとしました」
「今は?」
「適当です」
「こっち好き」
今の髪を指しているらしい。
少し意外だった。
「どうして?」
「なぎが好きそうだから」
さらりと言われる。
わたしは少しだけ九十九を見る。
「そうですね」
「うん」
それだけだった。
そのあとも少し学校の話をした。
部活動。
教室。
購買。
学校帰りに寄り道している生徒。
九十九は特に、放課後の話へ興味を示した。
「終わったら、帰らなくていいの?」
「家には帰りますけど、その前にどこか寄る人もいます」
「勝手に?」
「普通は」
「なぎも?」
「わたしは今のところ、迎えがありますから」
「行きたい?」
急に聞かれる。
考える。
「わかりません」
「わからない?」
「まだ、そんなに行きたい場所もないので」
答えると、九十九が頷いた。
「同じ」
「何が?」
「行きたい場所、わからない」
わたしは少し黙った。
「外へ行きたいとは思います?」
九十九は答えなかった。
白玉を一つ食べる。
ゆっくり噛む。
「……たまに」
やがて言った。
「どこへ?」
「わからない」
「じゃあ、外なら?」
「たぶん」
「そうですか」
「でも、人多いの嫌」
「それはわかります」
「静かなところ」
「ありますよ」
「どこ?」
「いっぱい」
「たとえば」
聞かれて考える。
「公園とか。平日の昼なら人が少ないところもあるし」
「公園」
「図書館も静かです」
「本いっぱい?」
「いっぱいあります」
「ここより?」
「規模によります」
「行ったことある?」
「ありますよ」
「どんなところ?」
また質問が始まった。
図書館のことを説明する。
誰でも入れること。
棚から自由に本を取れること。
借りるにはカードが必要なこと。
返却期限があること。
館内では静かにすること。
「自分で選ぶ?」
「本を?」
「うん」
「自分で選びます」
「一覧じゃなくて?」
「棚を見て、好きなのを」
九十九が黙る。
少しだけ興味が強くなったのがわかる。
「行ってみたいですか」
聞く。
返事はすぐには来ない。
「……たぶん」
「たぶん」
「でも、行けるかわからない」
「そうですね」
簡単に「じゃあ行きましょう」とは言えなかった。
九十九の外出がどう管理されているのか、わたしはまだ詳しく知らない。
本人が行きたいと言えば、それだけで許されるとも思えない。
だから約束はしなかった。
「でも、九十九さんが行きたいってわかったなら、聞いてみてもいいんじゃないですか」
「誰に?」
「外出を決める人に」
九十九は少し眉を寄せる。
「わたしの外出なのに」
「……そうですね」
「変」
「わたしも変だと思います」
言うと、九十九はこちらを見た。
「なぎ、そういうこと言う」
「どういうことですか」
「みんな言わない」
「言わないほうがいいですか」
「ううん」
九十九は視線を落とした。
「言って」
短く答えた。
「わかりました」
白玉を食べ終える。
学校の話も一通り終わった。
それから、急に話すことがなくなった。
普通なら、少し気まずくなるのかもしれない。
何か別の話題を探す。
天気。
食べ物。
最近のこと。
でも、九十九は何も言わなかった。
窓の外を見る。
わたしも、そのまま黙っていた。
水の音がする。
部屋の外を人が通る気配。
遠くで鳥の声。
春の午後の日差しが、畳の上を少しずつ移動している。
九十九はさっき返した小説を開いた。
「また読むんですか」
「うん」
「四回目ですよ」
「うん」
それで会話は終わった。
わたしも鞄から学校の本を出す。
明日までに読んでおきたいところがあった。
向かい合う必要もないので、窓際の少し離れた場所へ座る。
九十九が本を読む。
わたしも読む。
ページをめくる音だけが、ときどき重なる。
何分経ったのかわからない。
10分かもしれない。
30分かもしれない。
途中で九十九が姿勢を変えた。
わたしも一度だけ伸びをした。
それだけ。
何も起きない。
誰かと同じ部屋にいて、これほど何も話さないことは珍しかった。
水守家では、人が部屋へ来れば何か用がある。
学校で隣に誰かがいれば、ある程度は会話をする。
夜也なら、10秒も黙っていない気がする。
でも九十九は違った。
こちらが黙っていても気にしない。
質問もしない。
何かをしてほしいとも言わない。
ただ同じ場所にいる。
不思議と楽だった。
元のなぎの記憶では、白さまと二人きりで沈黙することなどなかった。
そもそも、二人きりになること自体が少なかった。
白さまの前に出れば、きちんと座る。
話しかけられれば答える。
必要がなくなれば退出する。
目的のない時間はなかった。
今は違う。
九十九は本を読んでいる。
わたしも自分のものを読んでいる。
別に、二人である必要すらない時間だった。
なのに。
帰りたいとは思わなかった。
ページを一つめくる。
しばらくすると、視界の端で白いものが動いた。
九十九が本を持ったまま、少し身体を横へ倒している。
「眠いですか」
「少し」
「寝てもいいですよ」
「なぎ帰る?」
「まだ時間あります」
「どれくらい」
時計を見る。
「40分くらい」
「じゃあ寝ない」
「寝ても起こしますけど」
「起きなかったら?」
「起きるまで待ちます」
「ほんと?」
「時間が許せば」
「じゃあ寝る」
そう言って、九十九は本を閉じた。
本当に寝るらしい。
長椅子へ身体を横たえる。
白い髪が広がった。
わたしは少し困る。
「布団とかいらないんですか」
「いらない」
「寒くない?」
「平気」
返事がすでに遅い。
眠気が強かったのだろう。
数分もしないうちに、目を閉じた。
寝息はほとんど聞こえない。
薬の影響で眠ることが多いとは知っている。
でも、目の前で眠られると少し不思議だった。
警戒されていないということなのだろうか。
それとも、九十九にとっては誰がいても同じなのか。
わからない。
わたしはまた本へ目を戻した。
静かな時間が続く。
たまに九十九の髪が風で動く。
窓は少しだけ開いている。
外から入る風が気持ちいい。
40分は思ったより早く過ぎた。
迎えの時間が近づく。
本を閉じる。
九十九を見る。
まだ眠っている。
起こすと言った。
でも、よく寝ている。
少し迷った。
「九十九さん」
小さく呼ぶ。
反応はない。
「九十九さん」
もう一度。
白い睫毛が少し動く。
「……なぎ?」
目を開ける。
声が普段よりさらに柔らかい。
「起こしてすみません。そろそろ帰ります」
「帰る」
「はい」
九十九がゆっくり身体を起こす。
しばらくぼんやりしている。
髪が少し乱れていた。
「まだ眠いなら寝てください」
「なぎ帰るから」
「それはそうですけど」
九十九はしばらく黙っていた。
完全に目が覚めるまで待つ。
「今日」
九十九が言う。
「はい」
「なにもしてない」
「しましたよ」
「なに」
「白玉食べて、本の話して、学校の話しました」
「そのあと」
「ああ」
確かに。
後半はほとんど何もしていない。
「本読んでました」
「別々に」
「はい」
「わたし、寝た」
「寝ましたね」
「なぎ、いた」
「いました」
九十九は少し考えている。
「退屈じゃなかった?」
その質問が意外だった。
「別に」
「ほんと?」
「はい」
少し考えてから付け足す。
「むしろ楽でした」
「楽?」
「ずっと話さなくてもいいので」
九十九が瞬きをする。
「話さなくていい?」
「はい」
「来たのに?」
「来たからって、ずっと会話しないといけないわけじゃないでしょう」
「そうなの」
「少なくとも、わたしは」
九十九はしばらく黙った。
それから、ほんの少し口元を緩めた。
「わたしも」
「そうですか」
「静かなほうが好き」
「知ってます」
「言った?」
「なんとなくわかります」
立ち上がる。
鞄を持つ。
「じゃあ、今日は帰ります」
「うん」
「本、ありがとうございました」
「また貸す」
「おすすめあるんですか」
「いっぱい」
「じゃあ今度」
自然に言った。
今度。
また来ることを前提にした言葉。
九十九も気づいたのかもしれない。
「なぎ」
「はい」
襖へ向かいかけて振り返る。
九十九はまだ長椅子へ座ったままだった。
白い髪が少し乱れている。
眠そうな顔。
儀式の中心にいる白さまからは、随分遠い。
「また来て」
以前にも聞いた言葉だった。
初めて会い直した日にも言われた。
本を貸してもらったときにも、次に来るのか何度も確認された。
でも今日は。
白玉を持ってきてほしいとは言わない。
本を返してほしいとも言わない。
学校の話をしてほしいとも。
何も理由をつけなかった。
ただ。
また来て。
それだけだった。
「はい」
わたしも理由を聞かなかった。
「また来ます」
九十九が頷く。
部屋を出る。
廊下には付き添いの女性が待っていた。
「お帰りですか」
「はい」
「白さまは?」
「少し寝てました」
「まあ」
「今は起きてます」
女性が部屋へ入ろうとする。
その前に、ふと聞いた。
「九十九さんって、一人でいること多いんですか」
「白さまでございますか?」
「はい」
「お一人を好まれることもございますので。もちろん、すぐお呼びいただける場所には常に人がおります」
「そうなんですね」
一人が好き。
九十九自身もそう言っている。
静かな場所が好き。
本を読むのが好き。
なら、今日の時間も本当は一人のほうがよかったのではないか。
そんなことを少し考える。
でも。
また来て、と言われた。
それなら、少なくとも嫌ではなかったのだろう。
外へ出る。
水路に沿って歩く。
今日は水蚕蛾は見えなかった。
儀式もない。
特別な出来事もない。
白玉を食べた。
本の話をした。
あとは同じ部屋で、それぞれ別の本を読んだ。
九十九は途中で寝た。
本当に、それだけの日だった。
でも、不思議と今までで一番、九十九と一緒にいた気がした。
話した量なら、前回のほうが多い。
知ったことも、前回のほうが多かったかもしれない。
今日は新しい秘密を聞いたわけでもない。
白の力を見たわけでもない。
それでも。
隣にいて、何も求められない時間があった。
わたしも何も求めなかった。
白さまだから来たわけではない。
水守として役目を果たしたわけでもない。
九十九も、わたしに何かをさせるために呼んだわけではない。
ただ同じ部屋にいた。
それだけの関係もあるのだと、初めて知った気がした。
車へ乗る。
窓の外へ白水の審律が遠ざかっていく。
スマートフォンが震えた。
夜也だった。
『今日も白のとこ?』
返信する。
『そうです』
『何した?』
少し考える。
『特に何も』
すぐ既読がつく。
『何も?』
『途中から二人で本読んでました。九十九さんは寝ました』
数秒後。
『なにそれ』
『何ですか』
『ぼく相手には絶対そんな静かに過ごしてくれないじゃん』
少し笑う。
『夜也さんが喋るからでは』
『ぼくのせい?』
『かなり』
『ひどい』
そのあと何通か続いたけれど、画面を閉じた。
窓へ頭を預ける。
水守家へ帰ったら、今日の本の続きを読もうと思う。
次に九十九から何を借りるかは、まだ決めていない。
白玉を持っていけるかもわからない。
次に何を話すかも決めていない。
でも、それでいい。
話すことがなくなっても。
何もすることがなくなっても。
同じ場所にいていいのだと、今日わかったから。
そしてたぶん。
九十九の「また来て」は、もう次に何を持ってくるかという話ではなかった。
わたし自身に、また来てほしい。
そこまで考えてから、少しだけ違う気もした。
まだ、九十九本人もそんなふうには整理していないのかもしれない。
だから今は、勝手に意味を決めない。
次に行ったときも。
本人が言ったことを、そのまま聞けばいい。
また来て。
わたしはそう言われた。
だからまた行く。
今は、それだけで十分だった。




